チャイコフスキーとはどんな人物?その生涯や豆知識、エピソードや死因を簡単に解説!

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番

    ロシア音楽史上最高の作曲家と言われるチャイコフスキー
    『くるみ割り人形』『白鳥の湖』などは、普段クラシックを聴かない方でも、1度は耳にしたことがあると思います。

    現在では大作曲家として知られるチャイコフスキー。
    しかし作曲家を目指したのは、意外に遅かったことは知らない人が多いのではないでしょうか。

    そこで今回は、チャイコスフキーの波乱の生涯についてざっくり解説です。

    最後までお読みいただくと、ちょっとした教養になると思いますので、
    ぜひ最後までお付き合いください。

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    チャイコスフキーの生涯

    チャイコフスキーの記事用オーケストラの演奏風景

    ロシアをもっとも代表する作曲家チャイコフスキー
    ピアノ曲や管弦楽、室内楽、バレエなど、あらゆる分野で傑出した作品を残しています。しかし当時の彼の評判は、必ずしも現在のものと同様とはいえなかったようです。

    法律学校の寄宿生となる

    ピョートル・チャイコフスキーは、1840年ウラル地方のヴォトキンスクという街で生まれました。

    父親は鉱山技師、祖父は医師だったため、音楽的家系ではありませんでした。
    しかし、家にはピアノがあり、幼い頃のチャイコフスキーは夢中になってピアノを弾いていたようです。

    また、幼ない頃から語学の勉強にもはげみ、ロシア語の他にドイツ語やフランス語も堪能だったと言われています。

    もしかしたら、彼の音楽的な才能は、語学によっても養われたのかもしれませんね。

    5歳からピアノを本格的に習い始め、音楽の才能を示したチャイコフスキーですが、お両親の意向により、10歳で法律学校に入学しました。

    しかし入学から4年後の1854年。14歳の時に母アレクサンドラをコレラで失ったチャイコフスキーは、深い悲しみを経験します。最愛の母を失ったことは、精神的に大きなダメージだったようで、晩年まで心残りだったと伝えられています。

    音楽家を志す

    1859年に法律学校を卒業。
    卒業後はロシアの法務省に入局し、9等文官として働くこととなります。

    しかし、その仕事の大半は訴訟事務だったようで、充実した日々とは程遠いものでした。

    そんなある日、知人の紹介でロシア音楽協会を知ると、1962年からペテルブルク音楽院のアントン・ルビンシテインのクラスで編曲と作曲を学び始めます。

    この時チャイコフスキー22歳
    音楽家としては、かなり遅い出発だったことがわかりますね。

    その後23歳のときに法務省を辞職し、本格的に音楽の道を歩み始めます、
    音楽家というと「幼少期から天才」というイメージですが、
    チャイコフスキーにはそのようなエピソードはあまりありません。

    また、「絶対音感もなかった」とも言われています。

    音楽院の教師・作曲家として

    ペテルブルク音楽院卒業後、モスクワへ移り住んだチャイコフスキー。
    ロシア音楽協会モスクワ支部で教師を務めたのち、
    設立されたばかりのモスクワ音楽院にて、12年間にわたり音楽理論の講師を務めました。

    またこの頃から作曲も開始し、『交響曲第1番』を完成させています。

    1875年には代表作『ピアノ協奏曲』を作曲。
    師事したルビンシテインからは酷評されたものの、
    ハンス・フォン・ビューローによる初演が大成功を収めました。

    この時期のチャイコフスキーは多産な時期だったようで、
    代表作としては次のものが挙げられます。

    ・ヴァイオリン協奏曲(1877〜1878年)

    ・弦楽セレナーデ(1880年)

    ・序曲「1812」(1880)

    ・交響曲第5番、バレエ「眠れる森の美女」(1888年)

    私生活では、1876年から鉄道経営で財を成した富豪の未亡人ナジェンダ・フォン・メック夫人から資金援助を受け、援助は14年間に渡り続いたと言われています。

    しかし、結婚生活はうまくいかず、
    精神的に追い込まれることも少なくなかったと伝えれています(下記エピソードを参照)。

    海外生活と晩年

    1878年、12年間務めたモスクワ音楽院を辞職したチャイコスフキー。
    それからおよそ10年間、作曲に専念できる場所を求めてヨーロッパ中を旅してまわりました。

    イタリアのフィレンツェやナポリ、フランスのパリなどを訪れ、フランツ・リストに出会い、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』を鑑賞したのもこの頃です。

    その後モスクワに戻ると再び作曲に専念し、バレエ『くるみ割り人形』『交響曲第6番』といった傑作を次々と発表します。

    亡くなる1893年5月には、ケンブリッジ大学音楽協会から名誉博士号を授与され、名実ともに大作曲家として認知こととなりました。

    この授賞式には、カミーユ・サン=サーンスも招かれていたそうです。

    そして同年10月、『交響曲第6番<悲愴>』の初演から9日後の11月6日に53歳で急死します。

    カザン大聖堂で執り行われた葬儀には8000人もの人が参列し、チャイコフスキーの死を悼んだと伝えれています。遺体は本人の希望により、アレクサンドル・ネフスキー修道院のチフビン墓地に埋葬されました。

    チャイコフスキーのエピソードや豆知識は?

    チャイコフスキーのエピソードを簡単に紹介します。
    音楽家として成功した反面、私生活は相当苦労したようです。

    チャイコフスキーのエピソード・豆知識その1、結婚生活で追い詰められる

    1877年、チャイコフスキーが37歳の時に、元教え子だったアントニーナ・ミリューコヴァから熱烈に求婚され、これに応じます。
    しかしこの結婚がチャイコフスキーにとっての不幸の始まりでした。

    その原因はさまざまありますが、この結婚によりチャイコフスキーはモスクワ川で自殺未遂をはかるほど追い込まれます。

    弟のアナトーリーの助けもあり、なんとか危機を乗り越えますが、なかなか成立しない離婚に相当悩まされたそうです。

    また同年1877年に発表したバレエ『白鳥の湖』が大失敗に終わり、この年は不幸が続く年となりました。

    チャイコフスキーのエピソード・豆知識その2、極度の不安症だけど・・・

    チャイコフスキーは極度の心配性だったことでも知られています。

    とくに自身で指揮をする時には、緊張で「頭がもげてしまうのでは」と心配し、左手で顎を支える動作をしていたと伝えれています。

    そんなチャイコフスキーですが、『交響曲第6番』に対する評価だけは揺るぎないものだったそうです。

    チャイコフスキーの作品ではよくあることですが、
    本作も初演時はあまり良い評判を得られませんでした。
    しかしこの作品だけは、「この曲は、私のすべての作品の中で最高の出来栄え」と語るほどの自身作だったそうです。

    チャイコフスキーの死因は?

    チャイコフスキーの人生において、しばしば問題となるのが「死因」についてです。

    一般的にはレストランで出された生水を飲んだことでコレラになり、併発した肺水腫(はいすいしゅ)で死亡したと考えられています。

    しかし一方で、「自殺だったのではないか」という説も根強く残されているのをご存じでしょうか。

    といのも、チャイコフスキーは同性愛者だったと言われており、
    「同性愛に否定的な皇帝から自殺を命じられた」や、
    「名誉のために自殺を命令された」、
    「公表されるのをおそれた」など、さまざまな説があります。

    いずれにしてもチャイコフスキーの死因については、現在もなお研究が進められています。

    チャイコフスキーの生涯まとめ

    今回はチャイコフスキーの生涯についてざっくり解説しました。

    残念ながら53歳という若さでこの世を去ったチャイコフスキーですが、
    その作品は後世のクラシック音楽に大きな影響を与えました。

    具体的な作品については次回解説しますので、そちらも併せてお楽しみください。

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    チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番
    チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番