今回はロマン派を代表するフランスの作曲家エクトル・ベルリオーズを紹介します。
ロマン派というと、シューベルトやメンデルスゾーン、シューマンなどの名前が挙げられますが、ベルリオーズはそんなロマン派作曲家の先駆けとも言える人物です。
とはいえ、クラシック音楽にあまり馴染みのない方にとっては、
初めて聞く名前かもしれません。
そんな方のために、この記事では、彼の生涯や豆知識、エピソードを簡単に解説します。
結構な「変わり者」で、興味深い人物なので、
この記事をきっかけにぜひ彼の作品を聴いてみてください!
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ベルリオーズの生涯について
指揮者・作曲家・評論家として活躍したベルリオーズ。
標題音楽や大規模編成のオーケストレーションを生み出した彼の人生はどのようなものだったのでしょうか。
現在でこそ、大作曲家として音楽史にその名が刻まれているものの、
生前は波乱の人生だったようです。
ベルリオーズの生涯その①、独学で音楽を学ぶ
エクトル・ベルリーズは、1803年12月、フランス南部に位置するイゼール県ラ・コート=サンタンドレに6人兄弟の長男として生まれました。
両親について、詳しい情報は少ないものの、
父はヨーロッパ人として初めて鍼治療を行い、
鍼治療に関する指南書も著した人物だったそうです。
他の作曲家たちのように、音楽に囲まれた幼少期を過ごしたかと思いきや、
6歳から町の神学校に入学する、いわゆる普通の少年だったようです。
しかし、学校が突如閉鎖されたことを機に、
18歳まで父親から教育を施され、ラテン語や文学、歴史、地理、数学、音楽などを学びます。
そしてこの中でベルリオーズがもっとも関心を抱いたのが音楽でした。
14歳から父が所有していたフラジオレットを吹き始め、さらにフルートやギターのレッスンも受けたと言われています。
ちなみに、フラジオレットはこんな楽器です👇(リコーダーに近い)
引用:wikipedia:フラジオレット
また、10代中頃から作曲の勉強も初めており、
フランス・バロックの作曲家ラモーの『和声論』で理論を学んだと言います。
ただし、まったく基礎的な音楽理論を知らなかったベルリオーズにとって、
それはあまりにも難しいものだったようです・・・。
ベルリオーズの生涯その②、医学の道を志すも・・・
父の教育により、家業を継ぐため18歳で大学入学試験(バカロレア)に合格したベルリオーズ。
医学を学ぶため、パリの医科大学への入学が許可されます。
しかし、ここで彼に大きな転機が!
医学を学ぶには、身体の構造を知る必要があり、
そのためには解剖学の授業が必須でした(もちろん現代もですが)。
しかし、解剖学のグロテスクさに耐えかねたベルリオーズ。
たちまち医学の道を断念し、授業そっちのけでオペラ座へ通う毎日を送り始めます。
というか、パリに到着してから数日でオペラ座を訪れ、その魅力にドップリ惹かれたそうなので、もしかしたら、医学の道を断念する言い訳だったのかもしれません(邪推です)。
とはいえ、パリ・オペラ座とオペラ・コミックで観た作品が、
その後のベルリオーズの進路に大きな影響を与えたことは間違いありません。
そして1822年。父の反対を押し切り医学の道を捨てたベルリオーズは、
19歳にしてようやく本格的に音楽を学び始めたのでした。
音楽院入学前のベルリオーズは、図書館に通い詰め、
楽譜を写したり、作品の分析をして作曲を学んでいたそうです。
ベルリオーズの生涯その③、音楽院へ
そして1823年、ついにパリ音楽院に入学を許可されたベルリオーズ。
音楽院で教授務めていたジャン=フランソワ・ル・シュウールにオペラと作曲を学ぶと、
1824年に最初の作品『荘厳ミサ曲』を発表します。
音楽院時代におけるベルリオーズの大きな目標は、
作曲家の登竜門と言われる「ローマ賞」で1位を受賞することにありました。
というのも、ローマ賞で1位を獲得すれば、気鋭の作曲家として注目されるだけでなく、
副賞としてヨーロッパへ研修旅行もできたからです。
1827年からローマ賞に挑戦したベルリオーズでしたが、この年は順位外。
2度目の挑戦となった1828年には2票差で2位。
その後1830年、4度目の挑戦にしてようやくローマ賞を受賞し、
ベルリオーズは本格的に作曲家として認知され始めます。
ちなみに、このときの受賞作が、代表作『幻想交響曲』です。
12月に一般公開された初演は大成功を収め、ベルリオーズの名前は大きく知られることとなりました。
この時期のベルリオーズは、ベートーヴェンに心酔していた時期であり、
作曲家としての成長はある意味では、ベートーヴェンによってもたらされたといっても過言ではないかもしれません。
また、シェイクスピア劇団に在籍していた女優ハリエット・スミッソンとの運命的な出会いも、この時期のベルリオーズにとって、大きな動機づけとなったと言えるでしょう。
引用:wikipedia
生涯その④
ローマ賞受賞後、すぐさまイタリア・ローマに向かったベルリオーズ。
同地のフランス・アカデミーおよびヴィラ・メディチで2年間学んだのち、
1832年、当初の予定を切り上げ当てパリへ帰国します(理由はエピソードにて)。
帰国後間もなくコンサートを開いたベルリオーズは、予想を遥かに超える大成功を収めたほか、1833年には憧れだったハリエット・スミッソンと交際し、結婚までる幸せの絶頂を迎えます。
また、同時代の音楽家たちと交流を深めたのもこの時期で、
ショパンやパガニーニといった卓越した作曲家から大きな影響を受けたそうです。
とくにベルリオーズの才能を高く評価したパガニーニは、ヴィオラ曲の作曲を依頼するまでになり、交響曲『イタリアのハロルド』が誕生するきっかけにもなりました。
作曲家として順調な人生を歩んでいたかに思えたベルリオーズ。
しかし、実際には1839年代後半は莫大な借金を背負うようになり、
生活はけっして楽なものではなかったそうです。
1839年からは生活のためにパリ音楽院の図書館員となり、
最終的に同図書館の館長に任命されています。
また、1840年代からはヨーロッパ各地への演奏旅行を始め、
一時期再び成功を収めるものの、困窮状況を抜け出せないまま、
図書館員のほか、新聞や雑誌などに連載するコラムにスト・音楽評論家として生計を立てていました。
生涯その⑤、成功〜晩年
厳しい期間を過ごした彼も、1850年代以降は大きな成功に恵まれます。
1854年、ドイツ・ハノーファーでの演奏会をはじめ、ドイツ各地での成功をきっかけに
オラトリオ『キリストの幼時』では、初演から大きな評価を獲得しました。
また、1856年にはフランス学士院会員にも任命されたベルリオーズは、
よりようやく収入が安定しはじめ、オペラ作曲など、再び作曲活動に力を注いでいます。
そして1864年、ちょうど60歳を境に作曲活動を終え、
以降はオーストリアやドイツ、ロシアで指揮者として活動しながら、
アパートにて生活したそうです。
晩年には、妻マリーと一人息子ルイを失い、
このことがベルリオーズを肉体的・精神的な苦痛を強めたと考えられています。
その後、ロシアのサンクトペテルブルクにてコンサートを開催。
拍手喝采で迎えられてものの、旅による疲労がベルリオーズの健康を損ね、
なんとかパリへ帰国したものの、1869年、自宅にて65歳でこの世を去りました。
詳しい死因はわかっていませんが、
慢性的な健康問題に起因するものとされ、長い間胃腸の問題に苦しんでいたことから、これが死に至った原因の一つと考えれています。また、彼の晩年にはうつ病や神経痛にも悩まされていたそうです。
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ベルリオーズの豆知識やエピソードは?
紆余曲折、波乱万丈の人生だったベルリオーズ。
そんな彼には、どのようなエピソードがあるのでしょうか。
以下では、明日話せる豆知識やエピソードを簡単に3つ紹介します。
ベルリオーズの豆知識やエピソードその①、婚約者を殺害して自殺を計画する
なんとも物騒なエピソードですが、ベルリオーズを語る上でもっとも有名な話といっても過言ではないでしょう。
ローマ賞獲得のため、作曲に邁進していたベルリオーズ。
一方その頃、彼はマリー・モークという女性と婚約状態にありました。
ローマ賞を受賞し、ローマ留学からの帰国後に結婚の約束を果たした2人。
そして見事にローマ賞1位を獲得したベルリオーズは、ローマへ渡り作曲の研鑽を重ねます。
しかし、そんな彼にある日マリーの母から1通の手紙が届きます。
その内容は「マリーがピアノ製作者として有名なイグナツ・プレイエルの長男カミーユと結婚する」というものでした。
絶望とともに、これまでのマリーへの愛が恨みへと変わったベルリオーズ。
彼はすぐさま女装のために婦人服用品店で服を買い、ピストルと自殺用の毒薬を持ち、パリへ向かう馬車に乗り込みます。
かなり極端な性格が伺えますが(かなり怖いですね)、
イタリアとフランスの国境付近で冷静になり、実行には至らなかったとのこと。
事件にこそならなかったものの、女装用の服まで買うって・・・。
豆知識やエピソードその②、生前は指揮者としての方が有名だった?
浮き沈みの激しい人生を送ったベルリオーズ。
気鋭の作曲家として注目を浴びたのち、図書館員、雑誌・新聞記者などの仕事を兼任します。
人生の後半において、再び作曲家として成功したものの、
生前のベルリオーズは作曲家としてよりも指揮者としての評判の方が高かったのだとか。
とくにオペラや交響曲の指揮者として有名で、ドイツやイギリスでの演奏旅行は好評を博したそうです。
また、フランツ・リストの代表曲『ピアノ協奏曲第1番』の初演を指揮したのも、
ベルリオーズでした。
リストのによると、指揮者としてのベルリオーズは「リハーサル魔」だったそうでうよ。
豆知識やエピソードその③、パガニーニの救い
上記のように、経済的に困窮することも少なくなかったベルリオーズ。
しかし、そんな彼の才能をいち早く認めたのがヴァイオリンのヴィルトォーゾとして知られるニコロ・パガニーニでした。
パガニーニはベルリオーズにヴィオラ曲を依頼し、これにより交響曲『イタリアのハロルド』が生まれるきっかけとなりました。
『イタリアのハロルド』を聴いたパガニーニは、
あまりの感動から「ベートーヴェンの後継者はベルリオーズをおいて他にいない」という激励と共に、2万フランの資金を提供しています。
ベルリオーズの生涯まとめ
今回はエクトル・ベルリオーズの生涯を解説しました。
いつも通り、この記事はあくまで入門、そしてざっくり解説です。
少しでもクラシックに興味を持っていただき、
次の一歩へのお手伝いができれば幸いです。
次回はベルリオーズの代表作について紹介しますので、
そちらも併せてお読みいただくと、より理解が深まるかもしれません。
ちなみに、この前の記事ではムソルグスキーについて解説しています。
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今回登場した作曲家については以下の関連記事をご参考ください。
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