ハイドンとはどんな人物?その生涯や豆知識、エピソードや死因を簡単にまとめ解説!

ハイドン

    この記事では「交響曲の父」として有名なヨーゼフ・ハイドン(以ハイドン)について解説します。

    バッハベートーヴェンなどと比べると、チョットだけ認知度が低いかもしれません。
    でも、ハイドンはあのモーツァルトが心から尊敬し、
    またベートーヴェンの作曲の師匠でもありました。

    モーツァルトの作品を聴いてみると、
    そこには、明らかにハイドンの影響がうかがえます。

    これだけでも、なんだかすごい感じがしませんか?
    ということで、今回は大作曲家を育てた大作曲家ハイドンについて解説します。

    いつも通りのざっくり解説なので、ぜひ気楽にお読みいただければ幸いです。

    本文の最後に、関連記事としてバッハとベートーヴェン、ヘンデルも掲載していますので、
    そちらも併せてお読みいただくと、より関心が高まると思います。

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    ハイドン

    ハイドンの生涯について

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    「交響曲の父」「弦楽四重奏の父」と呼ばれるハイドン。
    その生涯はまさに、音楽に捧げられた一生だったといえるでしょう。

    以外に知られていないことかもしれませんが、
    現在のドイツ国歌には、ハイドンの皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』のフレーズが用いられています。

    そんな偉大な作曲家はどのような人生を歩んだのでしょうか。
    今回もわかりやすく、ざっくりと紹介します。

    ハイドンの生涯その1、音楽教育と初期のキャリア

    フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(正式名です)は1732年3月31日、
    オーストリア大公国(当時)のニーダーエスターライヒ州に生まれました。
    大作曲家の家系は音楽家一家かと思いきや、
    父は伯爵に仕える車大工、母も伯爵のもとで料理を作る料理人でした。

    一般的な家庭に生まれたハイドンでしたが、早くから音楽的才能を発揮。
    6歳から音楽学校の校長をしていたマティアス・フランクのもと音楽を学び始めます。

    この時期の経験が、後の彼の音楽性の基礎を形成したと考えられています。
    8歳でウィーンのシュテファン大聖堂に入り、
    ゲオルク・フォン・ロイターの指導下で9年間過ごしました。

    ハイドンによる回想によると、フランクの元で過ごした日々は決して楽ではなかったそうで、
    空腹に喘ぐことや、清潔ではない衣服を着たりなど、屈辱的な経験も多かったとのことです。

    しかし、音楽の都ウィーンでプロの音楽家として働く経験は、
    ハイドンにとって非常に貴重なものとなりました。

    17歳で変声期を迎え、聖歌隊を解雇された後の8年間は、
    定職を持たない苦しい時期でした。

    しかし、この時期にハイドンは作曲を本格的に学び、
    特に大バッハの次男であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハに影響を強く受けています。

    また、メタスタジオやポルポラとの出会いもあり、音楽の幅を広げていったのでした。

    生涯その2、エステルハージ家での30年

    1756年、フュルンベルク男爵に音楽家として雇われたハイドンは、
    この時期から弦楽四重奏を作曲するなど、本格的な作曲活動を始めます。
    ハイドンの作曲スピードは凄まじく、交響曲を15曲、ピアノソナタや協奏曲、弦楽三重奏曲といった初期の作品を次々と生み出しています。

    その後1761年、ハンガリー有数の貴族エステルハージ家に雇われたハイドン。
    やがてエステルハージ家のお抱え楽団の副楽長に就任し、着々とそのキャリアを積み上げていきます。

    というより、ハイドンのキャリアの大部分がエステルハージ家に捧げられたといっても過言ではないでしょう。

    結局、30年近くエステルハージ家に使えたハイドンは、楽長に昇進し、
    楽団の発展に大いに貢献することとなりました。

    30年の間に作った作品で、特筆すべきは交響曲の作曲
    副楽長時代に約26曲の交響曲を作曲し、
    中でも『朝』『昼』『夕(晩)』の三部作や『交響曲第31番「ホルン信号」』は、
    この時期の代表作と言えます。

    また、オペラやマリオネット劇の音楽、『チェロ協奏曲第2番』『ピアノ協奏曲』を作曲したのもこの時期のことです。

    こうした経験が、後のハイドンの音楽スタイルの多様性につながったといっても過言ではないかもしれません。

    ハイドン ピアノ・ソナタ全集 1 (ウィ-ン原典版)

    生涯その3、ロンドン時代の詳細

    しかし1790年、支えていたエステルハージ家のニコラウス侯爵がこの世を去ると、
    ハイドンの立場は一気に危ういものに転じてしまいます。

    というのも、ニコラウスの後を継いだアントン・エステルハージ侯爵は音楽に関心を示さない人物で、音楽家のほとんどを解雇し、ハイドンも年金を与えられ実質解雇のような状態となってしまいました。

    しかしそんな時、イギリスでの音楽活動をオファーされたハイドン。
    二つ返事でイギリス行きを決定し、以降はロンドンにて大活躍することとなります。

    そういう意味において、1791年から1795年にかけての2回のロンドン訪問は、
    ハイドンの人生と音楽キャリアの転換点となったと言えるでしょう。

    ロンドンでは、すでにハイドンの音楽が人気を博しており、「ハイドンの作品が演奏されないコンサートはほとんどなかった」と称されていたそうです。

    この時期に作曲された「ロンドン交響曲群」は、
    ハイドンの交響曲の集大成と言えるもので、特に第94番『驚愕』、第100番『軍隊』、第103番『太鼓連打』、第104番『ロンドン』は、今も人気作品として頻繁に演奏されています。

    また、弦楽四重奏曲第74番(第59番)『騎士』ピアノ三重奏曲第25番『ジプシーロンド』なども、この時期の重要な作品です。

    ちなみに、最初のロンドン訪問の際(1790年〜1792年)、ドイツのボンにて若き日のベートーヴェンと運命的な出会いを果たしました。

    生涯その4、宗教音楽への傾倒、そして晩年

    ロンドンでの大成功を機にイギリスへの移住を考えたハイドン。
    しかし、ウィーンへ戻ることを決意し、再びエステルハージ家の楽長に就任します。

    1793年、ウィーン郊外のグンペンドルフに終の住処(すみか)を建てると、
    晩年はこの地にて音楽活動を行なっています。

    そしてこの時期から宗教音楽に力を入れ始めたハイドンは、
    1796年から1802年にかけて「後期六大ミサ」を作曲。
    また、オラトリオ『天地創造』『四季』は、当時大きな成功を収めました。

    晩年も旺盛な作曲意欲を持ち続けたハイドンでしたが、
    年齢とともに次第に体調が悪化していきます。

    1803年には容態の悪化が顕著となり、脱力感やめまい、脚の腫れなどに苦しんだそうです。また、詳しい診断結果はわからないものの、動脈硬化を患っていたようで、
    次第にその体は衰弱し始めます。

    そして1809年5月31日、ナポレオンのウィーン侵攻によって占領されたウィーンにて、
    77歳でこの世を去りました

    同月10日には、フランス軍がウィーンを攻撃し、ハイドンの自宅近くも砲撃にあい、4発の銃声が聞こえてきたと伝えられています。
    その際、怯える人々に対しハイドンは次のように励ましたそうです。

    「子供たちよ、恐れるな!ハイドンがいるところなら、危害は及ばない!」

    ハイドンの死の翌月、ショッテン教会にて追悼式が行われ、
    式では先だったモーツァルトの『レクエイム』が演奏されました。

    ハイドンの霊廟

    出典:wikipedia:アイゼンシュタットにあるハイドンの霊廟

    ハイドンのエピソードや豆知識

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    音楽に生涯を捧げ、偉大な足跡を残したハイドン。
    そんなハイドンには多くのエピソードが残されています。

    そこで今回は、その中から明日話せるエピソードや豆知識を3つ紹介します。

    ハイドンのエピソードや豆知識その1、死後に頭部が切り離された?

    ハイドンにはチョット怖いエピソードが・・・。
    それはなんと、ハイドンの死後、骨相学に興味を持つ刑務所管理人ヨハン・ペーターと、
    ハイドンを崇拝する元書記ローゼンバウムが彼の頭部を切り離したというもの。

    その理由は、頭蓋骨を研究し、音楽的才能と脳の構造の関連を調べようとしたためだったとか。この事実が発覚し、警察が捜索に乗り出したものの、当時は本物の頭蓋骨は見つけられませんでした。

    その間、「ハイドンの頭蓋骨が顎をカタカタ鳴らしながら、うなり声を上げて飛び回った」という怪談も生まれたそうですよ。

    長年にわたり所有者が変わった後、およそ150年後の1954年になってようやく頭蓋骨はウィーン楽友協会から返還されました。

    現在は、アイゼンシュタットで本来の胴体と共に埋葬されています(引用写真を参照)。

    ハイドン:協奏曲全集(6枚組)

    ハイドンのエピソードや豆知識その2、モーツァルトも尊敬したハイドン

    音楽史上最高の天才と称されるモーツァルト。
    一般常識では測れないような才能を持っている反面、数々の奇行の持ち主としても知られています。

    しかし、そんなモーツァルトもハイドンに対しては心から敬意を示していました。
    二人が出会ったのは、1781年の頃。モーツァルトが24歳〜25歳の時のことでした。

    モーツァルトはハイドンの人柄やその作品を深く愛し、
    「ハイドン・セット」と呼ばれる6つの弦楽四重奏を献呈しています。

    二人の関係は1791年にモーツァルトが亡くなるまで続き、
    モーツァルトの死後、ハイドンは残された子供の進学の面倒までみたそうです。

    参考までに「ハイドン・セット」も紹介します👇

    モーツァルト「ハイドン・セット」
    ハイドン:交響曲集

    ハイドンのエピソードや豆知識その3、質素な人格者

    生前のハイドンは、善良で謙虚、そして高潔な人物として人々に尊敬されていました。
    また、ユーモアのセンスも備えており、周囲には常に人が集まるような人物だったとのこと。

    しかも、どれほど成功しても贅沢はあまりせず、質素な生活を好んでいたといいます。

    弟子のベートーヴェンがハイドンの生家の絵を見た際、
    「あれほど偉大な人物がこれほど粗末な小屋に生まれたとは!」といったいう有名なエピソードがありますが、ハイドンの謙虚さや高潔さは、幼少期の生活によって培われたのかもしれません。

    ハイドンの生涯まとめ

    今回は「交響曲の父」であるヨーゼフ・ハイドンを解説しました。
    誰もが知っているモーツァルトやベートーヴェンに大きな影響を与えたというだけでも、
    ハイドンの偉大さがわかりますね。
    弟のミヒャエル・ハイドンについてもいずれ執筆予定ですので、しばらくお待ちください。

    この記事を通じて、少しでもハイドンの生涯や作品に興味を持っていただければ幸いです。
    また、同時期に活躍したバッハやヘンデルも知っておくと、
    バロックや古典派への理解が開かれるかもしれません。

    以下の記事も併せてご参考ください!
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    ハイドン
    ベートーヴェンの肖像

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