ブラームスとはどんな人物?その生涯や豆知識、エピソードを簡単に解説!!

    今回はシューマンの愛弟子ヨハネス・ブラームスの生涯やエピソードを紹介します。

    ブラームスは学生時代「一番聴いたんじゃないかな」(同じ曲ばかりですが)ってくらい聴きました。

    なので、またまた気合が入りすぎて長文になりそうですが、そこはグッと堪えて、できるだけ簡単に紹介していきたいと思います。

    ブラームスの人物像と生涯

    ロマン派を代表する作曲家ヨハネス・ブラームス。20歳でシューマンに才能を見出されて以来、『ドイツ・レクイエム』などの成功により、大作曲家の仲間入りを果たしますが、意外にも少年時代は苦労の時代を過ごしました。

    ブラームスの生涯その1、幼くして楽才を発揮

    ヨハネス・ブラームスは、1833年、ドイツのハンブルクに生まれました。コントラバス奏者だった父の影響により幼少期から音楽に関心を抱き、6歳で父ヤーコブから最初の音楽の手ほどきを受けます。

    一般にコントラバス奏者として紹介される父ヤーコブですが、実際には家計を支えるため、ヴァイオリンやチェロ、ヴィオラやフルートまでこなしたそうです。また、時には写譜をして家族を支えていと言われています。

    さて、このような経歴を父に持つブラームスは、音楽的才能を受け継いだのか、幼少の頃から天賦の楽才を発揮。

    その後、息子の音楽的才能に早くから目をつけた父ヤーコブは、ブラームス7歳の時にピアノ教師フリードリヒ・コッセルの元に通わせ、本格的にピアノを学ばせます。

    コッセルの指導によりみるみる才能を開花させたブラームス。わずか10歳で初リサイタルを開くまでに成長し、ある時にはアメリカ人興行師から「アメリカで演奏旅行をしてみないか?」と打診されるほどでした。

    この申し出について、両親は了承したものの(経済的理由だと思うけど)、コッセルがこれに反対し、その代わりとしてエドゥアルト・マルクスゼンの元で作曲とピアノを師事し始めます。

    しかし、貧しい状況は変わらず、13歳のブラームスは、街の居酒屋やレストランでピアノを伴奏して家計を支えていたそうです。

    ブラームスの生涯その2、シューマンとの出会い

    マルクスゼンの元で作曲を学んだブラームスは、その後ハンガリーのヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニと出会い、演奏旅行にでかけるなど交友を深めます(ジプシーの音楽を知ったのもレメーニがきっかけです)。

    この演奏旅行でブラームスは大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムとも知り合い、
    以降二人の親交は生涯に渡り続くことになりました。

    ブラームスの才能を賞賛したヨアヒムは、彼にフランツ・リストとの面会を勧めます。
    最近の記事では何かとリストの名前が頻出しますが、それくらい、この時代におけるリストの影響力は絶大だったんです。

    ちなみにリストの生涯についてはこちらです。代表作については👇を参考に!

    ヨアヒムの紹介により、リストと面会の機会を得たブラームスですが、実際に会ってみたところ「あまりピンと来なかった」みたいです。

    それよりも、この時期のブラームス(というか人生)にとって決定的となったのは、恩師ロベルト・シューマンとの出会いでした。

    ロベルト・シューマンは前回のシリーズで取り上げたこの人です。代表作の紹介はこちら👇

    1853年、自作の「ピアノソナタ第1番」を持参してシューマンの前で披露したブラームス。

    作品を聴いたシューマンは即座にブラームスの才能を見抜き、第1楽章の終わりで演奏を止めさせ外にいた妻クララを家に引き入れると、もう一度最初から演奏するようブラームスを促しました。この時ブラームスは弱冠20歳。

    ブラームスの登場に新しい時代の訪れを感じたシューマンは、
    神様から直接遣わされたような人物」と述べ絶賛しています。

    新しい若い才能に感動と感銘を受けたシューマン。
    その後、自身が編集に携わっていた音楽雑誌『新音楽時報』に「新しい道」と題した論表を掲載してブラームスを賞賛し、若き才能を賞賛したのでした。

    これ以降シューマンとブラームスは師弟関係となり、
    ブラームスは病に伏せるシューマンを献身的にサポートします。

    1856年にシューマンが死去した後も妻クララとブラームスの交友は継続され、優れた演奏家として、そして一人の女性としてクララはブラームスにとってなくてはならない存在へと発展ました。

    ブラームスの生涯その3、憧れの地ウィーンへ

    1857年、ドイツ領主国家のリッペ=デトモルト侯国に音楽家として招かれたブラームス。
    この地で3年間を過ごしたのち、1869年から活動拠点を音楽の都ウィーンに移します。

    この時期の代表作として真っ先に挙げられのが、代表作『ドイツ・レクイエム』でしょう。
    オーケストラの練習不足により、初演こそ不評だったものの、のちに十分なリハーサルが重ねられ、大成功を収めました(『ドイツ・レクイエム』については別途解説記事を書きます)。

    この成功により、ブラームスはリヒャルト・ワーグナーの対極にある気鋭の作曲家として、脚光を浴びることになります。

    ロマン派の音楽をめぐっては、ブラームス派ワーグナー派に2分されることはよく知られているところですが、ブラームス本人は音楽家としてのワーグナーに敬意を払っていたと言われています。

    この成功以降、1870年代のブラームスは交響曲などの代表作を次々と発表し、
    大作曲家として不動の地位を獲得するに至ります。

    なかでも1876年、構想から21年かけて発表した『交響曲第1番』は、指揮者でピアニストのハンス・フォン・ビューローをして「ベートーヴェンの10番目の交響曲のようだ」と言わしめ、西洋音楽界の新たな地平を切り開きました。

    作品紹介は次回の記事に掲載します。

    ブラームスの生涯その4、作曲家引退宣言?

    ドイツ・ロマン派を代表する作曲家として成功したブラームス。

    しかし、そんなブラームスも自身の衰えを感じ、50代後半で一時期引退を考えます。これは結構深刻なものだったらしく、遺書を書き、身の周りの整理を始めるほどだったと言います。

    どんな偉大な作曲家にも挫折の時期があったことを知ると、少しだけホッとします。
    それはさておき・・・。

    一時は真剣に引退を考えたブラームスですが、1891年、クラリネット奏者のリヒャルト・ミュールフェルトの卓越した演奏を聴いたことで創作意欲が湧き、再び作曲活動を再開します。

    このことをきっかけに作曲されたのが、『クラリネット3重奏曲』『クラリネット5重奏曲』、『クラリネットソナタ第1番・第2番』です。

    その他、最晩年の1890年代には、ピアノ曲『7つの幻想曲』(1891年)や『4つの小品』(1892年)といった「ブラームスの精神ここに極まれり」といった優れた名作を残しています。

    ブラームスの生涯その5、クララ・シューマンの後を追うように・・・

    創作意欲を取り戻したブラームスでしたが、自身の老いには逆らえませんでした。

    そして友人や知人が相次いでこの世を去る中、何よりもブラームスの精神に大きな打撃を与えたのが、敬愛するクララの死だったことは言うまでもありません。1896年5月のことでした。

    クララの死が直接影響したとは考え難いですが、クララの死の翌年(1897年)4月3日、後を追うかのように肝臓がんのためブラームスはこの世を去ります。享年63歳でした。

    生涯独身を貫き、多くの若手芸術家を育てた偉大な音楽家ブラームス。彼の遺体はウィーン中央墓地に埋葬されて今も静かに眠っています。

    ブラームス:ハンガリー舞曲集(全集)

    ブラームスの豆知識・エピソード

    ブラームスと聞いても、クラシック音楽好きな方でない限り、ピンとくる方は少ないはず。

    ということで、ここでは有名な話を2つだけ紹介します!!この2つを知っておけば、「なんで知ってるの?」って自慢できるかも!?しれません。

    豆知識・エピソードその1、「ドイツ3B」の一人

    「世界3大〜」とかって聞いたことありませんか?「世界3大美女」とか「世界3大料理」とかのあれです。

    で、ブラームスも「3大〜」に数えられています。
    あっ!!前々回シューベルトの記事で紹介した、『未完成交響曲』も「3大交響曲」の一つでした。

    忘れてしまった方はこちらも併せてぜひ👇

    話を元に戻して、ブラームスは何と言われているかと言うと・・・、

    ドイツ3B」の一人として挙げられています。

    「3B」とは頭文字から取られていますが、誰だかわかりますか????

    「ドイツ3B」とはBach(バッハ)Beethoven(ベートーヴェン)、そしてBrahms(ブラームス)の3人の頭文字を取ったものです。

    意外とメジャーどころの3人なので、覚えやすいと思います。ぜひこれを機会に覚えておいてください!!。

    この「ドイツ3B」と名付けたのは、👆に少し出てきたリストの弟子ハンス・フォン・ビューローと言われています(こっちも覚えておくとレベル高し!)。

    ビューローがこのように表現した理由は、
    同時代の優れた作曲であるブラームスを世間に広める目的があったと言われています。

    バッハ作曲『平均律クラヴィア曲集』を旧約聖書に喩え
    ベートーヴェンの『ピアノソナタ』を新約聖書に喩えたのもビューローです。

    その2、歴史上初の録音を行う

    録音技術を開発したのはエジソンだということは多くの人が知っていると思います。

    蓄音機から始まり、レコードになり、テープ、CD、MD、ダウンロードと人類は少しずつ録音技術を発達させてきました。

    では「最初に録音したのは何だったのか?」と聞かれて、
    即座に答えられ人は少ないハズ。

    実は、歴史上最初に録音を行ったのが、
    エジソンの代理人の依頼を受けたブラームスなんです。
    録音は1889年に行われ、演奏曲目はブラームスの代表曲『ハンガリー舞曲』とヨーゼフ・シュトラウスの『とんぼ』という不思議な組み合わせが選ばれています(ヨーゼフ・シュトラウスにたどり着くのはいつのことか・・・)。

    なぜブラームスに白羽の矢が立ったのかは調べきれてませんが、
    それくらいブラームスが世界的な音楽家として知られていたということでしょう。

    これ、ぜひ覚えておいてください!。

    ちなみに、自分の演奏を聞いたブラームスは、
    これにより自分の「老い」に落胆し、
    作曲家引退を考える引き金になったと言われています。
    ここでつながる(笑)。

    ブラームスハンガリー舞曲集(連弾) 全音ピアノライブラリー

    今回のまとめ

    結構ざっくり書いたつもりですが、これで約4500字。

    ブラームス、本当に学生時代によく聞きました。

    今考えると、「なかなか渋い学生だったな」と我ながら思います。

    ルドルフ・ゼルキン演奏の『ピアノ協奏曲』なんて、「LPが擦り切れるんじゃないか」ってくらい聞いたな〜。

    という思い出話はさておき・・・。