カール・マリア・フォン・ウェーバーについて簡単にまとめ解説!生涯や豆知識、面白いエピソードや死因は?

ウェーバー魔弾の射手

    この記事では、ドイツ・ロマン派音楽の先駆者カール・マリア・フォン・ウェーバー(以下ウェーバー)の生涯について解説します。

    「誰それ?」という声が聞こえてきそうですが、
    学校の音楽室にある写真などで、なんとな〜く顔を見たことがある方もいるかもしれません。

    あるいは、ピアノを習っている方にとっては、
    名曲『舞踏への勧誘』を演奏したことがある方もいることでしょう。

    ウェーバーの音楽を一言で表すと「華麗」そのもの。
    宮廷音楽家ならではの華やかさが作品の魅力です。
    ドイツ・オペラの基礎を確立し、ワーグナーへと続く伝統を打ち立てた、
    ウェーバーはどのような人生を歩んだのでしょうか。

    今回もいつもながらのざっくり解説でお届けしますので、
    ぜひ最後まで読んで参考にしてください。

    画像出典:アマゾン:ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」

    カール・マリア・フォン・ウェーバーの生涯

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    ドイツ・ロマン派オペラの基礎を築き、現代のオーケストラ編成を確立したウェーバーとは、
    どんな人物だったのでしょうか。

    39歳という短命ではあったものの、ウェーバーは音楽史において重要な役割を果たしています。

    カール・マリア・フォン・ウェーバーの生涯その1:神童から始まった波乱の音楽人生

    カール・マリア・フォン・ウェーバーは、
    1786年11月20日、ドイツの小さな町オイティーンで生まれました。

    ウェーバーは、幼少期から類い稀な音楽の才能を発揮。
    そんな彼の才能を父フランツも早くから認め、
    息子を神童として世に送り出そうと、幼い頃から厳しい音楽教育を施したと言います。

    ウェーバーはモーツァルトの遠縁にあたる人物なのは有名な話ですが、
    もしかしたら、この血縁関係が、彼の音楽的才能に影響を与えたのかもしれません。

    しかし、ウェーバーの幼少期は決して平坦ではありませんでした。
    生まれつきの股関節の奇形に悩まされ、歩けるようになったのはようやく4歳の頃
    それでも、彼はすでに歌手やピアニストとして活躍し始めていました。

    ウェーバーの生涯その2:苦難を乗り越え、才能を開花させる

    神童として早くから注目を集めたウェーバーですが、1798年、12歳の頃に人生最初の悲劇が襲います。
    それは、敬愛していた母ジェノヴェーファが結核で亡くなったこと。
    この出来事はウェーバーの心に深い影を落としたものの、
    悲しさをバネにするかのように、音楽への情熱が燃え上がります。

    その後、ミュンヘンに移り住んだウェーバーは、同地にて様々な音楽家から指導を受けます。
    なかでも、1803年から1804年にかけてウィーンでゲオルク・ヨーゼフ・ヴォーグラー大修道院長に師事したことは、彼の作曲家としての成功に決定的な影響を与えと考えられています。

    17歳でブレスラウの劇場のカペルマイスターに抜擢されたウェーバー。
    経験不足にもかかわらず、彼の真剣なリハーサルは高い評価を得ました。
    この経験が、後のプラハやドレスデンでの指揮者としての活躍につながります。

    カペルマスター・・・楽長のこと。

    ウェーバー:クラリネット協奏曲第1&2番、他

    ウェーバーの生涯その3:『魔弾の射手』:ドイツ国民オペラの金字塔

    1821年は、ウェーバーの人生における最大の転機ともなる年でした。
    ベルリンで初演された代表作『魔弾の射手』(原題:Der Freischütz)が大成功を収め、
    ウェーバーはオペラの作曲家として不動の地位を獲得。
    『魔弾の射手』は、ドイツ国民オペラの金字塔として現在でも高く評価されており、
    世界中でもひんぱんに上演されています。

    そして、この『魔弾の射手』の誕生秘話も興味深いものがあります。
    それは、ドレスデンの作家ヨハン・フリードリヒ・キンドとの出会いがきっかけでした。
    二人の協力関係から生まれたこのオペラは、当初は『狩人の花嫁』というタイトルだったそう。
    しかし、ベルリンの王立劇場館長カール・フォン・ブリュール伯爵の助言により、
    『魔弾の射手』と改題され、現在に至ります。

    この作品の成功は、後のワーグナーやベルリオーズなど、多くの作曲家に影響を与えました。
    一説によると、彼らにとって『魔弾の射手』は、作曲家を志すきっかけにもなったのだそうです。ウェーバーの音楽が、次世代の音楽家たちの心に火をつけたわけですね。

    ワーグナー
    ベルリオーズ
    ウェーバー『魔弾の射手』全曲 C.デイヴィス&ロンドン響

    ウェーバーの生涯その4:最後のオペラ『オベロン』と死因

    1826年、ウェーバーは結核に苦しみながらも、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場の依頼により、もう一つの代表作である英語のオペラ『オベロン』を作曲します。
    そしてウェーバーは家族を養うため、家族にも病状を隠して渡英。
    自らが指揮棒を振り、初演はまたも大成功を収めました。

    しかし、これが彼の最後の栄光となりました。
    病状が悪化し、1826年6月5日、ロンドンで客死。わずか39歳という若さでした。
    死因は母と同じく結核でしたが、当時としては珍しくないことだったとも言えます。

    セント・ポール教会に埋葬されたウェーバーでしたが、18年後の1844年、
    リヒャルト・ワーグナーの尽力により、遺体はドレスデンに帰還しました。

    客死・・・外国で死ぬこと。

    No.11 ヴェーバー 「オベロン」序曲

    ウェーバーの生涯その5:ロマン派音楽への道を拓く

    39歳というあまりにも早い人生でしたが、ウェーバーの音楽は、その後のドイツロマン派の先駆けとなりました。
    彼の作品には、民族的な要素と斬新な和声法が融合しており、
    後のロマン派音楽に大きな影響を与えています。

    なかでも特筆すべきは、ウェーバーのオーケストレーション技法です。
    各楽器の特性を深く理解したウェーバーは、それぞれの音色を巧みに使い分けました。
    この技法は、後のベルリオーズやワーグナーのオーケストレーションに受け継がれていきます。

    また、ウェーバーはピアノ曲の作曲家としても重要な存在でもありました。
    彼のピアノ曲には、ロマン派特有の情感豊かな表現が見られ、
    たとえば『ピアノソナタ第4番』の第1楽章には、ウェーバーらしい表現豊かな雰囲気が溢れています。

    その他、ピアノ曲『舞踏への勧誘』のような、当時の宮廷の煌びやかさを連想させるような、
    華々しい作品もウェーバー作品の特徴です。

    参考までに『ピアノソナタ第4番』の参考例を掲載します👇。

    ピアノソナタ第4番

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    カール・マリア・フォン・ウェーバーの主要作品

    ウェーバーの代表作には、以下のようなものがありますが、
    それぞれの作品については、別記事で紹介します。
    でも、一応「こんな作品があるよ」ということで。

    1. オペラ『魔弾の射手』(1821年)
    2. オペラ『オベロン』(1826年)
    3. オペラ『エウリアンテ』(1823年)
    4. ピアノ協奏曲第1番 ハ長調(1810年)
    5. ピアノ協奏曲第2番 変ホ長調(1812年)
    6. クラリネット協奏曲第1番 ヘ短調(1811年)
    7. 『舞踏への勧誘』(1819年)

      他にもありますが、上記の作品を知っておけば十分かなと思います。

    ウェーバーに影響を受けた作曲家たち

    ウェーバーはオペラや管弦楽法、和声やオーケストレーションなど、
    多方面にわたり後世に大きな影響を与えています。

    たとえば、オペラの分野ではワーグナーなどがその代表者です。
    また、管弦楽法や和声においてはメンデルスゾーンやベルリオーズ、
    ピアノではリストやショパンなどがウェーバーの影響を受けています。

    ちなみに『舞踏への勧誘』は、両者のピアノのレパートリーでもあったそうですよ。
    各作曲家の関連記事はこちら👇。

    カール・マリア・フォン・ウェーバーの豆知識やエピソードについて

    天才ウェーバーにはどのようなエピソードが残されているのでしょうか。
    今回も明日話せる豆知識やエピソードを簡単に紹介します。

    ウェーバーの豆知識やエピソードその1:モーツァルトの親戚

    冒頭で紹介したように、ウェーバーはモーツァルトの親戚にあたる人物です。
    もう少し詳しく説明すると、モーツァルトの妻コンスタンツェ(映画「アマデウス」にも登場しますね)が父方の従姉(いとこ)にあたります。

    モーツァルトと血縁関係にあったわけではありませんが、
    天才同士の数奇な巡り合わせてと言えるかもしれません。

    また、モーツァルトが初めてオペラを作曲したのは12歳の頃でしたが、
    ウェーバーは11歳で最初のオペラを作曲したというのも、不思議な共通点ですね。

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    その2、ワインと間違えて劇薬を飲んで声を失う

    ウェーバーは楽器や作曲の才能だけでなく、美声の持ち主だったとも言われています。
    しかし、そんなウェーバーにとんでもない出来事が・・・。

    1804年、当時のブレスラウ(現在のポーランドのヴロツワフ)で楽長に就任した年のこと。表面加工用(エッチング)に使われる猛毒の硝酸をワインと間違って飲むという大事件を起こしてしまいます。

    硝酸なので喉はもちろん大火傷。
    これにより、ウェーバーは声を出せなくなってしまいます。

    天才作曲家として最高の栄誉を獲得したウェーバーですが、
    生涯にわたり何かと健康上の問題が尽きなかったようです。

    ちなみに、ブレスラウの楽長はわずか2年で退いています。

    その3、低迷していた歌劇場を復活させる

    今度はチェコ・プラハでの出来事。
    ウェーバーは各地を渡り歩き、その才能を発揮しますが、
    1813年にプラハ歌劇場の芸術監督に就任したのもその一つです。

    同地にてオペラ改革に取り組んだウェーバーは、
    モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』の再演を皮切りに、歌劇場の再興に成功しています。

    また、1817年にドイツ・ドレスデンに移った際には、
    みずからが作曲したオペラを上演。
    当時のドイツではイタリア・オペラが主流でしたが、
    新たにドイツ・オペラを確立することにも成功しています。

    カール・マリア・フォン・ウェーバーの生涯まとめ

    今回は「ドイツ・オペラの父」とも言える、
    ウェーバーの生涯やエピソードについて紹介しました。
    いつもながらのざっくり解説でしたが、少しでも興味を持っていただければ幸いです。

    ということで、もう少しウェーバー関連の記事が続きます。
    よろしければそちらもご一読ください。

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