この記事では、イタリアが世界に誇るオペラ作曲家ジャコモ・プッチーニについて紹介します。
19世紀半ばに生まれ、ジュゼッペ・ヴェルディと共に、
イタリア・オペラの黄金時代を築き上げたプッチーニ。
音楽家人生の大部分をオペラの作曲に捧げ、
『ラ・ボエーム』や『トスカ』、『蝶々夫人』など、
音楽史上に残る名作を数多く作曲しました。
それらの作品は、現代にも受け継がれ、
もっとも上演機会の多いオペラ作曲家と言っても過言ではないでしょう。
では、そんなジャコモ・プッチーニは、どのような生涯を送ったのでしょうか。
いつもながら、ざっくりと解説しますので、
作品のちょっとしたお供として参考にしていただければ幸いです。
ジャコモ・プッチーニの生涯についてまとめ
ジュゼッペ・ヴェルディの跡を継ぎ、
イタリア最高の作曲家の1人に数えられるジャコモ・プッチーニ。
オペラにおいて多大な成功を収めた彼ですが、
その人生は必ずしも順風満帆とはいかなかったようです。
どのような人生を歩んだのか、
時代ごとに振り返ってみましょう。
ジャコモ・プッチーニについてその1:音楽の名門に生まれた天才作曲家
1858年、イタリアのルッカで生まれたジャコモ・プッチーニは、
音楽の名門として知られるプッチーニ家の一員でした。
プッチーニ家は、プッチーニの曽祖父である初代ジャコモ(1712-1781)によって確立。
その後、息子のアントニオ、孫のドメニコ、そして曾孫のミケーレ(プッチーニの父)と、
代々音楽家の家系として続きました。
しかし、運命の皮肉か、プッチーニがわずか5歳の時に父ミケーレが死去。
124年間(1740-1864年)もの間、プッチーニ家が守り続けてきた、
マエストロ・ディ・カペラの地位は、プッチーニにとって手の届かないものとなってしまったのでした。
ジャコモ・プッチーニについてその2:若き日の苦悩と音楽への目覚め
父を失った後、プッチーニの教育は叔父フォルトゥナート・マージが引き継ぎました。
幼少期、プッチーニはサン・マルティーノ大聖堂の少年合唱団に所属し、
後にはオルガニストの代理も務めました。
ルッカのサン・ミケーレ神学校で一般教育を受けた後、大聖堂の神学校に進学したプッチーニ。しかし、彼の人生を決定づける出来事が起こります。
それは、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『アイーダ』との出会いでした。
この経験がきっかけとなり、プッチーニは教会オルガニストの道を諦め、
オペラ作曲家を志すようになります。
1880年、21歳のプッチーニは『4声のミサ曲』(『グローリア・ミサ』)を完成させ、
宗教音楽家としての道に区切りをつけました。
その3:ミラノ音楽院での修業と初期の成功
その後、マルゲリータ王妃からの助成金と叔父ニコラス・セルーの援助により、
ミラノ音楽院で学ぶ機会を得たプッチーニ。
1880年から1883年まで、アミルカレ・ポンキエッリとアントニオ・バッジーニに師事し、
音楽の技術を磨いていきます。
ミラノ音楽院での卒業制作として、プッチーニは管弦楽曲『シンフォニコ奇想曲』を作曲。
この作品は、1883年7月14日に同音楽院の学生コンサートで演奏され、
ミラノの音楽界で高い評価を受けています。
ちなみに、ミラノ音楽院では、オペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』の作曲者・ピエトロ・マスカーニと同級生でした。
そして1882年、プッチーニは出版社ソンゾーニョ社主催の1幕物オペラの作曲コンクールに参加します。
応募した作品『妖精ヴィッリ』は入賞こそできなかったものの、
1884年に舞台化され、出版社リコルディ社主ジュリオ・リコルディの目に留まります。
これを機に、リコルディ社の依頼を受けてジャコモは2作目のオペラ『エドガール』を1889年に発表。
こうして、ジャコモ・プッチーニのオペラ作曲家としてのキャリアが本格的に始まります。
その後1893年に発表した3作目のオペラ『マノン・レスコー』が大きな成功を収め、
プッチーニは、人気オペラ作曲家として認知されるようになりました。
作品については、こちらの記事で紹介しています👇
その4:波乱万丈の私生活
オペラ作曲家としてキャリアをスタートさせたプッチーニですが、
その私生活は、オペラ作品に負けず劣らずドラマチックだったようです。
1884年の秋、プッチーニはルッカでエルヴィラ・ジェミニャーニという人妻と恋に落ちます。
二人の間には1886年に息子アントニオが生まれましたが、エルヴィラは当時まだ法律上の夫ナルシソと離婚していませんでした。
1891年、ジャコモはトスカーナ地方のトッレ・デル・ラーゴに別荘を購入し、
ここを終生の仕事場兼自宅としました。
この地は、後に彼の最後の眠りの場所となります。
しかし、プッチーニは浮気癖で有名でした。
・マリア・ジェリッツァ
・エミー・デスティン
・チェシラ・フェラーニ
・ハリケーラ・ダルクレ
など、当時の有名歌手たちとの噂が絶えなかったようです。
さらに、1906年には、ハンガリーの作曲家エルヴィン・レンドヴァイの妹ブランケと恋に落ち、1911年まで関係が続いています。
極め付けは1909年の出来事。
プッチーニの妻エルヴィラが家政婦のドーリア・マンフレーディとプッチーニの不倫を公に告発するという事件が起きます。
しかし、ドーリアは自殺し、その後の調査でこの告発が誤りだったことが判明しました(ドーリア・マンフレーディ事件)
伊達男で有名だったプッチーニですが、
さすがにこの出来事については、心に深い傷を残したと言われています。
その5:政治との距離感と晩年
プッチーニは、同時代の作曲家ワーグナーやヴェルディとは異なり、
政治には積極的ではありませんでした。
しかし、第一次世界大戦中には彼の発言や行動が批判の的となることもあったようです。
1919年、ジャコモは第一次世界大戦におけるイタリアの勝利を称える頌歌『ローマへの讃歌』を作曲します。この曲は後にファシストの公的行事で広く演奏されることになりました。
晩年のプッチーニは、ムッソリーニやイタリア・ファシスト党と接触を持ちます。
1923年にはヴィアレッジョのファシスト党から名誉党員の称号を贈られたようですが、
プッチーニが実際に党員だったかどうかは定かではありません。
一方、この頃のプッチーニは、ヴェルディに与えられていた名誉元老院議員の地位を望んでおり、また、ヴィアレッジョに国立劇場を設立する夢も抱いていました。
そして、これらの目的のため、1923年11月と12月にムッソリーニと会談しましたが、
結局、劇場計画の夢は断念しています。
※余談ですが、2003年に『ローマへの讃歌』の楽譜の一部が発見されています。
偉大なる作曲家の最期:死因について
葉巻とタバコを愛したプッチーニは、
1923年末頃から慢性的な喉の痛みに悩まされるようになります。
そして、咽頭癌と診断された彼は、ブリュッセルでの新しい実験的な放射線治療を受けることを決意。
しかし、1924年11月29日、治療後の合併症によりプッチーニはブリュッセルで息を引き取ります。享年65歳でした。
作曲中だったオペラ『トゥーランドット』は未完となりましたが、
遺構を元に補筆が加えられ、1926年にスカラ座にて初演が行われました。
彼の訃報がローマに届いたとき、ちょうど『ラ・ボエーム』が上演中でした。
公演は即座に中止され、オーケストラは唖然とする聴衆のためにショパンの『葬送行進曲』を演奏したといいます。
プッチーニの遺体は一時的にミラノの親友トスカニーニ家の墓に埋葬されましたが、
1926年にトッレ・デル・ラーゴの別荘内に特別に作られた礼拝堂に移されました。
ジャコモ・プッチーニの遺産
ジャコモ・プッチーニは、イタリアオペラの黄金時代を代表する作曲家として、
今もなお世界中で愛され続けています。
彼の作品『ラ・ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』は、
今日でも世界中のオペラハウスで頻繁に上演されている傑作です。
彼の音楽は、美しい旋律と情熱的な表現、
そして人間の感情を深く描写する能力で知られています。
プッチーニは、伝統的なイタリアオペラの様式を守りながらも、
新しい和声や管弦楽法を取り入れ、19世紀から20世紀への橋渡しとなる革新的な作品を生み出しました。
ジャコモ・プッチーニの人生は、栄光と苦悩、愛と裏切り、
そして芸術への献身に彩られたものでした。
彼の波乱万丈な人生と、そこから生まれた不朽の名作は、
今もなお多くの人々の心を魅了し続けています。
オペラ愛好家だけでなく、音楽を愛するすべての人にとって、
ジャコモ・プッチーニの作品は永遠の宝物となってると言えるでしょう。
最後に、プッチーニのもっともアリアの1つ『誰も寝てはならぬ』(Nessun dorma)を紹介します。
ジャコモ・プッチーニの豆知識
ここまで、プッチーニの生涯についてざっくりとお届けしました。
なんとな〜くでも、その人柄や生涯について知っていただければ幸いです。
とはいえ「どんな人物だったか?」というのは、
イマイチまだ掴めないのではないかと思います。
そこで以下では、プッチーニにまつわる明日話せるエピソードを3つ紹介します。
プッチーニの豆知識その1:不倫疑惑が起こした悲劇が作品に影響?
1909年、プッチーニの妻エルヴィラは、プッチーニ家で働く女中ドーリア・マンフレーディが作曲家と不倫関係にあったことを公に衝撃告発します。
告発後、身に覚えのない疑惑にショックを受け、
立ち直れなくなったマンフレーディは自殺してしまうことに・・・。
しかし、解剖の結果、マンフレーディは処女であったことが判明し、
マンフレーディにかけられた疑惑は完全否定されます(悲しすぎる事件です)。
その後、妻のエルヴィラは名誉毀損で起訴され、5ヶ月以上の禁固刑を言い渡されますが、
プッチーニがマンフレーディ一家にお金を支払ったため、刑に服すことはありませんでした。
上で少し書きましたが、これは「ドーリア・マンフレーディ事件」と称されています。
事件後、一部の音楽批評家やプッチーニ作品の解釈者は、
この事件がプッチーニに与えた心理的影響が、その後のプッチーニの作曲活動に支障を与え、
また、自殺によって悲劇的な死を遂げる奴隷の少女リュー(『トゥーランドット』より)のような登場人物にも影響を与えたと推測しています。
プッチーニの豆知識その2:指揮者トスカニーニの配慮
上述したように、オペラ『トゥーランドット』作曲中にこの世去ったプッチーニ。
その後、遺構をベースに、友人のフランコ・アルファーノが補筆を行いフィナーレが完成となりました。
そして1926年、スカラ座にてついに『トゥーランドッド』の初演が行われた時のとこ。
指揮は、プッチーニを先生と慕う大指揮者アルトゥール・トスカニーニが担当しました。
初演は順調に進み、いよいよフィナーレに差し掛かろうとしたところ、
トスカニーニは突然演奏を止め「この部分で先生(プッチーニ)が亡くなりました」と聴衆に伝えたのでした。
訪れた聴衆は、トスカニーニの突然の行動に驚いたものの、
その行動に深い感動を覚え、初演は大成功を収めることになりました。
プッチーニの豆知識その3:3大オペラを知ろう!
このサイトではすでに(?)お馴染みとなった「3大〇〇」。
これまで、機会があるごとにクラシック音楽「3大〇〇」を紹介してきました。
そしてなんと!
プッチーニにも「3大〇〇」が存在しますので、
ぜひ覚えておいてください。
まずは、プッチーニの3大オペラから。
以下の3作品です。
そして、プッチーニの『蝶々夫人』はすべてのオペラの中の「3大オペラ」に数えられています。3大オペラは以下の3作品です。
・ジュゼッペ・ヴェルディ作『椿姫』
・ジョルジュ・ビゼー作『カルメン』
・ジャコモ・プッチーニ作『蝶々夫人』
この記事を機会に、ぜひとも覚えておいてください!
終わりに:イタリア出身の作曲家たち
ということで、ジャコモ・プッチーニの1記事目はここまで終了です。
毎度のざっくり解説ですが「知るきっかけ」になってくれれば幸いです。
当サイトでは、さまざまなクラシック音楽家について紹介しています。
イタリア出身の作曲家についても解説していますので、
ぜひそちらも参考になさってください!
・「トスカ」・・・最も頻繁に上演されるオペラの一つ。スタジオ録音ライヴ録音多数
・「ラ・ボエーム」・・・最もよく演奏されるイタリア・オペラの一つ。
・「蝶々夫人」・・・明治時代の長崎を舞台にしたオペラ。アメリカの作家ジョン・ルーサー・ロングによる小説が元となっている。