フランツ・リストとはどんな人物?その生涯や逸話、エピソード、死因についてまとめ解説!!

    今回はフランツ・リストの生涯について解説します。

    ハンガリー出身のピアニスト・作曲家・指揮者だったリストは「ピアノの魔術師」や「人類史上最高のピアニスト」として知られ、「交響詩」という新しい分野を開拓したことでも有名です。

    筆者自身も最も好きな作曲家で、泣きながら「超絶技巧練習曲」に挑戦した思い出があります。今回のシリーズは少し長くなってしまうかもですが、お付き合いいただければ嬉しいです。

    前シリーズのホルストについてはこちらからどうそ!!

    フランツ・リストの生涯

    フランツ・リストの生涯を解説していきます。リストはハンガリーに生まれ、ハンガリー民族の誇りを生涯抱き続けましたが、肝心のハンガリー語は話せませんでした。

    フランツ・リストの生涯その1、神童として注目を集める

    フランツ・リストは1811年10月22日、オーストリア帝国領内ハンガリー王国ドボルヤーン(現オーストリア・ライディング)に生まれました。

    オーストリア領内に生まれたリストでしたが、父・アーダム(オーストリア系ドイツ人)と母・アンナ(南ドイツ人)はドイツ人であったため、家庭ではドイツ語が話されていたそうです。

    しかし生まれ故郷であるハンガリーを誇りにしていたリストは、ハンガリー人としてのアイデンティティを持ち続け、生涯に渡りハンガリー出身の作曲家を自称しました。

    5歳の頃から父の指導の元でピアノを始めたリストは、わずか10歳でコンサートデビューし、神童として早くから注目されるようになります。

    その後、ハンガリー貴族から資金援助を受けた一家は、リストにさらに専門的な音楽教育を施すためウィーンへ移住し、ウィーン音楽院ではピアノをカール・チェルニーに、作曲をアントニオ・サリエリに師事しています。

    チェルニーといえば、ピアノの練習曲で有名なあのチェルニーです。
    サリエリはモーツアルトとの関係で有名ですね。

    1823年(12歳)、今度はパリ音楽院への進学を試みたリストでしたが、「外国人である」という理由で入学を拒否され、その代わりとして、イタリア人作曲家フェルディナンド・パエールとアントン・ライヒャに師事しました。

    またこの時期、ウィーンで開いたコンサートでベートーヴェンと出会い、
    リストは大きな感動を得たと言われています。

    少年時代からヨーロッパ各地を演奏旅行で巡ったリストでしたが、そんなリストに不幸が訪れます。
    1827年、最愛の父・アーダムが病死すると、精神的ショックのあまり、リストは音楽家を辞めようとまで考えたそうです。

    しかし、家計や母を支えなければならなかったリストは、15歳でピアノ教師となり、多くの生徒を抱えることになりました(リストは教育者としても有名です)。

    フランツ・リストの生涯その2、超絶技巧に目覚めたリスト

    ピアノ教師や演奏家として生活していたリストに、1831年、大きな転機が訪れます。

    ヴァイオリンのヴィルトゥオーゾとして名高いニコロ・パガニーニの演奏に感銘を受けたリストは、「自分もピアノのパガニーニになる!!」と宣言し、これ以降、超絶技巧のピアニストを目指し始めます。

    パガニーニの主題による練習曲」や「超絶技巧練習曲」はまさに、パガニーニを目指した結果で生まれた作品だったのですね(作品紹介はシリーズ2つ目にします)。

    ヴィルトゥオーゾになると決めたリストのピアノ練習量は凄まじく「1日14時間」、あるいは「少なくとも4時間」は毎日ピアノ練習に励んだそうです。

    その結果類い稀なピアノテクニックを習得したリストは、ピアニストとして大変な人気を獲得し、容姿端麗だったこともあり、演奏中に失神するファンもいるほどの人気ピアニストとなりました。

    もしリストがパガニーニの演奏を聴いていなければ、今日のリストいなかったと言っても過言ではないでしょう。

    同時代の作曲家たち

    またこの頃、貴族のサロンに出入りを許可され、ショパンシューマンベルリオーズといった同時代の音楽家たちとの交流が盛んになり、ロマン主義全盛の時代を謳歌します。

    プライベートでは数多くの女性と関係を結び、とりわけマリー・ダグー伯爵夫人とは10年間を共にし、3人の子供を授かっています。

    その中の一人が、ハンス・フォン・ビューローの妻となり、のちにリヒャルト・ワーグナーの妻となるコジマ・ワーグナーです。

    しかし1844年、諸事情によりダグー伯爵夫人と決別したリストは、その後ウクライナ演奏旅行中に出会ったカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋仲となり、同棲するに至ります。

    気品溢れる公爵夫人と結婚を望んだリストでしたが、カトリックでは離婚が禁じられていることや、相続問題などが重なり、ついに結婚には至りませんでした。

    ラ・カンパネラ~ヴィルトゥオーゾ・リスト!

    フランツ・リストの生涯その3、ワイマール時代、作曲に専念し始める

    1848年、かねてから関係のあったワイマール宮廷と接近し、リストはワイマール宮廷楽長の地位を得ます。リストが招聘された理由は、当時の大公国の皇太子だったカール・アレキサンダーによる「芸術都市としてのワイマールの復興」が目的だったようです。

    その考えに賛同したリストはワイマールに移住し、作曲家・指揮者としての活動に専念するようになります。

    しかし、リストの作品は保守的なワイマール国民に受け入れられず、リストが指揮するコンサートでさえ空席が目立つこともしばしばでした。

    そんな中でも、この時期のリストは充実した作曲家生活を送り、「交響詩」の理論的確立や管弦楽曲、「ピアノソナタ ロ短調」、歌曲、宗教曲など数多くの名作を世に送り出しています。

    多くの名作を初演する

    また、ワイマール時代のリストの活動として無視できないのは「指揮者リスト」の功績です。
    特にワーグナーの歌劇を擁護したリストは、「タンホイザー」(1849年)、「さまよえるオランダ人」、「ローエングリン」(世界初演)などを取り上げ、ワイマールは徐々に世界最先端の音楽都市として認知されるようになります。

    その他、シューマンの「マンフレッド」や、ベルリオーズの劇的交響曲「ロメオとジュリエット」など、今日でも重要な作品の初演や演奏を行なっています。

    ワイマールにて10年ほど過ごしたリストですが、弟子のコーネリウスの歌劇が聴衆により妨害される事件や、既婚の貴族女性との問題が取り立たされ、1859年、カール・アレキサンダー大公の説得の甲斐なく、ワイマール宮廷楽長の職を辞することになりました。

    その後しばらくはワイマールにて生活を続け、1861年からイタリア・ローマにて活動の拠点を移します。

    フランツ・リストの生涯その4、ローマ時代

    50代となり宗教的感性を強めたリストは、次第にその作風にも変化が訪れます。

    それまでのような、交響詩や超絶技巧的作品から距離を置き、キリスト教を題材とした作品をさ作曲するようになります。

    その代表作が「2つの伝説」であり、第1曲集「小鳥に説教をするアッシジの聖フランチェスコ」、第2曲集「海の上を渡るパオラの聖フランチェスコ」はまさにこの時期のリストの精神性の高まりが表現された作品といえるでしょう。

    1869年、カール・アレキサンダー大公の申し出により、再びピアノ教師としてワイマールに居を構えたリストは、春はブダペスト、夏はワイマール、秋・冬はローマで過ごすという3都市生活を始めます。

    この生活スタイルについてリストも満足していたらしく、自身の生活について「三叉に分かれた生活」と称していました。

    若い作曲家たちを後押しする

    晩年のリストは教育者としても重要な役割をしており、気鋭の作曲家がワイマールに住むリストを訪ね作品を披露する、いわゆる「ワイマール詣で」が恒例行事として広く知られるようになりました。

    当時の若い作曲家にとって、世界的名声を獲得していたリストから評価されることが、何よりの後押しだったわけです。

    実際、リストは気に入った作品を自身の指揮で演奏することもあったので、リストの評価が作曲家のその後の進路を決定するということもあったのかもしれませんね。

    リストの元には、グリーグマスネビゼー、さらに少年時代のグラズノフといった、音楽史に名を残す作曲家が多数訪れています。

    フランツ・リストの生涯その5、晩年のリスト

    晩年になっても音楽への飽くなき探求を続けたリストの作品は、やがて現代音楽にも通じる「無調音楽」へと進化を遂げます。

    例えば晩年の代表作「エステ荘の噴水」は、その後のフランス印象主義に多大な影響を与え、その影響はモーリス・ラヴェルドビュッシーの作品に色濃く反映されています。

    生涯にわたり、作曲家・教育者として数多くの優秀な弟子を育てたリストでしたが、肉体的衰えには争うことができず、最後は心疾患や気管支炎、精神病(うつ病とも)、白内障などさまざまな病に苦しみながら生活していました。

    また、弟子のワインガルトナーの証言によれば、晩年のリストはアルコール依存症だったとも言われており、生涯独身だたったリストはどこかに寂しさを抱えていたのかもしれません。

    その後バイロイト音楽祭にてワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の終演後に体調を崩し、心筋梗塞のため(肺炎とも)、1886年7月31日の夜、74歳でこの世を去りました。亡骸は娘コジマの希望により、バイロイトに埋葬されています(現在は跡地のみ)。

    フランツ・リストの逸話やエピソードについて

    さすが「ピアノの魔術師」、エピソードや逸話には事欠きませんが、今回はその中から代表的な伝説をいくつか紹介します。

    エピソード1・キャラクターグッズの元祖?

    今でこそ、アイドルやキャラクターグッズが売られのは当たり前ですが、リストの時代にはまだそのような風習がありませんでした。

    しかし高身長かつ美青年、ピアノを弾かせたら世界一の超絶で、時には激しく、時には甘いメロディーを生み出すリストは、当時の貴族女性たちの心を鷲掴みにしていました。

    そこに目をつけたチョコレート会社が、「リストの肖像が彫られた」チョコレート販売すると、たちまちヒット商品となり、リストをメインキャラクターにした商品が次々と販売され始めます。

    チョコレートの他にも、肖像入りのステッキなどが販売されており、このことからリストはキャラクターグッズの元祖と見做されています(伝説っぽいけど)。

    エピソード2・超絶すぎて指が6本あると疑われる

    ヴィルトゥオーゾとしてその名を轟かせたリストには、「パガニーニによる大練習曲」、「超絶技巧練習曲」などの超絶技巧を要する作品が多数あります。

    今でこそ、さまざまな演奏家によって演奏されるため、それほど珍しいものではありませんが、当時の人々にとってはまさに「奇跡のような」演奏として映ったのではないでしょうか。

    そんななか、いつしか「リストには指が6本ある」という噂が出回るようになりました。もちろんそのような事実はありませんが、噂を信じる人も少なくなかったようです。

    エピソード3・ショパンのエチュードを初見で弾けず引きこもる

    エピソード2と若干関係していますが、頂点に達したリストの技術力は、「どんな作品でも初見(一度見ただけで)で演奏できる」領域にまで到達していました。

    しかしそんなリストでも、友人フレデリック・ショパンから渡された「12のエチュードOP10」を初見で弾きこなすことができず、一時パリから離れ、練習のために引きこもったそうです。

    そして数週間後に再を現したリストは、全てのエチュードを見事に弾きこなしショパンを驚かせました。

    その練習曲集がこちら↓

    コルトー版 ショパン 12のエチュード

    エピソード4・リストの演奏に耐えきれずピアノが壊れる

    リストが使用していた時代のピアノは、現代のピアノのように強度の強いものではありませんでした。

    そのため、リストの演奏中にピアノの弦が切れたり、ハンマーが壊れるというハプニングが相次いだそうです。そこでリサイタルでは、弦が切れた時の対応策として、常に予備のピアノを用意し、事故に備えていたと言われています(多い時には3台用意していたらしい)。

    また、ピアノメーカーのベーゼン・ドルファー🎹は、リストの演奏に持ち堪えたことで有名になりました。

    エピソード5・演奏以外で収入を得るのを嫌った

    演奏家が演奏以外で収入を得ることを嫌ったリストは、多くの生徒に無償でピアノを教えました。

    その指導方法は情緒や演奏者の個性を伸ばすことに重点を置き、技術についての指導は最小限にとどめていたと言われています。

    一方、ショパンは自分の作品が演奏されることさえ好きではなかったと言われていますね。

    それはさておき、リストは人格者としても知られ、「リストの弟子を自称するピアニスト」(たしか女性だったはず)を自宅に招きピアノを演奏させ、演奏後いくつかの問題点を指導した後「これで君はれっきとしたリストの弟子だね」と言ったというエピソードも残っています。

    エピソード6・伊藤博文と会っていた?

    実際に言葉を交わしたかどうかは不明ですが、リストと伊藤博文は面識があったのではないかと言われています(本当のところはわかりませんが)。

    当時伊藤博文は42歳。ドイツ憲法を学ぶためヨーロッパに派遣されていました。

    そんな中、1882年〜1883年頃、ワイマール公国で祝典が開かれ、明治政府代表として参加した伊藤博文と西園寺公望(きんもち)はリストの生演奏を聴き大変感銘を受けたと伝えられています。

    この時、どうしてもリストを日本に招聘したいと願った伊藤博文でしたが、国際情勢などの問題で、夢叶わずとなりました。

    フランツ・リストの生涯まとめ

    と言うことで、リスト第一回はここまでにします。もうちょっと分かりやすく書ければ良いなと思いますが、それは少しずつ改善していきます。

    リストは筆者がもっとも好きな作曲家なので、少し長めになってしまいましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。

    「読むの面倒くさ!」という方は、エピソードだけでも読んでいただけると楽しめるのではないかな〜と思います(個人的願望含む)。

    それでは次回は、リストおすすめ作品を紹介しますので、またまたお楽しみに!!。