ロベルト・シューマンとはどんな人物?その生涯や豆知識、エピソードや死因を簡単に解説!!

    今回はロベルト・シューマンの生涯について紹介します。

    前回のシューベルトの記事はこちらです。
    ということで、これから4回にわたりロベルト・シューマンについて解説します!!

    ロベルト・シューマンとはどんな人物?どんな生涯?

    ロベルト・シューマン(以下シューマン)はどのような人生を送ったのでしょうか。『トロイメライ』など、ロマンティックな作品を数多く作曲したシューマンですが、その人生は波乱に満ちたものでした。

    ロベルト・シューマンの生涯、その①〜幼少期〜

    ロベルト・シューマンは1810年6月、旧ザクセン王国のツヴィッカウに生まれました。父アウグストは書籍出版業を営み、母ヨハンナは詩やピアノを嗜む人物だったそうです。

    両親ともに芸術に理解があったため、シューマンは幼いころから文学・音楽に関心を示しました。7歳からピアノの手ほどきを受けたシューマンは、幼くして楽才を発揮し、早くも作曲も開始しています。

    そしてこの頃ウェーバーが指揮するベートーヴェンの交響曲を聴いたことに大きな感銘を受けたそうです。この頃ってまだベートーヴェンもシューベルトも存命だったので、直に作品を聴いた時の感動は現代以上のものだったのかもしれませんね。

    そして、音楽と同じくらいシューマンの関心を引いたのは文学の存在でした。これはもちろん両親の影響があるのは間違いないでしょう。

    こうしたことから、音楽に文学的要素を取り入れたロマン派」の確立には、シューマンの存在は欠かすことができなかったと考えられます。

    シューマンの作品に「歌曲」が多いのは、シューマンがいかに文学に対して情熱を捧げていたかの表れでもあります。

    ロベルト・シューマンの生涯、その②〜ギムナジウム時代〜

    父の意向で6歳から4年間、家庭教師をつけて初等予備学校で学んだシューマン。予備学校修了後、10歳でギムナジウムに進学します。ちなみにギムナジウムとはヨーロッパの中等教育機関を指します。

    ギムナジウムに進学したシューマンは、リーダー的人物だったようで、校内演奏会やオーケストラ合唱団を編成し、定期的に演奏会を主催していました。またこの頃のシューマンはハイドンモーツァルトベートーヴェンに傾倒していたそうです。

    そしてギムナジウム進学後も自作の詩や戯曲を発表するなど、文学への情熱は冷めることがなく、シューマンは音楽と文学の2つの分野に類い稀な才能を発揮します。また、15歳の頃にはギムナジウムの「ドイツ文学」サークルに入会し、シラーゲーテホフマンなどの作品を耽読しました。

    なかでもドイツの作家ジャン・パウルに対するシューマンの熱中ぶりは凄まじく、自分よりも傾倒の度合いが低い人物を容赦無く敵対者とみなしていたそうです。ジャン・パウルは日本では『陽気なヴィッツ先生』や『巨人』などの作品で知られていますね。

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    ロベルト・シューマンの生涯、その③〜大学時代〜

    音楽と文学と芸術的才能に恵まれたシューマン。普通に考えると、芸術家の道を進むかと思いきや、母の意向によりライプツィヒ大学で法律を専攻することになります。

    しかし、当然ながら法律の授業には馴染めず(芸術と対極にある学問な気がする)、次第に授業に出ることも少なくなっていきます。1828年3月にギムナジウムを卒業し、4月に大学へ進学したもものの、5月には意気投合した仲間たちとドイツ旅行に出掛けてしまいます(余程つまらなかったのでしょうね)。

    一見すると若気の至りのように思いますが、この旅行でシューマンは大きな収穫を得ることになります。それは、ミュンヘン滞在中に詩人ハインリヒ・ハイネに出会ったことでした。

    文学を愛し、自らも作品を発表することもあったシューマンにとって、この出会いは相当な喜びだったと思われます。シューマンが、ハイネの詩に多くの作品を付けたのも、この頃の感動があったからに他なりません。

    法律の勉強が余程退屈だったのか、母へ宛てた手紙の中で「冷徹な法学を好きになれない」と書き送り、やがて音楽への道へと進み始めます。

    そしてこの頃、ピアノ教師をしていたフリードリヒ・ヴィークと出会い、師事することになります。このヴィークの娘がのちにシューマンの妻となるクララでした(出会った当時9歳)。この出会いが、後のシューマンの人生にとって大きな事件となるとは、この時のシューマンは知る由もありません。

    ヴィークの助けもあり、音楽家への道を志したシューマンですが、間もなくヴィークとの折り合いが悪くなり、物別れに終わってしまいます。そして、ピアノの練習に明け暮れたシューマンでしたが、無理な練習が祟り右手の指が思うように動かなくなってしまいます

    この原因として、シューマン自身が創作したピアノ練習用の機械で指をダメにしたという説がありますが、現在では、当時シューマンが服用していた薬(水銀)による副作用が原因とも考えられています。また、右手の不調と同時に重い眼病にも罹っており、それもピアニストの道を諦めざるを得なかった一因かもしれません。

    その後、ピアニストの道を断念したシューマンは、作曲家・評論家として生きていくことを決意します。

    作曲家としてのロベルト・シューマン

    ロベルト・シューマンの生涯、その④〜評論家、作曲家として〜

    上記のように、指の損傷によりピアニストの道を断念したシューマン。

    しかし、シューマンの活躍は「ピアニストを諦めたこと」で輝き始めます。
    作曲家の道を歩み始めたシューマンは、同時に評論家としても優れた才能を発揮したことで知られています。評論家としてのシューマンの功績で特に注目すべきことは、ライプツィヒの「一般音楽新聞」において、ピアノの詩人フレデリック・ショパンを紹介したことでした。

    ショパンの卓越した才能をいち早く見出したシューマンは、『一般音楽新聞』に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」と紹介し、ショパンの出現に賛辞を送りました。

    また、当時の評論家批評のレベルに不満を抱いていたシューマンは、1830年代初期から友人や音楽仲間たちと新しい音楽雑誌の創刊を試み、1834年に『新音楽時報』を創刊しています。

    この雑誌は現在も刊行されており、シューマンは創刊から1843年までの9年に渡り編集者、筆者として活動しました。

    シューマンは『新音楽時報』の中で興味深い試みをしています。この雑誌の中でシューマンは「ダヴィド同盟」という架空の団体を立ち上げます。この団体の目的は、「既存の古い価値観に対する挑戦状」を突きつけるためでした。

    シューマンはこの団体に架空の人物「フロレスタン」や「オイゼビウス」を登場させ、この2人のペンネームを用いて評論活動を展開しています。

    つまり、「架空の団体に登場する架空の人物に、シューマンの考えや意見を言わせた」ということですね。『新音楽時報』の成功により、シューマンは作曲家としてよりも「評論家シューマン」としてその名声が高まります。

    シューマンのピアノ曲に『ダヴィド同盟舞曲』や『謝肉祭』などがありますが、これらの作品は、まさにシューマンが評論家として活躍していたことと強い関係があったのです。

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    ロベルト・シューマンの生涯、その⑤〜クララとの結婚〜

    シューマンの人生を解説する上で欠かすことのできないのが、妻クララ(クラーラ)との馴れ初めです。クララは物別れとなったピアノ教師ヴィークの娘だったことは上述しました。

    初めてクララとあった当時、クララがまだ9歳だったこともあり、二人は仲の良い兄妹のような間柄でした。しかし、優れたピアニストへと成長したクララに心を奪われたシューマンは、やがてクララとの婚約を望むようになります。

    しかしこれに父ヴィークは猛反対。ヴィークは二人の関係をどうにかして引き裂こうとあの手この手を尽くしたのでした。その行動がすごい。

    例えば、

    • クララをシューマンから引き離すためにライプツィヒからドレスデンに引っ越させる
    • クララに送られてくる手紙を全てチェック
    • 一人での外出禁止
    • 街中であったシューマンの顔に唾をかける
    • ありもしない虚言や中傷を繰り返す など

    一度はシューマンとの関係を諦めかけたクララですが、シューマンの強い思いが勝り、裁判所の判決により、1840年、二人の結婚がようやく認められることとなりました。教会で執り行われた結婚式には、この年に知り合ったばかりのフランツ・リストも参席しています。

    フランツ・リストの人生についてはこちらから👇

    ロベルト・シューマンの生涯、その⑥〜作曲家として開花する〜

    1840年、正式にクララと結婚したシューマンですが、結婚を機にシューマンに変化が訪れます。それ以前のシューマンは、ピアノ曲がメインで、歌曲や交響曲、室内楽などの作品はあまり作曲していませんでした。

    しかし、クララとの結婚したシューマンは「歌曲」の作曲に目覚め、代表作『リーダークライス』(ハイネの詩に作曲)や連作歌曲『ミルテの花』、『詩人の恋』(こちらもハイネの詩に作曲)といった傑作を次々と発表します。

    このことから1840年は、シューマン「歌曲の年」と言われ、1年間で120曲もの歌曲を作曲しました。

    また、これについてシューマン自身は「ほかの音楽には全く手がつかなかった。―私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」と語っています。

    翌年1841年はクララとともにバッハやベートーヴェンの作品を研究し、『交響曲第1番』、『序曲、スケルツォと終曲』を作曲。この年は一般に「管弦楽の年」と呼ばれています。

    さらに1842年には、『弦楽四重奏曲』『ピアノ五重奏曲』、『ピアノ四重奏曲』といった室内楽へと移行し、「室内楽の年」へと発展します。この3年間でシューマンの才能は大きく開花し、ピアノ曲作曲家から大作曲家への仲間入りを果たしました。

    才能開花の理由は厳密にはわかっていませんが、愛するクララによる影響であることは間違いないでしょう。

    ロベルト・シューマンの生涯、その⑦〜精神に異常をきたし始める〜

    1840年から1842年にかけて、シューマンの音楽的才能(人生そのもの)は大きく発展しました。1843年には友人のメンデルスゾーンからライプツィヒ音楽院(現ライプツィヒ音楽・演劇大学)の講師に誘われ、シューマンは喜んでこれを引き受けます。

    しかし、この頃からシューマンの精神面に変化が出始めます。学生時代から精神的不安に悩まされていたシューマンですが、この時期から神経衰弱や幻聴、死への過度な恐怖といった様々な精神的不安が顕著となりだしたのです。

    一説によると、これらの原因は脳腫瘍、あるいは統合失調症によるものと考えられていましたが、現在では、シューマンが学生時代に感染した「梅毒」による症状とされています。

    これらの症状に悩まされたシューマンは、落ち着いた環境で過ごすことを希望し、1844年の12月、ライプツィヒからドレスデンへと移住しました。

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    ロベルト・シューマンの生涯、その⑧〜デュッセルドルフにて〜

    ドレスデンへの移住が功を奏したのか、この時期はシューマンの作曲意欲が幾分回復ます。

    シューマンを代表する作品『ピアノ協奏曲』や『交響曲第2番』が完成されたのもこの時期です(精神的不安で作曲された作品とは思えないような傑作)。

    また、1845年にはドレスデン宮廷歌劇場の楽長をしていたリヒャルト・ワーグナーとも知り合っています。もっとも、二人の関係は発展しなかったようですが・・・。

    精神的不安を抱えながらなんとか作曲をこなしたシューマンでしたが、やがてその症状が悪化し、政治情勢の変化もあり、ドレスデンからデュッセルドルフへと移住します。

    1850年、デュッセルドルフの音楽監督に就任したシューマン。ここでは管弦楽団や合唱の指揮を担当することになり、最初のコンサートでは聴衆に温かく迎えられました。

    しかし翌年1851年その評価は逆転し、地元新聞に批判的内容を掲載されたことで、シューマンへ評判は一気に下降し始めます。

    ロベルト・シューマンの生涯、その⑨〜ライン川に自殺未遂〜

    度重なる指揮の間違いや、団員との不和が重なり、シューマンは1853年、デュッセルドルフ管弦楽団を辞任に追い込まれます。神経過敏、憂鬱症、聴覚不良、言語障害などの精神面の変化もその原因と言えるでしょう。

    1854年2月26日、周囲を傷つける恐れを危惧したシューマンは、自ら精神病院に入院することを訴えましたが、クララと担当医がこれを制止したため、翌2月27日、ライン川に飛び込み自殺未遂をします。

    さいわいにも、この様子を見ていた地元漁師に助けられ、一命は取り留めたものの、シューマンの精神状態はもはや限界を迎えつつありました。

    そして再びシューマンは精神病院への入院を希望し、亡くなるまでの2年間をエンデニヒの地で過ごすことになります。

    ロベルト・シューマンの生涯、その⑩〜晩年〜

    エンデニヒに移住したシューマンですが、そこでは幾分落ち着いた生活を取り戻し、パガニーニによる24の奇想曲の補筆や、オペラのピアノ用編曲などをして静かな生活を送っています。

    一方で、妻のクララは「シューマンの神経を刺激しない」よう面会は許されず、最後にシューマンに会ったのは、彼が亡くなる1日前だったと言います。

    そして1856年7月29日、シューマンは46歳の若さでこの世を去ったのでした。

    シューマン最後の言葉は「おまえ、……ぼくは知っているよ……」だったそうです。錯乱していたシューマンは一体何を伝えたかったのでしょうか・・・。

    ロベルト・シューマンのエピソードや豆知識

    波乱の人生を送ったシューマンにはどのようなエピソードがあるのでしょうか。ここでは有名なエピソードを2つ紹介します。

    エピソード・豆知識その①、シューベルトの遺稿を発見する

    シューマンは妻クララと共に1838年10月から1839年4月までをウィーンです過ごしています。その理由は、クララがウィーンでのピアノ演奏会で大成功を収めたことの他に、当時シューマンが関わっていた雑誌「新音楽時報」の拠点をウィーンに移そうと考えていたためでした(クララの父ヴィークから逃れるためでもあります)。

    結局ウィーンでの生活は断念を余儀なくされましたが、ある日、シューマンは敬愛する作曲家シューベルトの兄フェルディナンドの家に足を運びました。

    そして、シューベルトが書き残した遺稿を発見し、のちに『交響曲第8番』(ザ・グレート)としてメンデルスゾーン指揮により初演されることとなります。

    初演は大成功となり、以降シューベルトの傑作として世に知れ渡ることとなります。

    もし、ウィーンにおいてシューマンがこの作品を発見していなければ、この傑作が世に出ることがなかったかもしれません。シューベルトについてはこちらです👇

    エピソード・豆知識その②、ヨハネス・ブラームスを弟子にする

    ロマン派を代表する作曲家の一人、ヨハネス・ブラームスはシューマンの弟子だったことはよく知られています。

    ブラームスがシューマンの元を訪ねたのは、シューマンがこの世を去るおよそ3年前の1853年の頃でした。この時ブラームスは弱冠20歳。

    ブラームスがおもむろに自作の『ピアノソナタ第1番』を演奏すると、数小節も聴かないうちにシューマンは立ち上がり、外にいるクララを慌てて呼びに行きました。

    ブラームスの偉大な才能を一瞬で見抜いたわけです。

    その後シューマンは「新音楽時報」においてブラームスに関する記事を執筆し、「新しい道」と題してブラームスを称賛しました。

    そして、それ以降ブラームスも献身的な弟子としてシューマンを最後まで献身的に見届けることになります。そんなブラームスの『ピアノソナタ第1番』は👇

    ロベルト・シューマンの生涯まとめ

    今回のシリーズはロベルト・シューマンについて書いていきます。シューマンには結構多くの資料が残っていますが、それはシューマンが日記を書くことを習慣にしていたからです。

    もっと細かいことも書こうかと思ったのですが、そうすると、とんでもなく長くなってしまうので、ざっくり紹介してみました。

    本数が増えていくと、他の作曲家とのリンクも多くなると思うので、全体像を完成させるゲームのようにブログ構築できればと思います。

    では次回はシューマンのおすすめ作品を紹介しますので、お楽しみに!

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