モーリス・ラヴェルは、19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍したフランスの作曲家です。
バレエ音楽『ボレロ』がもっとも有名で、
ラヴェルの名前を知らなくても、1度は聴いたことのある作品だと思います。
ピアノ曲から管弦楽曲、バレエ音楽などさまざまな分野で優れた作品を残したラヴェル。
しかしその才能は作曲だけでなく編曲にも発揮され、
ムソルグスキー作曲『展覧会の絵』を世界的なものにしたことでも知られています。
そんな、20世紀に新風を巻き起こしたモーリス・ラヴェルはどのような人物だったのでしょうか。
この記事では、ラヴェルの生涯たエピソードについてざっくり、簡単に解説しています。
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モーリス・ラヴェルの生涯
『スペイン狂詩曲』や『水の戯れ』、『亡き王女のためのパヴァーヌ』といった数々の名作を残したラヴェル。その生涯は華麗であったものの、晩年、辛い人生となりました。
モーリス・ラヴェルの生涯その①、幼少期
1875年3月7日、フランス南西部に位置するバスク地方のシブールに生まれたラヴェル。
父ジョセフはスイス出身の実業家で、母マリアはバスク地方出身の心暖かい女性でした。
ラヴェルは後年、世界各国の民族音楽を自身の作品に取り入れますが、
それは母の影響が大きかったと言われています。
母マリアは、幼いラヴェルにバスク民謡を歌って聴かせ、
母を通してバスクの文化を学んだそうです。
ラヴェルが生後3ヶ月の時にパリへ移住した一家は、以降、同地にて定住しています。
幼い頃から音楽の才能を発揮したラヴェルは、
7歳で本格的なピアノのレッスンを開始し、その後、作曲や和声を学び始めました。
1889年、14歳でパリ音楽院に進学したラヴェルは、14年間にわたり同音楽院に在籍。
ガブリエル・フォーレといった優れた音楽家たちの元で、その才能を開花させます。
また、音楽院在学時に見聞きした、ジャワのガムラン音楽に興味を示し、
自身の作品に民族音楽的要素を取り入れ始めます。
生涯その②、作曲家デビュー
1898年、国民音楽協会の演奏会でデビューを果たしたラヴェル。
その類い稀な感性と音楽的センスは早くから注目を集め、
20世紀初頭には気鋭の作曲家として認知されるようになりました。
その一方、当時の人々にとってはあまりにも斬新すぎる作風から、
ラヴェルの作品に反発する人々も少なくありませんでした。
そんな中で作曲されたのが、代表作『水の戯れ』です。
この作品も伝統的な技法とはあまりにもかけ離れていたことから、
当時の評価は芳しいものではなかったと言います。
しかし20世紀初頭のラヴェルはまさに多産の時代で、『水の戯れ』以外にも、
・『ソナチネ』(1903)
・『序奏とアレグロ』(1906)
・『スペイン狂詩曲』(1907)
・組曲『マ・メール・ロワ』(1908)
などの優れた作品を作曲しています。
また、いわゆる「ラヴェル事件」が勃発したのも1900年代初頭のことですが、
それは後述します。
生涯その③、新しい音楽サークルを結成、そして世界大戦へ
1909年、ロンドンにて初の海外コンサートを行ったラヴェル。
自身が海外でも評価されていることで勢いがついたのか、
伝統にこだわる「国民音楽協会」を脱退。
シャルル・ケックランとともに現代音楽の普及を目的とした、
新しい音楽団体「独立音楽協会」を設立し、
創立者メンバーとして活動を開始します。
しかし、当時としては斬新すぎる作品が多かったことから、
聴衆や評論家から不評をかい、苦々しい思いをすることも少なくなかったようです。
ちなみに、独立音楽協会で発表された作品には、
・シェーンベルク『月に憑かれたピエロ』
・ファリャ『火祭りの踊り』
・バルトーク『管弦楽のための協奏曲』
などの、現代では名曲として知られる作品が多く発表されています。
やがて第1次世界大戦が勃発すると、
ラヴェルはトラック輸送兵として従軍。
銃撃が飛び交う中、資材を運ぶ危険な任務をこなします。
また、戦時中に腹膜炎にかかり、
その後遺症はラヴェルが亡くなるまで消えることはありませんでした。
さらに、この時期のラヴェルに追い討ちをかけたのが、
最愛の母マリアの死です。
母の死に大きなショックを受けたラヴェルは、
作曲意欲を急速に失い、次第に音楽から遠ざかるようになります。
ラヴェルの生涯その④、アメリカでの再起、そして晩年
戦争と母の死により、絶望したラヴェル。
しかし1928年、再起を図りアメリカへ渡ったことが、
作曲家ラヴェルに再び火をつけました。
4ヶ月に及ぶアメリカでの演奏旅行は大成功を収め、
とりわけニューヨークでは盛大な喝采を持って迎えられ、
ラヴェルは世界的作曲家として再び知られるようになります。
また、黒人音楽やジャズなどに大きな影響を受けたことで新たな作曲意欲も湧き、
アメリカからの帰国後は、
・『ボレロ』
・『左手のためのピアノ協奏曲』
・『ピアノ協奏曲 ト長調』
などの名曲を作曲しています。
しかしそんなラヴェルにも健康上の変化が訪れ始めます。
1927年頃から軽い記憶障害や言語障害に悩まされていたラヴェルですが、
タクシーに乗車中に事故に遭い、このことが原因で急速に症状が悪化し始めます。
1933年、ラヴェル最後のコンサートで『ボレロ』をなんとか指揮したものの、
症状はなお進行し、自身のサインさえ書けない状態にまでなっていました。
頭の中では泉のように湧き出てくるたくさんの音楽。
しかし、それを文字にできない苦しみは、
ラヴェルにとって耐え難い苦痛であったに違いありません。
病状は日を追うごとに悪くなり、
弟の勧めで行った脳外科手術の甲斐も虚しく、
1937年12月28日、62歳でラヴェルはこの世を去りました。
モーリス・ラヴェルの病気や死因は?
上記のように、人生の後半においてラヴェルは言語障害や記憶障害に苦しみました。
病状の悪化と共に、楽譜の執筆や署名もできなくなり、
短い手紙を書くのにさえ、辞書を用いて1週間費やしたと言われています。
そんなラヴェルを診察したのが、神経学者の権威テオフィル・アラジョアニヌ氏。
氏はラヴェルの症状を脳神経の異常と診断ししたものの、
ラヴェルの弟や友人はその診断に納得がいかず、脳外科の手術に踏み切ります。
しかし手術をしても、脳腫瘍や出血なども見られず、
原因不明のまま手術を終えます。
手術後しばらくは体調が安定していたラヴェルですが、
突然意識を失い、そのまま帰らぬ人となりました。
結局のところ、詳しい死因はわかっていません。
しかし、今からおよそ100年も前の脳外科手術。
もしかしたら、この手術がラヴェルの寿命を早めた可能性も考えられます。
モーリス・ラヴェルの豆知識やエピソードは?
ラヴェルにまつわるエピソードはたくさん残されていますが、
今回はその中から明日話せる3つのエピソードを簡単に紹介します。
モーリス・ラヴェルの豆知識・エピソード①、「ラヴェル事件」
人生の早くから作曲家として高い評価を得たラヴェル。
そんな彼の人生を語る上で、避けては通れないのが「ラヴェル事件」です。
1900年から5回にわたり、ラヴェルは「ローマ賞」獲得を試みます。
ローマ賞とは、受賞者に最大の栄誉が贈られる、新人作曲家の登竜門。
2回目の挑戦で3位に入賞したものの、3度目(1902年)、4度目(1903年)では本選に残れず、年齢的に最後の挑戦となった5度目(1905年)では、予選通過さえもできませんでした。
すでに人気作曲家としての地位を確立していたラヴェルの予選落ちは、「ラヴェル事件」として大スキャンダルを巻き起こし、当時のパリ音楽院院長テオドール・デュポワが辞任に追い込まれるまでに発展します。
その②、ジョージ・ガーシュウィンとの出会い
再起をはかり、アメリカへ演奏旅行に出たラヴェル。
結果的にアメリカ遠征は大成功を収めましたが、それと同時に嬉しい出会いもあったようです。
その頃、アメリカで活躍していた作曲家といえばジョージ・ガーシュウィン。
幸運にもラヴェルと面会する機会を得たガーシュウィンは、ラヴェルにオーケストレーションの教えを乞います。
しかしそれを聴いたラヴェルは、「あなたはすでに一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はありませんよ」と応じたと伝えられています。
本心かどうかは不明ですが、ラヴェルのセンスをのぞかせるエピソードです。
その③、指揮者トスカニーニにブチギレる
ラヴェルが活躍した時代は、録音技術が徐々に進歩し始めた時代。
作曲家や指揮者は、次々と録音演奏を世に送り出します。
そんな中、指揮者トスカニーニが『ボレロ』を実演した際に事件は起きました。
トスカニーニが指揮したラヴェルの作品があまりにテンポが早く、当のラヴェル本人が解釈の違いに激怒します。
これにより2人は口論になったようですが、
演奏家と作曲家の立場の違いという意味では、面白い論争かもしれません。
しかし、この伝説は真偽不明だそうですが・・・。
モーリス・ラヴェルの生涯まとめ
今回は「スイスの時計職人」、「オーケストレーションの魔術師」などの異名を持つ、
モーリス・ラヴェルの生涯をざっくりと紹介しました。
早くから才能を認められたラヴェルですが、
その後半生は、辛く苦しい人生だったようです。
しかし、彼の煌めく作品は、現在もなお多くの人々に愛されています。
この記事を読んでいただいた方が、少しでもラヴェルに関心を持ち、
作品に触れていただければ幸いです。
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