ヴィヴァルディとはどんな人物?その生涯や逸話、エピソードを簡単解説

    バロック時代の作曲家第3弾は、『四季』で有名なヴィヴァルディについて紹介します。
    「誰やねん!」という声も聞こえてきそうですが、
    代表作『四季』は、音楽の授業で聴いたことのある方も多いと思います。

    生まれた時代はバッハヘンデルよりもちょっとだけ前ですが、
    実はバッハの作品に大きな影響を与えたとも言われています。

    また、作曲家として生計を立てた他、
    キリスト教の司祭となり、音楽教師としても活動しました。

    では、そんなヴィヴァルディはどのような生涯を送ったのでしょうか。
    今回から3回にわたり、その生涯をざっくり解説します。

    豆知識として、ぜひ参考にしていただけたら嬉しいです。

    出典:Amazon:ヴィヴァルディ協奏曲集「調和の霊感」第5番&第6番

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    アントニオ・ヴィヴァルディの生涯

    作曲家として多くの作品を残したヴィヴァルディは、興行師や劇場支配人などエンターテイナーとしても活動しました。
    また、現在の3楽章からなる「協奏曲スタイル」を確立したのも、
    ヴィヴァルディだと言われています。

    生涯その1、青年期まで

    アントニオ・ヴィヴァルディは、1678年、イタリアのヴェネツィアに生まれました。

    生まれたばかりの彼は瀕死の状態で、
    助産師が仮の洗礼を授けたといいます。

    父ジョバンニはヴァイオリニスト兼理髪師をしており、
    ヴェネツィア旅行案内に掲載されるほどのヴァイオリストだったそうです。

    そんな父からヴァイオリンの手ほどきを受けたヴィヴァルディは、
    幼少の頃から卓越した音楽の才能を発揮し、
    わずか13歳で父のヴァイオリンの代理を務めるまでに上達します。

    また、父親の音楽仲間から作曲法を教わり、
    ヴィヴァルディは作曲の分野においてもその才能を開花させました。

    その後、司祭になるためにサン・ジェミニアーノ教会付属学校に進学したヴィヴァルディは、
    25歳で司祭となり、髪が赤かったことから「赤毛の司祭」呼ばれ親しまれます。

    この時期に発表した『トリオ・ソナタ集』の出版が成功を収めると、
    ヴィヴァルディは、本格的に音楽家の道を目指すようになります。

    そして1703年、ピエタ慈善院附属音楽院でヴァイオリン教師となると、
    才能ある子供達に優れた音楽教育を施しました。

    この慈善院は捨て子の養育を目的に建てられた施設であり、
    ヴィヴァルディは生徒たちからも慕われていたそうです。

    生涯その2、オペラ作曲家と円熟期

    1711年にはヴィヴァルディの代表作の一つ『調和の霊感』がベストセラーに。
    この勢いに乗じて、オペラ作品にも乗り出したヴィヴァルディは、
    オペラ作曲家としても名声を獲得するにいたります。

    そして1713年以降はオペラの作曲が活発になり、
    1714年から1718年のおよそ5年間の間に10曲ものオペラを作曲
    人気オペラ作曲家としての地位を確立しました。

    また、オペラ以外にもオラトリオ『勝利のユディータ』『6つのソナタ作品』、『6つのヴァイオリン協奏曲』などさまざまなジャンルでその才能を発揮しています。

    1720年代に入ると、ヴィヴァルディの名声はヨーロッパ各国へと広がり、
    1740年までのおよそ20年間を旅行に費やしました。

    その間、1724年にはローマ教皇とも謁見を果たし、同年、代表作『四季』を含むヴァイオリン協奏曲集『和声と創意の試み』がされています。

    その後も音楽史上初のフルート協奏曲集『6つのフルート協奏曲』や、
    ヴァイオリンのための『6つの協奏曲』を発表するなど、
    ヴィヴァルディはさまざまな分野で音楽に情熱を注ぎました。

    1730年代初頭にはプラハやイタリア各地でオペラ公演を行い、
    ヴィヴァルディはその人気を不動のものにします。

    生涯その3、晩年のヴィヴァルディ

    順風満帆な音楽家人生を歩んでいたヴィヴァルディですが、
    やがてその人気にも翳(かげ)りが見え始めます。

    聴衆は常に新しさを求めるもの。
    新たに登場したナポリ楽派の人気が高まり、
    ヴィヴァルディの作品は徐々に「古いもの」とみなされるようになります。

    また、ヴィヴァルディの理解者であり、有力な支援者のカール6世がこの世を去ったのも、大きな痛手となりました。

    さらにカール6世の娘マリア・テレジアが帝位を引き継ぐと、
    オーストリア継承戦争が始まり、ヴィヴァルディはさらなる窮地に追い込まれます。

    多くの不運が重なり失意の底に沈んだヴィヴァルディは、
    祖国ヴェネツィアに帰国することも叶わず、
    1741年7月28日、ウィーンの劇場付きの宿舎にて63歳でこの世を去りました。
    詳しい死因はわかっていませんが、炎症もしくは腫瘍が原因だったという説があります。

    また、ヴィヴァルディの葬儀は非常に簡素に行われ、
    病院付属の共同墓地に埋葬されました。
    ヴィヴァルディが晩年、なぜウィーンに渡ったのか・・・。
    現在でも謎のままです。

    この共同墓地は1783年に取り壊され、
    現在はウィーン工科大学の構内に様変わりしています。

    ヴィヴァルディの逸話・エピソードは?

    若い頃は繁栄を極めたヴィヴァルディ。
    しかしその晩年は、必ずしも輝かしいものではありませんでした。
    紆余曲折・波乱万丈の彼のエピソードにはどのようなものがあるのでしょうか。

    ここではそのいくつかを紹介します。

    人間離れした作曲スピード

    作曲スピードが速い作曲家といえば、
    天才モーツァルトが頭に浮かびますが、ヴィヴァルディも引けを取らないほどの速筆だったと伝えられています。

    ある時、ヴィヴァルディは「私は写譜屋(譜面を写す人)よりも早く作曲することができる」と言ったそうです。

    もちろん、周りはそんなことは信じません。
    しかし、ヴィヴァルディの言葉は嘘ではなく、
    ある人から作曲の依頼を受けた際、
    なんと10曲の協奏曲を、たった3日で書き上げたそうです。

    その協奏曲がどれくらいの規模の作品だったかはわかりませんが、
    超人的作曲スピードだったことは間違いありません(これが事実なら)。

    ミサをしない司祭

    ヴィヴァルディは25歳で司祭となり、音楽教師としても熱心に活動しました。
    しかし実際のところは、作曲や指揮者といった音楽の仕事ばかり取り組み、
    「ミサをしない司祭」と揶揄(やゆ)されていたそうです。

    また、ミサの最中にメロディーが頭に浮かぶと、ミサそっちのけで作曲に取り掛かかったと伝えられています。

    この件で冷やかされたヴィヴァルディは、「いや、決してそうじゃない。自分は病弱 なものだから、ミサの間立っていることができなく て、中座せざるを得ないんだ。」と言い訳したそうです。

    同時代の作曲家に大きな影響

    作曲家として、そしてヴァイオリンのヴィルトォーゾとして高い評価を得たヴィヴァルディ。

    そんな彼のは才能は、同時代の作曲家にも影響を与えています。
    ピアノ曲『カッコウ』の作者クロード・ダカンは、
    「イタリアの大作曲家アルカンジェロ・コレッリに並ぶのはヴィヴァルディの『四季』だけである」とヴィヴァルディを絶賛しました。

    また、バッハもヴィヴァルディから多大な影響を受けており、
    楽譜を入手し、バッハ自ら編曲していたとされています。

    小惑星「ヴィヴァルディ」

    小惑星に歴史上の人物の名がつけられることがありますが、
    ヴィヴァルディもその一人で、小惑星(4330)には「ヴィヴァルディ」の名前が付けられています。
    といっても、ほとんどの作曲家の名前が採用されていますが・・・。

    ヴィヴァルディの生涯まとめ

    ヴィヴァルディの生涯をざっくり解説しました。
    これでも「若干長いかな〜〜」と感じますがいかがでしょうあか?

    ヴィヴァルディをよく知らなかった方にも、
    知ってもらうきっかけになれば良いなと思います(いつもながらですが)。

    ヴィヴァルディシリーズは3回で終了の予定です。
    次回は作品の特徴やおすすめ作品を紹介しますので、
    ぜひお楽しみに〜〜。

    前回のヘンデル『調子の良い鍛冶屋解説』はこちらです。

    👉ヴィヴァルディのCD一覧はこちら!!