ジャン・シベリウスとはどんな人物?その生涯や豆知識、エピソードや死因について簡単解説!!

    今回はフィンランドを代表する作曲家ジャン・シベリウスの生涯について解説します。
    「誰それ?知らないわ!」と思った方、
    そう思った時こそ知識を広げるチャンスです。

    前回のガーシュウィンの記事と同じく、
    わかりやすく簡単に解説しますので、「ふ〜ん」と思いながら読んでいただければ大丈夫👌。
    ちなみに前回のガーシュウィンの記事はこちらです。

    まだ読まれていない方は併せて参考にしてください!!。

    ジャン・シベリウスの生涯について

    フィンランドの国民的英雄と称されるシベリウスとはどのような人物だったのでしょうか。

    ここではシベリウスの生涯を解説します。

    シベリウスの生涯1、生い立ち

    ジャン・シベリウス(以下シベリウス)は、1865年、フィンランドの北およそ100キロにある街・ハメーンリンナで生まれました。

    父のクリスチャンは医者をしていましたが、シベリウスが2歳の頃に他界します。

    父が残した多額の借金が元で、幼少期は苦労の多い生活を送ったシベリウス。
    その後は母が所有していた不動産を売却したのち、
    母方の祖母の実家に身を寄せて幼少期を過ごします。

    女性に囲まれて生活するなか、
    叔父のペール・フェルディナンド・シベリウスからヴァイオリンを譲り受けたことをきっかけに、シベリウスは音楽へ関心を寄せるようになります。

    また、シベリウスは子供の頃からフィンランドの自然を愛し、
    家族でロヴィーサという海岸沿いの街に小旅行に出かけると、
    田舎町を散歩することに喜びを覚えていたそうです。

    こうした子供の頃の体験が、
    シベリウスがフィンランドの国民音楽を生み出す原動力となっていたのでしょう。

    ピアノとヴァイオリンの勉強を続けたシベリウスは、
    やがて16歳になると地元の楽団長だったグスタフ・レヴァンダーから本格的にヴァイオリンを学び、ヴァイオリンのヴィルトゥオーソになる決意します。
    ※ヴィルトゥオーソとは、簡単にいうと超絶技巧の持ち主ってことです。

    そして瞬く間にヴァイオリンの腕前を上げ、卓越した才能を発揮したシベリウス。
    しかし、最終的に選んだ道はヴァイオリニストではなく作曲家の道でした。

    シベリウスの生涯2、青年時代

    1885年、高校を卒業したシベリウスはヘルシンキ大学にて法学を学びますが、
    音楽への想いが断ち切れず、ヘルシンキ音楽院(現在のシベリウス音楽院)に転入。

    1885年から1859年まで同音楽院でヴァイオリンと作曲を学び、
    プロの演奏家を目指し始めます。

    優秀な成績で音楽院を卒業したシベリウスは、
    奨学金を得てベルリン、ウィーンへの留学の機会を獲得。

    しかし、留学先で自身のヴァイオリンの才能に限界を感じたシベリウスは、
    ヴァイオリニストの夢を断念し、作曲家の道を心ざすようになります。

    余談ですが、シベリウスの代表作「ヴァイオリン協奏曲」はヴァイオリニストになれなかったことの反として作曲されたようです。

    ベルリンに渡ったシベリウスはリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」の初演を鑑賞する機会に恵まれるなど、その後の作曲活動にとって大きな刺激を受けています。

    またウィーン時代にはブルックナーの作品に関心を示し、
    「もっとも偉大な存命の作曲家」と呼ぶほど心酔していたようです。

    ヘルシンキへ帰国すると、シベリウスは早速「クレルヴォ交響曲」を完成に取り掛かり、
    1892年の初演が大成功したことで、フィンランド中にシベリウスの名が知れ渡ることになりました。

    この年にはアイノと結婚。26歳のシベリウスはまさに順風満帆な作曲家人生を歩み始めます。

    シベリウスの生涯3、音楽院の教師から国民的作曲家へ

    1892年からヘルシンキ音楽院や指揮学校で教鞭に立つようになったシベリウス。
    しかしそれにより作曲する時間を確保できず、
    一時期作曲活動が滞ってしまいます。

    そんな中でも「エン・サガ」「カレリア」「春の歌」などの作品を発表し続け、
    シベリウスの名はさらに広がりを見せます。

    そんな多忙なシベリウスに転機が訪れたのは1898年のことでした。

    この年にフィンランド政府から年次助成金が交付されることになり、
    シベリウスの経済状況が好転し始めます(当初は10年間の期限付交付金でしたが、のちに生涯交付に変更)。

    経済的な安定を獲得したことで、作曲に専念する環境を獲得したシベリウス。
    戯曲「クリスティアン2世」の付随音楽が成功を収め、
    フィンランドのみならずドイツでもその名声が広がり始めます。

    そして1899年、新聞社主催の歴史劇の付随音楽として作曲された組曲、
    「フィンランドは目覚める」が国民的大ヒットとなり、
    シベリウスはフィンランドを代表する作曲家として知られるようになったのでした。

    「フィンランドは目覚める」は、のちに「フィンランディア」に改編され、
    帝政ロシアの圧政に苦しむフィンランド国民にとっての「第2の国歌(愛国歌)」として親しまれることになります。

    シベリウスの生涯4、静かな田舎町で作曲活動

    1904年、シベリウスはヘルシンキから北に45キロほど離れたトゥーラス湖近くに「アイノラ荘」を建て、40歳を目前にして田舎暮らしを始めます。

    「アイノラ」とは「妻のアイラが住む家」を意味し、
    この地へ移住して以来、シベリウスは生涯にアイノラ荘から離れることはありませんでした。

    ヘルシンキの都会の喧騒から離れたことで、心も解放されシベリウスは、
    ペレアスとメリザンド」や交響詩「ポホヨラの娘」「ペルシャザールの饗宴」など精力的に作曲活動を続けます。

    アイノラでの生活では、一時的に妻・アイラとの不和や、
    シベリウスが喉の癌に冒されるなど紆余曲折あったものの、
    1905年に代表作「ヴァイオリン協奏曲」、1907年には「交響曲第3番」を発表。

    困難を乗り越えながら、シベリウスの名声は世界的なものへと高まっていきます。

    シベリウスの生涯5、第1次世界大戦を乗り越えて

    第1次世界大戦の勃発により、一時的に経済的困窮に直面したシベリウスでしたが、
    多くの小規模作品を発表し困難を乗り越えています。

    また第1次世界大戦中の1915年にはシベリウス生誕50周年を記念する式典が行われ、
    シベリウス自身による指揮で「交響曲第5番」が披露されました。

    この祝典的交響曲は大成功を収め、
    名実ともにシベリウスはフィンランドの国民的英雄となったのでした。

    シベリウスの晩年

    シベリウスは91歳という当時ではかなり長寿でした。

    そのため生涯に渡って多くの作品を残したと思われるかもしれませんが、
    実際は晩年の30年間はほとんど作曲活動をしていません。

    それどころか、アイノラからヘルシンキの街へ小旅行することさえ少なく、
    普段は孫やひ孫たちと休暇を過ごす穏やかな晩年を送っています。

    このシベリウスの沈黙は「ヤルヴェンパーの沈黙」と呼ばれ、
    詳しい原因はわかっていません。

    一説によると、精神的落ち込みや自身の作品に対する「批判傾向」が強くなったためとも考えられています。

    しかし、シベリウスの著作で知られるサンテリ・レヴァスの証言によると、
    バルトーク・ベーラショスタコーヴィッチなどの若い音楽家を高く評価していたらしく、
    音楽に対する関心は生涯失わなかったようです。

    1955年、90歳を祝う誕生祭が盛大に執り行われましたが、
    そのおよそ2年後の1957年9月20日、アイノラ荘にてシベリウスは人生の幕を閉じました。享年91歳という大往生でした。

    シベリウスの訃報はたちまち世界に伝わり、
    国連総会では黙祷が捧げられました。

    葬儀は国葬として執り行われ、アイノラの地に埋葬されています。

    豆知識やエピソード、死因は?

    シベリウスにまわるエピソードをいくつか紹介します。フィンランドの英雄にはどのようなエピソードがあるのでしょうか。簡単に紹介します。

    フリーメーソンのメンバーだった

    意外に思われるかもしれませんが、
    シベリウスは秘密結社として有名なフリーメーソンのメンバーでした。

    帝政ロシアによる圧政からの解放後、
    シベリウスは1922年にスモイ・ロッジの創立メンバーに加わり、
    グランド・ロッジのオルガニストを担当しています。

    またフィンランドのフリーメーソンで用いられる儀式用音楽も作曲しているというは、
    ちょっと驚きです。

    筆者はフリーメーソンについてよく知らないので、
    ご興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか。

    モーツァルトもフリーメーソンのメンバーだったという話がありますので、
    以外に芸術家や音楽家に多いのかもしれません。

    ベートーヴェン以来の作曲家と称される

    ベートーヴェンといえば、知らない人がいないくらいの大作曲家ですが、
    実はシベリウスは「ベートヴェン以来の作曲家」と称されるほどの交響曲作曲家でした。

    生涯で7曲の交響曲を作曲し、
    その作品は英語圏ならびに北欧の作曲かに絶大な影響を与えました。

    イギリスでは、ヴォーン・ウィリアムスとアーノルド・バックスの両名が自身の「交響曲第5番」をシベリウスに献呈しています。

    また作曲家コンスタント・ランバートは「(シベリウスは)頭の中で交響曲形式という意味で自然に思考できるベートーヴェン以来はじめての偉大な作曲家」と評しており、
    当時のシベリウスの評価の高さが窺えます。

    一方、「交響曲第7番」には批判も多かったようで、
    これについてシベリウスは「評論家の言うことに耳を貸してはならない。
    これまで評論家の彫像が建てられたことなどないのだから」と皮肉たっぷりに返したそうです。

    死因について

    晩年はほとんど作曲をせず、
    アイノラの地で隠居生活を送ったシベリウス。

    子供の頃から大好きだった自然や孫たちに囲まれ、
    91歳という大往生でした。

    1955年に開かれた生誕90周年を祝う式典からおよそ2年後の1957年9月20日、
    シベリウスは脳出血のため静かにこの世を去りました。

    シベリウスの死後も妻アイノはアイノラの地に住み続け、
    1969年、97歳で夫の元へ旅立ちました。

    そして今でも、シベリウス夫婦はアイノラの地で寄り添うように眠っています。

    シベリウスの生涯まとめ

    新シリーズはシベリウスを取り上げてみました。あまり有名すぎる人物ばかり取り上げても関心を引かないので(シベリウスももちろん有名ですが)、知ってそうで知らない人物から紹介できればと思います。

    この記事を通して、「シベリウスって人がいたのね、うんうん」と知っていただければ幸いです。

    では次回は、シベリウスのおすすめ作品を紹介します!

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