ツェーザリ・キュイ(César Cui)は、19世紀のロシアにおいて、
音楽と軍事の両方で重要な役割を果たした人物です。
オペラ作曲家、音楽批評家としての顔を持ちながら、軍事学者としても名声を博しました。
この記事ででは、キュイの生涯を年代ごとに詳しく掘り下げ、彼の業績や影響を紹介します。
これでようやく「ロシア五人組」の紹介が完成!
とはいえ、いつもと変わらずのざっくり解説なので、
最後までご一読いただければ幸いです。
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ツェーザリ・キュイの生涯

「ロシア五人組」の中では、もっとも聴かれる機会の少ない作曲家ツェーザリ・キュイ。
しかし、彼の存在はロシア音楽の発展に大きな成果をもたらしました。
どちらかといえば「軍人が音楽活動をたしなんだ」という感じは否定できません。
しかし、メンバーとの関係や業績については、ぜひ知っていただきたい人物です。
ツェーザリ・キュイの生涯1:幼少期の影響と音楽教育
ツェーザリ・キュイは1835年、ロシア帝国のヴィルナ県(現在のリトアニア・ヴィリニュス)で生まれました。
彼はフランス系およびポーランド・リトアニア系のカトリック家庭に育ち、
五人兄弟の末っ子として誕生しました。
父親のアントワーヌ・キュイはナポレオン軍に参加し、ロシアに定住した経歴を持つ人物。
一方、母親のジュリア・グチェヴィチは地元の貴族出身であり、
その影響で、キュイの家庭は音楽に対して非常に開かれた環境だったようです。
この点については、同じ「ロシア五人組」のリムスキー=コルサコフの幼少期とは大きく異なりますね。
幼少期から、フランス語、ポーランド語、ロシア語、リトアニア語を学び、
語学の才能を発揮したキュイ。
その後、次第に音楽に興味を持ち始め、14歳の時には作曲を開始。
ショパンの作品を学ぶなど、音楽的素養を深めていきました。
また1850年には、著名な作曲家スタニスワフ・モニウシュコから音楽のレッスンを受ける機会に恵まれ、この時期の経験が彼の音楽的な方向性に大きな影響を与えています。
幼少期のエピソード
キュイは子供の頃からピアノを弾くことに夢中になり、家族の集まりで自作の曲を披露することもありました。このような体験が、彼の創作意欲を育む一因となったのだと考えられます。
ツェーザリ・キュイの生涯2:軍事キャリアのスタート
1851年、キュイはサンクトペテルブルクに移り、ニコライェフスキー工学アカデミーに入学。
ロシア帝国の軍事エリートを育成するための重要な機関に進学します。
そして、1855年に卒業後、軍事キャリアをスタートさせたキュイは、1857年には要塞の指導者としての職務に就くこととなりました。
彼の軍事教育は、露土戦争(1877-1878年)での前線任務を通じてさらに深まり、
ここで要塞に関する専門家としての地位を確立していきます。
ちなみに、露土戦争とはロシアとトルコとの戦争です。
また、キュイはニコライ2世を含む皇族や多くの軍人に教え、
1880年には教授の地位に昇進しました。彼の著作は、軍事教育において広く使用され、
複数の版が出版されています。
特に、要塞に関する教科書が非常に優れていたことから、
ロシア軍の教育システムにも採用されることとなりました
ツェーザリ・キュイの生涯3:音楽の道へ
1856年、キュイはミリィ・バラキレフと出会い、音楽活動に本格的に取り組み始めます。
バラキレフは、ロシア五人組の一員であり、キュイの音楽活動にとって大きな影響を与える存在でした。
軍人として活躍するかたわら、キュイは多くの作品を作曲し、
1859年にはオーケストラのスケルツォ作品1が初演。
そしてこの公演により、キュイは音楽家としてのキャリアをスタートしたのでした。
1869年にはオペラ『ウィリアム・ラトクリフ』が初演されますが、残念ながら成功にはいたらず。その後、ロシア語のテキストによるオペラを多く作曲し、特に『コーカサスの囚人』(1883年)や『マンダリンの息子』(1878年)は、彼の代表作として現在も知られています。
ツェーザリ・キュイの生涯4:音楽批評家としての活動
音楽批評家としても活動したキュイ。
彼の批評は好評を博し、ロシア音楽協会のメンバーとして、音楽界に影響を与えています。
特に、ムソルグスキーの遺作オペラ『ホヴァンシチナ』の拒否に抗議して、
マリインスキー劇場のオペラ選考委員会を辞任したことが知られています。
また、1896年から1904年までロシア音楽協会のサンクトペテルブルク支部の理事を務め、
音楽の普及に尽力しました。
彼の著作『ロシアの音楽』は、音楽界において高く評価され、
特にロシア音楽の発展に寄与しています。
キュイの批評は、当時の音楽家たちにとって重要な指針となり、
多くの若手作曲家に影響を与えたのです。
ツェーザリ・キュイの生涯5:家族と私生活
1858年、キュイはマルビナ・ラファイロヴナ・バンベルクと結婚。
彼女はアレクサンドル・ダルゴミジスキーの家で出会った歌手であり、
キュイは彼女に多くの音楽作品を捧げています。
二人の間には、リディアとアレクサンドルの二人の子供が生まれました。
キュイにとっての家庭生活は、創作活動にとって重要な支えとなり、
妻マルビナは彼の音楽活動を献身的にサポートしたと伝えられています。
家庭と音楽活動を両立させながら、家族との絆を大切にしたキュイ。
その後、リディアはアマチュアの歌手として活動し、
アレクサンドルはロシア上院のメンバーとして活躍しています。
家族は彼の音楽的な影響を受け、
子供たちは父親の音楽に対する情熱を引き継いだわけですね。
ツェーザリ・キュイの生涯6:晩年と死(死因)
名誉と家庭に恵まれたキュイでしたが、
やがて老齢になると、次第に体調を崩すようになっていきます。
そして1916年には、視力を失うという悲劇が襲ったのでした。
しかし、キュイの音楽に対する情熱は衰えず、
その後も口述によって小さな作品を作曲し続けます。
しかし、視力を失ってからおよそ2年後の1918年3月26日、
脳卒中によって倒れ、帰らぬ人となりました。
享年83歳という、当時としては大往生の人生でした。
葬儀ののち、妻マルビナと共にペトログラードの
スモレンスキー・ルーテル教会墓地に埋葬され、
その後、アレクサンドル・ネフスキー修道院のティフキン墓地に再埋葬されています。

ツェーザリ・キュイの豆知識やエピソードについて
ここまでキュイの生涯についてざっくりと紹介してきました。
「ロシア五人組」のメンバーだったことはご存じの方も多いでしょうが、
彼の人生については、あまり知らないという方が大半だと思います。
次に、キュイについての豆知識やエピソードを見てみましょう。
ツェーザリ・キュイの豆知識やエピソード1:評論家としての仕事が作品に影響する
他の「ロシアの五人組」の作品と比較すると、
キュイの作品がコンサートに登場することはほとんどありません。
しかし、彼はピアノ曲を始め、オペラや舞台音楽など多くのジャンルで作品を残しています。
特にオペラの作曲にはかなりの心血を注いでおり、
・『ウィリアム・ラトクリフ』
・『マンダリーナの息子』
・『海賊』(フランス語による)
などの作品を残しました。
肝心の評判はというと・・・。
残念ながら多くの作品が数回で打ち切りで、
成功とは言えなかったようです。
ただ、キュイの作品が成功とならなかったのは、
「他の作曲家の作品を酷評し続けたから」とも考えらる節があり、
もしかしたら、恨み節による結果だったのかもしれません。
豆知識やエピソード2:フランツ・リストに絶賛される
音楽において大きな成功を収めることができなかったキュイ。
しかし、ピアノの魔術師フランツ・リストはキュイの作品を絶賛しました。
以前から、ロシア音楽を高く評価していたリスト。
キュイの歌劇『ウィリアム・ラトクリフ』に感銘を受け、
最高の賛辞を送ったと伝えられています。
そしてリストの賛辞に対して、キュイは自身の著書『ロシアの音楽』を献呈。
さらにリストは、キュイの管弦楽曲『タランテラ』を自身のピアノ曲の原曲にして答え、
互いにその才能を認め合いました。
ちなみに、キュイの「タランテラ」は、リスト最後のピアノ・トランスクリプション曲の原曲となっています。
豆知識やエピソード3:音楽評論でも才能を発揮
上述したように、軍人、余暇作曲家、そして音楽評論家として活躍したキュイ。
とりわけ音楽評論に力を入れたキュイは、1864年から亡くなる1918年までの間に、
800本以上の論評を執筆したと言われています。
その内容は、ワーグナーによるバイロイト音楽祭の『ニーベルングの指環』初公演についてや、
大ピアニストアントン・ルービンシュテインの音楽講義についてなど、多岐にわたるものでした。
「ロシア五人組」については穏やかな論評だったようですが、
ときには、仲間内でも眉をひそめるような辛辣(しんらつ)な意見もあったようです。
このことからキュイが、忖度のない誠実な人物だったことがうかがえます。
辛辣で皮肉やだったサン=サーンスとは、少し趣きが違っていますね。
ツェーザリ・キュイの生涯:まとめ
今回は「ロシア五人組」の一人、ツェーザリ・キュイの生涯についてざっくりと解説しました。
作品そのものを聴く機会は少ないですが、
キュイの音楽活動は、同時代のロシアの作曲家にとって多大な影響を及ぼしています。
次回はキュイの作品について紹介しますので、
そちらも併せてお読いただければ幸いです。
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