ロッシーニとはどんな人物?その生涯や豆知識、エピソードや死因を簡単まとめ解説!

ロッシーニCD

    この記事では『ウィリアム・テル』などの作者として有名なジョキアーノ・ロッシーニについて紹介します。

    数多くの名作オペラ作品を残したロッシーニ。
    なかでも『ウィリアム・テル』や『セビリアの理髪師』といった作品は、
    現在でも多くのクラシックファンから愛されています。

    また、実際にオペラを観たことがない方でも、
    「ウィリアム・テル序曲」は運動会の定番曲として、
    誰しも一度は聴いたことがあることでしょう。

    早くから作曲家として大成功を抑えめ、
    事業家、美食家としても名声を獲得したロッシーニはどのような生涯を歩んだのでしょうか。

    今回も、わかりやすくざっくり解説ですので、
    ぜひ最後までご一読いただければ幸いです!

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    ロッシーニの生涯について

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    多くのオペラ作品を手がけ、時代の寵児(ちょうじ)となったロッシーニの生涯を解説します。
    当時のロッシーニの人気は凄まじく、あのオペラ王ワーグナーが「ロッシーニのような作曲家になりたい」と述べるほどだったといいます。

    1. ロッシーニの生い立ち

    ジャコモ・アントニオ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini)は、
    1792年2月29日にイタリアのペーザロで生まれました。

    ペーザロはアドリア海沿岸に位置する小さな港町で、
    音楽と文化で賑わう交差点でもありました。

    ロッシーニの家庭は音楽一家で、父ジュゼッペはトランペット(ホルンも)奏者、
    母アンナ・グイドリはオペラ歌手として活躍していたそうです。
    そして、幼少期から音楽に囲まれたロッシーニは、早くからその音楽的才能を見せ始めます。

    幼少期から教会の合唱団で歌い始めたロッシーニは、
    わずか6歳で音楽の世界に足を踏み入れました。

    さらに、ピアノやチェンバロの技術を習得し、ここで音楽の基礎を固めます。
    その後10歳でボローニャ音楽院に入学し、作曲や指揮の技術を磨いた彼は、
    瞬く間にその才能を開花させたのでした。

    ボローニャでの学生生活を通じて、彼は当時の音楽界の最前線に触れたロッシーニ。
    学生時代は、とくにモーツァルトの作品から大きな影響を受けることとなりました。

    生涯その2. 初期のキャリアと成功

    1808年、ロッシーニは初のオペラ『デメトリオとポリービオ』を発表し、本格的な作曲家としてのデビューを果たします。

    この作品はまだ18歳だったロッシーニの才能の片鱗を示すもので、
    彼の音楽が持つ可能性を示すものでした。

    続いて、1814年に『イタリアのトルコ人』を発表。
    この作品ににより、ロッシーニは一躍有名人となり、
    イタリアのオペラ界での地位を確立し始めます。

    この作品は、イタリアオペラの新しい風を吹き込み、彼の名を広めるきっかけとなります。

    特に『アルジェのイタリア女』は、彼のユーモアと機知に富んだ作風が高く評価され、
    ロッシーニが20代半ばにして既にイタリアオペラの第一人者としての地位を確立する重要な作品となりました。

    続く『タンクレーディ』なども高い評価を受け、ロッシーニの音楽的才能が揺るぎないものとなったのでした。

    スコア ロッシーニ 「ウィリアムテル」序曲

    3. ヨーロッパでの名声と国際的成功

    1815年、ロッシーニはナポリに移住し、ナポリ王立劇場の専属作曲家として契約を結びます。

    この期間に彼は『オテッロ(オテロ)』『セミラーミデ』など、多くの名作を生み出しました。ナポリ音楽院からの支援を受けながら、彼の音楽はますます洗練されると、
    ロッシーニの名声はイタリアにとどまらず、フランスやイギリス、ドイツなどヨーロッパ各国に広がることに。

    特に1829年にパリで初演された『ギヨーム・テル』(日本では「ウィリアム・テル」として有名です)は、フランス革命後の新しい時代を象徴する作品として、当時の人々から熱狂を持って受け入れられました。

    そういう意味でこの作品は、ロッシーニの音楽が国際的に通用することを証明し、
    不動の地位を獲得した記念碑的作品と言えるでしょう。

    ちなみにこの曲です!👇

    ウィリアム・テル序曲(抜粋)

    4. ロッシーニの「セビリアの理髪師」とその影響

    1826年に発表された『セビリアの理髪師』は、ロッシーニの代表作の中でも特に有名です。

    このオペラは、ジョルジュ・ビゼー『カルメン』と並んで、
    最も愛されるコミカルオペラの一つとされています。

    『セビリアの理髪師』は、喜劇的な要素とロッシーニ特有の巧妙な旋律が融合した作品であり、特にフィガロのアリア「私は街の何でも屋(Largo al factotum)」は、オペラ史における最も有名なアリアの一つです。

    この作品は初演時に賛否が分かれたものの、
    瞬く間に聴衆の心をつかみ、ヨーロッパ中で大成功を収めました。

    さらに、ロッシーニの『セビリアの理髪師』は、
    オペラ・ブッファ(コミカルオペラ)のスタイルを確立し、後の作曲家や演出家に大きな影響を与えています。

    オペラ史における重要なマイルストーンとなった本作は、
    今日でも多くの歌手や演出家に愛され続けています。

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    5. ロッシーニの後年と引退

    1830年代に入ると、ロッシーニは徐々に作曲活動から距離を置くようになり、
    1840年には事実上の引退を発表。

    彼の引退の理由には、音楽界の変化に対する疲労感や、新しいスタイルの台頭、そして健康状態の悪化などが理由です。

    引退後、ロッシーニはパリに移住し、静かな余生を過ごしましたが、
    完全に音楽から離れたわけではありませんでした。

    引退後も時折小品や宗教曲を作曲し、
    特に『スターバト・マーテル』は彼の最後の大作として有名です。
    この作品は、彼の宗教的な側面を強く反映しており、
    彼の作曲スタイルの集大成とも言えるでしょう。

    また、フランツ・リストリヒャルト・ワーグナーなどの若い音楽家たちとの交流を続け、
    後輩たちにとって重要な学びの場となりました。

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    6. ロッシーニの遺産と音楽への影響

    1868年11月13日、ロッシーニはパリで亡くなりましたが、
    その音楽は今もなお世界中で愛され続けています。

    彼のオペラは、技術的な完成度の高さと、ユーモアとドラマのバランスが取れた作風で、多くの作曲家や音楽家に影響を与えました。

    特に『セビリアの理髪師』や『ギヨーム・テル』は、
    オペラのレパートリーにおいて重要な位置を占め、今日でも頻繁に上演されている名曲です。

    ロッシーニの作曲スタイルは、後のオペラ作曲家たちにとって大きなインスピレーション源となり、彼の影響は時代を超えて受け継がれています。

    さらに、ロッシーニのユーモアと機知に富んだ作品は、
    オペラをエンターテインメントとして楽しむ観客にとっても大きな魅力となり、
    音楽的価値だけでなく、文化的な面でも大きな影響を与えました。

    ロッシーニの死因

    オペラの一次代を築いたロッシーニ。
    ところが、彼は『ギヨーム・テル』の発表を最後に、
    作曲から距離を置き始めます。

    その理由は、投資や不動産などのビジネスを展開するため。
    また、元来から食べることが大好きだった彼は、
    美食の道を探求し始めます。

    まぁつまりは、生涯を贅沢な人生に捧げたわけですね。
    そんな贅沢が災いしたのか、晩年には躁うつ病、慢性気管支炎に悩まされたそうです。
    その後1868年に直腸(大腸とも)に癌が見つかり、手術を受けたものの回復せず。

    最終的には丹毒によってこの世を去りました
    享年76歳でした。

    ロッシーニが遺産は遺産のリチェオ・ムジカーレの設立とパリの引退したオペラ歌手のための施設の資金となったそうです。
    パリのサント・トリニテ教会で執り行われた葬儀には4,000人以上が参列し、
    ロッシーニの遺体はペール・ラシェーズ墓地に埋葬されています。

    丹毒・・・連鎖球菌による炎症。

    ロッシーニの豆知識やエピソードについて

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    人気作曲家の地位をほしいままにしたロッシーニには、
    さまざまな豆知識やエピソードが残されています。

    そこで今回は、その中から明日話せるエピソードを3つ簡単に見てみましょう。

    ロッシーニの豆知識・エピソードその1、同時代の作曲家の憧れの的

    まさに一世風靡という言葉がふわさしい作曲家だったロッシーニ。
    彼の名声はヨーロッパ中に響き渡り、当時は絶大な人気を獲得しました。

    もちろん、同時代の作曲家たちからもその眼差しは例外ではありません。
    たとえば、ロッシーニと親交があった作曲家としては以下の作曲家が挙げられます。

    ・ベルリオーズ
    ・ワーグナー
    ・ショパン
    ・シューマン
    ・リスト
    ・サン=サーンス
    ・ヴェルディ
    ・ベッリーニ
    などなど

    特にワーグナーはロッシーニに憧れていたようで、
    「ロッシーニのような作曲家になること」を目標としていたそうです。
    ワーグナーは苦労人なので、人気が羨ましかったのかも・・・。

    参考までに、上記の作曲家たちの関連記事も掲載します。

    ベルリオーズ
    ヴェルディ

    豆知識やエピソードその2、美食家として

    早々にセミ・リタイアしたロッシーニは、
    以前から作曲以上に(??)関心があった「美食」の道を探求し始めます。

    その分野は幅広く、
    ヨーロッパ各地のワインを集めることはもちろん、
    自分でもレシピを考えサロン仲間にふるまっていました。

    現在でも「〜のロッシーニ風」というレシピがありますが、
    これはロッシーニのレシピをもとに作られたものです。

    ロッシーニ風とは

    ロッシーニ風にはさまざまなバリエーションがありますが、
    基本はフォアグラをソテーしスライスしたトリュフを乗せた料理を指します。

    こんな感じの料理です👇

    牛ヒレ肉のロッシーニ風 出典:wikipedia:ロッシーニ風
    美食家ロッシーニ: 食通作曲家の愛した料理とワイン

    豆知識やエピソードその3、料理名がついた作品を作曲

    エピソード2に関連して。
    ロッシーニが料理好きで美食家だったことは上述しましたが、
    作曲家として完全に引退したわけではありませんでした。

    料理と音楽を楽しむサロン「料理と音楽の夕べ」を開催した際には、
    自身が調理した料理とともに、ちょっとした音楽も提供し、来訪者を楽しませたそうです。

    なかには『やれやれ、小さなグリンピースちゃん』『ロマンチックなひき肉』といった、
    ロッシーニらしいユーモア溢れる作品もあります、

    ピアノ曲「ロマンチックなひき肉」

    ロッシーニの生涯まとめ

    今回はロッシーニの生涯について簡単に解説しました。
    音楽家として大成功しだけでもすごいことですが、
    食の分野でもその名を残している点も興味深いですね。

    この記事を通じて、少しでもロッシーニの作品に興味を持っていただければ幸いです。
    次回は代表曲や作品の特徴を紹介しますので、そちらも併せてご一読ください。

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