ショパンとはどんな人物?生涯や豆知識、エピソードや死因について簡単に解説!

    今回は「ピアノの詩人」ショパンの生涯について解説します。19世紀はじめに生まれたショパンは、39歳の若さでこの世を去りました。しかし、彼の美しいピアノ曲は、21世紀の現在でも多くの人々に愛されています。

    子犬のワルツ』や『革命のエチュード』などは、ショパンのことを知らない人でも聴いたことのある代表作です。

    そんな「ピアノの詩人」フレデリック・ショパンはどのような人生を送ったのでしょうか。
    この記事を読めば、ショパンの生涯について「ざっくり」わかると思いますので、最後まで楽しんでください!

    出典:Amazon[ショパンベスト・オブ・ベスト]

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    ショパンの生涯

    ショパンは39年の生涯で、およそ240曲もの作品を残してまいす。

    そして、そのうちのほとんがピアノ作品でした。

    ショパンの生涯、幼少期

    フレデリック・ショパンは1810年3月1日、ワルシャワ公国のジェラゾヴァ・ヴォラ村(現在のポーランド)に生まれました。1809年説もありますが、ここでは通説の1810年とします。

    父ニコラ・ショパンは16歳でワルシャワに渡ったフランス人。母コスティナは没落貴族のお嬢様でした。なのでショパンは、まぁまぁのおぼっちゃまです。

    また、父ニコラはフルートやヴァイオリンを演奏し、母コスティナはピアノが上手だったと言います。その後、生後7ヶ月で首都ワルシャワに移住したショパン。

    この地でさまざまな音楽を聴いた彼は、幼い頃から天才的才能を発揮し、わずか6歳で聴いたメロディーをピアノで弾いたり、作曲も始めます。

    また、この頃から音楽教師ジヴニーの元で本格的にピアノや作曲を習い始め、ショパンはその才能を瞬く間に開花させます。

    そして7歳で作曲したピアノ曲『ポロネーズ ト単調』が出版されると、ショパンは「モーツァルトの再来!!」として注目を集めます。「ポロネーズ」とは「ポーランド風」という意味です。

    ちなみに・・・。この人👇とか、

    この人👇なんかも「モーツァルトの再来」と称されました。

    あっ!、プロコフィエフもね。

    ショパンの生涯、青年時代

    13歳までジヴニィの指導を受けたショパンは、その後ワルシャワ音楽院に入学。そして、わずか15歳で「ワルシャワ最高のピアニスト」と評されるまでに。スゴすぎ・・・。

    また、即興演奏でも評判となり、聴衆からも大変な人気者に。

    天才的才能を発揮したショパンですが、
    音楽の他にも歴史や文学、絵画などにも才能を示したそうです。

    そして、1826年(16歳)になると、
    作曲家コゼフ・エルスネルの指導を受け始めます。

    師弟関係となりましたが、エルスネルは当時のショパンについて「顕著(けんちょ)な才能。
    「音楽の天才」と述べています。

    でも、これって「この子にはあんまり教えることないわ」ってことでしょうね。

    ワルシャワで評判となったショパンは、
    活躍の場を広げるためベルリンへ向かいます。

    そして、ベルリンではカール・フリードリヒ・ツェルターメンデルスゾーンと出会い、
    交流を深めます。メンデルスゾーンの代表曲については👇

    また、ベルリンではウェーバーの『魔弾の射手』やヘンデルの作品に親しんだそうです。

    19歳でワルシャワに帰国したショパンは、
    ワルシャワ音楽院での学びを終え、今度は音楽の都ウィーンへ旅立ちます。

    余談ですが、ショパンの傑作『ピアノ協奏曲』は19歳から20歳くらいのときの作品です。

    ショパン: ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11 (通常盤)

    ショパン、パリへ移住

    オーストリアやイタリアなど、西ヨーロッパでの活躍を夢見たショパン。

    しかし、当時の政治的背景によりウィーンでの生活をあきらめ、フランスのパリへ移住します。この時のショパンの残念な気持ちを表現したのが『スケルツォ』や『革命のエチュード』です。

    じゃあ、フランスでの生活が悪かったかと言うとそうでもなく・・・。
    22歳で開いたコンサートが大成功となり、ショパンの名はパリの社交界に一気に広がります。

    この背景にはロベルト・シューマンが、自身の雑誌で「諸君、脱帽したまえ!!天才だ!!」とショパンを賞賛した影響もあったのかも知れません。シューマンについてはこちら👇。

    また、ショパンはピアノ教師としても評判となり、
    多くの貴族女性にピアノを教えていました。

    病弱と内向的性格が相まって、ショパンは大きなコンサート会場での演奏を好まず、
    もっぱら自宅で友人と小さな演奏会を開くのを好んだと言います。

    そんなショパンの性格は「ノクターン(夜想曲)」によく現れていますね。

    さらに、フランツ・リストエクトル・ベルリオーズと出会い、
    交流を深めたのもフランス時代でした。

    ジョルジュ・サンドとの生活

    ショパンの人生を語る上で、ジョルジュ・サンド(本名アマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン)との関係を避ける訳にはいきません(ショパンは生涯独身でした)。

    ジョルジュ・サンドは『愛の妖精』などの作品で知られるフランスの作家です。

    ショパンとサンドとの出会いは、2人の共通の知人だったフランツ・リストによってもたらされました。

    その後、2人の恋愛関係は1838年から1847年までの9年に及びますが、
    サンドに対するショパンの第1印象は最悪なものでした。

    最初に会った時、ショパンは彼女に対して「なんて不快な女なんだ。サンドというやつは!」と述べたそうです。

    しかし恋とは不思議なもので、2人はその後恋愛関係となり、
    サンドは病弱だったショパンを献身的に支えるまでになります。

    ショパンの『前奏曲』や『バラード』、『スケルツォ第3番』、『マズルカ』などの代表作が作曲されたのはサンドとの恋愛関係中においてでした。

    病状にも苦しんだショパンですが、
    サンドの愛によって創造的な日々を過ごしていたわけですね。

    ところが、サンドの娘の結婚について、ショパンが口をはさんだことできっかけとなり、
    2人の関係は幕を閉じることになりました。

    ショパン: 前奏曲集/エキエル編(英語版)/ポーランド音楽出版社/ピアノ・ソロ

    ショパンの生涯、晩年と最後

    サンドとの訣別と病状の悪化により、次第に衰弱したショパン。1848年、パリで最後の演奏会を開くと、その年の4月にイギリスのロンドンへわたり大きな成功を収めます。この時はヴィクトリア女王の前でも演奏しています

    11月にパリに戻ったショパンですが、病状はますます悪くなり、生活に必要なお金や診察代も不足していたと言います。

    そのため、家財道具を売り払ってまで生活したそうです。なんだか寂しいですね・・・。

    そんな中でも、友人の画家ウージェーヌ・ドラクロアは病床のショパンを訪ね、
    金銭面や精神面の支えとなりました。

    1849年6月、病により大量に血を吐いたショパンは、
    姉のルドヴィカをパリに呼び寄せます。

    そして8月。ルドヴィカはようやくパリに到着し、ショパンの看病を続けたものの、およそ2ヶ月後の10月17日、サンドの娘ソランジュや弟子が見守るなか、ショパンは39歳という若さで息を引き取りました。

    ショパン死去の翌日、デスマスクと左手の型が取られ、
    ショパンの心臓は祖国ポーランドへ戻りました。

    祖国ポーランドを心から愛したショパンの心臓は、
    現在も正十字教会にあるエピタフの柱に収められています。

    葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われ、ショパンの死を悼(いた)んだ3000人もの参列者が訪れたと言います。

    しかし、参列者の中にジョルジュ・サンドの姿はありませんでした。

    ショパンの豆知識やエピソードは?

    ピアノの詩人」ショパンにはどのようなエピソードがあるのでしょうか?

    ここでは筆者の主観で4つのエピソードを紹介します。

    豆知識・エピソードその1、感性が繊細すぎる

    ショパンの作品を聴けばわかるように、ショパンは幼い頃からとても繊細な人物でした。

    幼い頃から音楽に敏感だった彼は、母のピアノ演奏にさえ涙を流す少年だったといいます。そんな子供、なかなかいませんよね・・・。

    一方で、ユーモアに溢れる少年でもあり、友人の仕草や表情をマネる名人だったそうです。

    夏休みとなれば田舎に旅行へ出かけ、ピクニックやその町のお祭りにも参加して楽しんでいました。

    神経質なイメージが強いショパンですが、子供らしい一面も備えていたようですよ。

    その2、恋愛スキャンダルに巻き込まれる

    18歳の頃、ショパンはある恋愛スキャンダルに巻き込まれます。

    サンニキという街に訪れたショパン。その間、滞在先だったプルシャク家の家庭教師の妊娠が発覚。

    そしてあろうことか、その相手がショパンという噂が広がることに!!

    もちろんこれは完全な噂話であり、すぐに誤解は解けたようです。でも、この時に書いたショパンの説明が凄い(ある意味でです)。

    友人に宛てた手紙の中でショパンは次のように手紙に書いています。

    「その女家庭教師といつも庭へ散歩に出かけていたからです。しかし散歩していただけで、それ以上の事は何もなかったのです。彼女は魅惑的ではありません。ですから哀れな僕は食欲がわきませんでした。幸いに。」

    これをユーモアととらえるかはあなた次第です。

    その3、「別れのワルツ」

    ドイツのドレスデン滞在中、ショパンはヴォジンスキ伯爵の娘マリアに恋をします。この時ショパン25歳、マリア16歳。

    知的で音楽的素養も備えたマリアにショパンは勇気を出してプロポーズします。

    一度は受け入れたマリアですが、周囲の反対によりプロポーズは白紙に・・・。

    その理由は、

    マリアが若過ぎたこと
    ショパンの健康状況に不安があったこと

    でした。

    もちろん、ショパンは失恋の悲しみに落ち込みます。

    そして、ドレスデンを去る朝に作曲されたのが『別れのワルツ』でした。←『別れの曲』ではないので注意!!

    ピアノピースー063 別れの曲/ショパン(

    その4、大きなホールで演奏したくない!

    ショパンは病弱だったことに加え、神経質で内向的な性格。

    大勢の人前での演奏を好まず、自宅に友人たちを招き、小さな演奏家を開く方が性に合っていたのは当然といえば当然。この辺が目立つの大好きフランツ・リストと正反対です(笑)。

    調べてみたら、ショパンが生涯で行ったコンサートの回数はわずか30回程度だったそう(うろ覚えなのでもう少し調べます)。あとは、ほとんど身内や知人だけの演奏会を開いて音楽を楽しんでいたとのこと。

    内向的な性格もここまでくると、なかなか立派です。

    だって、「フツーは目立ちたい」んだから。

    ショパンの生涯、死因は?

    39歳という若さでこの世を去ったショパン。

    実は長い間、ショパンの死因は謎に包まれていました。

    そんなんなか、ポーランド科学アカデミー・ヒト遺伝研究所のグループが2014年から調査を開始し、ついにその死因が明らかに!

    調査の結果・・・。

    死因は「結核」により引き起こされた合併症「結核性胸膜炎」とのこと。

    ショパンがもう少し生きていてくれたら、どんな作品を残したのでしょうか・・・。

    今回のまとめ

    ということで、ショパンの生涯について「ざっくり」解説しました←重要。

    親しくさせていただいているピアノの先生とお話しする機会があり、

    子供が読むにはちょっと難しい」というご指摘をいただきました。

    なので、今回はできるだけわかりやすく書いたつもりですが、いかがだったでしょうか・・・。

    わかりやすくなったかな???💧。

    次回からは、ショパンのおすすめ作品24作を3回にわたり解説します。

    どれも有名作品なので、楽しんでいただけると思います。