ガブリエル・フォーレとはどんな人物?その生涯や豆知識、エピソードや死因について簡単に解説!

    今回解説するのは、ガブリエル・フォーレです。

    今回も3回にわたって紹介します。

    「えっ?誰それ?」って思った方。

    それは「知識が上がるサイン」なので、ぜひ今回からの記事を参考にしてみてください!!

    フォーレはサン=サーンスの弟子であり、また「ボレロ」で有名なモーリス・ラヴェルの先生でした。フォーレ作曲「レクイエム」は不朽の名作として、現在もなお多くの聴衆に愛されています。

    サン=サーンスエリック・サティの記事はこちらです👇

    ガブリエル・フォーレの生涯について

    今回はガブリエル・フォーレ(以下フォーレ)の生涯について解説します。

    フォーレはドビュッシー、ラヴェルとならび、近代フランス音楽の発展に大きく貢献しました。「ペリアスとメリザンド」が有名で、誰しも一度は聞いたことがあると思います。

    幼少期からオルガンの才能を発揮

    ガブリエル・フォーレは、1845年、スペインに近いフランス南部のアリエージョ県、パミエに生まれました。

    5男1女の未子として生まれ、父は学校の教師をしていたそうです。

    フォーレ家は音楽家家系ではありませんでしたが、
    フォーレは幼いころから教会のオルガンに興味を示し、
    早くからその才能を発揮します。

    わずか9歳でパリのニーデルメイエール古典宗教音楽学校に入学を許可されたフォーレは、
    以降11年間にわたり、グレゴリオ聖歌やルネサンス期などの宗教音楽を中心に学びます。

    音楽学校に通学中、フォーレにとってとりわけ大きな出来事として挙げられるのは、
    大作曲家サン=サーンスが同校に就任したことでした。

    サン=サーンス就任以降、フォーレはピアノと作曲をサン=サーンスに師事し、
    その生涯を通じて交流を深めることになります。

    この時のサン=サーンスの主な教材は、
    フランツ・リストやワーグナーの作品だったそうです。

    1865年に同校を卒業したフォーレは、
    レンヌのサン・ソブール教会のオルガン奏者を経て1877年、
    パリのマドレーヌ教会のオルガニスに就任しました。

    国民音楽協会に参加、オルガニストとして活躍

    マドレーヌ教会のオルガニストに就任したフォーレは1871年、
    サン=サーンスやフランクなどが設立した「国民音楽協会」に参加します。

    国民音楽協会とは普仏戦争後に設立されたフランス人のみによる音楽協会です。

    その目的は、若手フランス人作曲家の紹介や、新作発表の機会の提供、指揮活動など多岐にわたり、フォーレの他に、エルネスト・ギロー、ジュール・マスネ、「カルメン」で有名なジョルジュ・ビゼーらが参加していました(1890年代にはドビュッシーやラヴェルも参加しています)

    国民音楽協会にて作品を発表する機会を与えられたフォーレは、
    徐々にその実力が認められ、上記の通り、
    1877年にマドレーヌ協会のオルガニストに就任しています。

    その後、1896年には同教会の主席ピアニストとなり、
    フォーレの名声は揺るぎないものとなりました。

    また、フォーレの代表作「レクイエム」や「パヴァーヌ」、「ペレアスとメリザンド」が作曲されたのもこの時期であったことから、19世紀末はまさにフォーレの絶頂期とも言えるでしょう。

    フォーレ、パリ音楽院の教授となる

    1896年にマドレーヌ教会の主席ピアニストとなったフォーレ。

    同年、パリ音楽院の作曲法の教授に就任し、
    モーリス・ラヴェルやジョルジュ・エネスクなどの優れた作曲家を指導しています。

    1905年、ラヴェルがローマ賞(作曲家の登竜門)に落選するという「ラヴェル事件」をきっかけに、フォーレはパリ音楽院院長となり旧態依然とした音楽院の改革を行いました。

    その改革の一つとして、癒着を避けるため「音楽院の入学試験は部外者」が担当するというものがありますが、この伝統は現在でも受け継がれています。

    また、伝統的な音楽形式を重んじたフォーレでしたが、
    19世紀末から20世紀初頭に流行したいわゆる「印象派」の音楽にも理解を示し、
    偏りのない公平な教育を施していたそうです。

    音楽院改革に乗り出したフォーレは、その剛腕ぶりから「ロベスピエール」のあだ名が付けられましたが、フォーレの改革により音楽院はますます活性化し、
    現在もなお世界的名門校として世界中にその名を轟かせています。

    フォーレは1920年、75歳までパリ音楽院院長を務め、
    作曲家で音楽教育者のアンリ・ラボーが後任に就任しています。

    難聴になりながらも作曲を続けた晩年

    50代中頃から難聴に悩まされフォーレですが、
    晩年も意欲的に作曲活動を続けます。

    とくにピアノ五重奏曲第2番やピアノ三重奏曲は最晩年の傑作とされ、
    その静謐で深淵な作風は、フォーレの作曲家人生の集大成とも言える作品です。

    そして1924年、フォーレは肺炎により79歳でこの世を去りました。

    葬儀は長年主席ピアニストを務めたマドレーヌ教会において国葬とされ、
    フォーレ自身が作曲した「レクイエム」が演奏される中、式が執り行われました。

    ガブリエル・フォーレのエピソードについて

    フォーレのエピソードを簡単に紹介します。
    学者肌のフォーレですが、意外に奔放な恋愛をしていたようです。

    次世代の橋渡しとなる

    「パヴァーヌ」や「ペレアスとメリザンド」などの有名曲を残したフォーレですが、
    クラシック音楽ファンでなければフォーレの名前を聞いたことのない人も多いと思います。

    しかしフォーレはドビュッシーやラヴェルといった次世代の音楽家への橋渡しとして、大きな役割を果たしています。

    また『失われた時を求めて』の作者マルセル・プルーストは、
    フォーレの信奉者だったことでも知られています。

    奔放な恋愛関係

    学者肌で、敬虔なカトリック教徒の印象の強いフォーレですが、
    実際のフォーレはそんなイメージとは離れた人物だったようです。

    1883年、38歳でマリーと結婚した後も、
    90年代初めにエンマ・バルダック(のちのドビュッシー夫人)と不倫。

    人生の後半では、イギリスの楽譜出版社夫人アディーラ・マディソンと恋仲になっています。

    そして1900年、マルグリット・アッセルマンという女性と出会い、
    旅行に付き添わせるという愛人関係を結びました。

    フォーレは多くのピアノ曲も残していますが、その大部分を女性に献呈したことでも有名です。

    とくにエンマ・バルダックに捧げた「優しき歌」を聴いたサン=サーンスからは、「フォーレはついに完全に狂った!!」と酷評されました。

    ガブリエル・フォーレのまとめ

    今回はガブリエル・フォーレの生涯について解説しました。

    この記事を機会にフォーレの名前を知った方も多いのではないでしょうか。

    その人生には色々あったようですが、芸術家らしいといえば芸術家らしいのかもしれません。

    作品を聴いたことがないという方は、次の記事でおすすめ作品を紹介しますので、
    次の記事も読んでいただければ幸いです。

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