ボロディンとはどんな人物?その生涯や豆知識、エピソードや死因を簡単に解説!

ボロディン

    この記事では「ロシアの五人組」の一人、ボロディンについて紹介します。
    「誰それ?」という方も多いでしょうし、作品数もそれほど多くない作曲家です。

    しかし、彼の「韃靼人の踊り」は間違いなく、
    誰もが1度は聴いたことがある名曲です。

    また、ロシアの作曲家として知られるボロディンですが、
    同時に、科学史に名を残すほどの科学者でもありました。

    そんな多方面で活躍したボロディンはどのような人生を歩んだのでしょうか。
    いつものながら、その生涯やエピソードについてざっくりと解説しますので、
    ぜひ最後までご一読ください。

    同じくロシアの五人組メンバーだった、ムスルグスキーについてもお読みいただくと、
    より知識が深まります。

    展覧会の絵
    ボロディン
    画像出典:アマゾン:ボロディン:交響曲全集

    初月無料体験!解約いつでもOK!
    amazon music unlimited

    ボロディンの生涯について

    caucasus-5302236_640

    53歳という若さでこの世を去ったボロディン。
    しかし、彼が残した学問的研究や音楽作品は、後世に大きな足跡を残しました。

    ボロディンの生涯その①、謎に包まれた誕生

    1833年11月12日、サンクトペテルブルクで一人の男の子が生まれました。
    これが、後に世界的に有名になるアレクサンダル・ボロディンです。
    しかし、彼の誕生には秘密がありました。

    実は、ボロディンは当時62歳だったグルジア(現在のジョージア)の貴族と、
    25歳のロシア人女性の間に生まれた非嫡出子だったのです。
    その時代、婚外子は社会的に認められていませんでした。
    そのため、ボロディンは農奴(のうど)の子として登録されることに。

    そのため、幼いボロディンは自分の母親のことを「おばさん」と呼んでいたそうです。
    しかしこれは、当時の社会的な事情から、そう呼ばざるをえいない状況だったとのこと。

    自分の母親を「おばさん」と呼ばなくてなならに状況って・・・。

    農奴とは

    古くは中世ヨーロッパ時代から続く封建制度の制度の一つ。領主に雇われて農業に従事する人々で、農民と奴隷の中間の身分。

    ボロディンの生涯その②、恵まれた教育環境

    ボロディンの出生は複雑だったものの、幸いなことに、彼は素晴らしい教育を受けることができました。

    実の父親が裕福だったおかげで、ボロディンは4階建ての大きな家で育ち、
    最高の家庭教師から学ぶことができたのです。

    彼の教育は、まさに全方位的でした。
    音楽では、ピアノ、フルート、チェロを学びました。
    言語では、英語、ラテン語はもちろん、フランス語とドイツ語もマスター

    10歳の頃には、すでに化学にも興味を持ち始めていたそうです。

    このような恵まれた環境で育ったボロディンは、早くから才能を発揮し始めます。
    なんと、14歳の時にはフルートとピアノのための協奏曲を作曲したというから驚きですね。
    残念ながら、この作品は現存していないものの、
    彼の音楽的才能の芽生えを感じさせるエピソードです。

    100曲クラシック=ベストが10枚3000円

    ボロディンの生涯その③、化学への道

    ボロディンの人生は、音楽と科学の二つの道を歩むことになります。
    17歳の時、彼はサンクトペテルブルク医科外科アカデミーに入学しました。
    ここで、彼は本格的に化学を学び始めます。

    大学では、ニコライ・ジーニンという素晴らしい教授に出会います。
    ジーニン教授は熱心な研究者であり、同時に面倒見の良い指導者でもありました。
    この出会いが、ボロディンの科学者(化学者)としての人生に大きな影響を与えることになります。

    しかし、ここでも音楽への情熱は消えることはありませんでした。
    大学での研究の傍ら、ボロディンはロマンス、ピアノ曲、室内楽、器楽合奏などを作曲し続けていたのです。
    ただ、ジーニン教授はこれを快く思わず、「音楽は真剣な科学的作業の邪魔になる」と考えていたとのこと。それほど、ボロディンの学者としての才能を認めていたわけですね。

    余談ですが、ボロディンは大学を最優秀で卒業するほどの天才でした。

    ボロディンの生涯その④、科学者としての輝かしい業績

    大学を卒業したボロディンは、1年間軍病院で外科医として働きました。
    その後、3年間ヨーロッパで高度な科学研究に従事します。
    この経験が、彼の科学者としてのキャリアをさらに飛躍させることになりました。

    1859年から1862年にかけて、ボロディンはハイデルベルク大学でポスドクとして働きました。ここで彼は、ベンゼン誘導体の研究に取り組みます。
    また、イタリアのピサでは、ハロカーボンの研究も行いました。

    彼の研究成果は革新的でした。
    1862年には、塩化ベンゾイルにおけるフッ素による塩素の求核置換を初めて報告。
    これは化学史に残る大きな発見でした。
    さらに1861年には、脂肪族カルボン酸のラジカルハロデカルボキシル化を初めて実証しています。

    1862年、ボロディンは母国ロシアに戻り、帝国医学外科アカデミーの化学教授に就任します。
    ここで彼は、現在アルドール反応として知られる、小さなアルデヒドの自己縮合反応の研究に取り組みました。

    ボロディンの科学的業績は、当時から高く評価されていました。
    なかでも、アルデヒドに関する研究は、化学界で大きな注目を集め、今日でも化学の教科書に載っているほど重要なものとなっています。

    生涯その⑤、音楽家としての才能開花

    科学者として成功を収めながらも、ボロディンの音楽への情熱は決して消えることはありませんでした。
    1862年、彼は29歳の時にミリー・バラキレフという有名な作曲家から作曲のレッスンを受け始めます。

    バラキレフとの出会いは、ボロディンの音楽人生に大きな転機をもたらすことに。
    バラキレフは、ボロディンを現在の「ロシアの五人組」と呼ばれる作曲家グループに誘います。このグループは、ロシアらしい音楽を作ることを目指していました。

    ボロディンの音楽は、強い叙情性と豊かなハーモニーで特徴づけられますが、
    それは西洋の作曲家からの影響はもちろん、同時にロシアの民族音楽の要素が大いにありました。

    彼の情熱的な音楽と独特のハーモニーは、後のフランスの作曲家ドビュッシーラヴェルにも大きな影響を与えています。

    ドビュッシー
    ボレロ

    生涯その⑥、代表作と後世への影響

    ボロディンは「日曜作曲家」と自称していましたが、
    その作品は質・量ともに素晴らしいものでした。
    彼の代表作には以下のようなものがあります:

    1. 交響曲第2番
    2. 交響詩『中央アジアの草原にて』
    3. 弦楽四重奏曲第2番(特に「夜想曲」が有名)
    4. オペラ『イーゴリ公』(未完成ながら高い評価を受けている)

    これらの作品は、今日でもコンサートホールで頻繁に演奏されています。

    興味深いことに、ボロディンの音楽は彼の死後も新たな形で生き続けています。
    1953年、彼の曲を基にしたミュージカル『キスメット』が上演されました。
    このミュージカルの中の「Stranger in Paradise」など、いくつかの曲はボロディンの作品をアレンジしたものです。

    『キスメット』は大成功を収め、1954年にはトニー賞を受賞しました。

    ボロディンの死後67年も経ってからの受賞というのは、
    彼の音楽の永続的な魅力を物語っていますね。

    ボロディン 小組曲とスケルツォ

    生涯その⑦、二足のわらじを履いた天才の最期(死因)

    ボロディンは、科学者として、また音楽家として輝かしい成功を収めました。
    しかし、彼の人生は決して長くはありませんでした。

    1887年2月27日、53歳のボロディンは友人たちとパーティーを楽しんでいる最中に突然倒れ、
    この世を去りました。死因は心臓発作(動脈瘤の破裂)だったと言われています。

    彼の突然の死は、多くの人々に衝撃を与えました。
    しかし、ボロディンの遺した業績は、彼の死後も長く人々の記憶に残り続けています

    ボロディンの豆知識やエピソードについて

    moscow-3617070_640

    ここまで、ボロディンの生涯について紹介してきました。
    クラシック音楽の作曲家という印象が強いですが、化学者としてもその功績は大きい人物といえるのではないでしょうか。

    というより「天才科学者が音楽もやっていた」という方が、
    もしかしたらボロディンの人生に近いのかもしれません。

    以下では、そんな彼の明日話せる豆知識やエピソードをいくつか紹介します。

    ボロディンの豆知識・エピソードその1、フランツ・リストにより名声が広まる

    少年時代から科学(化学)に没頭し、一流の研究者として成功したボロディン。
    彼にとって音楽は、ある意味では「高尚な趣味」の一つだったのかもしれません。

    しかし、バラキレフより本格的に作曲のレッスンを受け始めた以降、
    次第に音楽的な才能も開花させていきます。

    そんなボロディンの才能がロシア以外でも知られるようになったのは、
    ピアノの魔術師フランツ・リストがきっかけだと言われています。

    西洋音楽をベースにしながらも、ロシアの民謡や寓話をモチーフにしたボロディンの作風は、天才リストをも魅了したわけですね。
    そしてその才能を認めたリストが、1880年、ドイツにてボロディンの『交響曲第2番』を演奏したことで、彼の名はヨーロッパにも知られるようになりました。

    豆知識・エピソードその2、化学者として生計を立てる

    音楽の才能を開花させたボロディンですが、
    やはりその根幹にあるのは、化学者としての生き方でした。

    じっさい、彼は生涯にわたり化学者として収入を得ており、
    作曲家というより、あくまでも「学者」としてのボロディンが本職であったようです。

    研究業績は膨大で、とくにアルデヒドの研究において優れた業績を残しており、
    「ボロディン反応」と呼ばれる化学反応を発見した人物でもあります。

    豆知識・エピソードその3、『イーゴリ公』は未完だった

    ボロディンの代表作といえばオペラ『イーゴリ公』
    なかでも「ポロヴェツ人の踊り」(日本では「韃靼人の踊り」として知られる)が有名です。

    しかしこの作品、じつは本職の研究や公務が忙しく、また本人が急死したため、
    生前中は完成できませんでした。

    ボロディンの死後、リムスキー=コルサコフアレクサンドル・グラズノフによる補筆・改訂により、ようやく一つの作品として完成します。

    そして死後からおよそ3年後の1890年11月4日にようやく初演を迎え、
    今日のような人気作となりました。

    作品については別記事で紹介していますが、
    ひとまず「ダッタン人の踊り」はこの曲です👇

    サイモン・ラトル指揮
    だったん人の踊り~エルネスト・アンセルメ/ロシア音楽コンサート

    ボロディンの生涯まとめ

    今回は「ロシア五人組」の作曲家で化学者のアレクサンドル・ボロディンを紹介しました。
    ざっくり解説ですが、少しでも興味を持っていただければ幸いです。

    一般に知られる作品としては「ダッタン人の踊り」が有名ですが、
    次回は、その他の代表作について解説しますので、
    そちらも併せてご一読いただければ幸いです。

    いずれ「ロシアの五人組」全員を完成させますので、
    そちらもお楽しみにしていたければと思います。

    クラシック作曲家列伝 バッハからラヴェルまで12人の天才たちの愉快な素顔 

    椿