この記事では、イタリアをもっとも代表する作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ(以下ヴェルディ)について紹介します。
「イタリアオペラといえばヴェルディ、ヴェルディといえばオペラ」というくらいの大作曲家で、その作品の多くは、現代でも不動の地位を獲得しています。
たとえば、エジプトを舞台にしたオペラ『アイーダ』の「凱旋行進曲」は、
サッカーファンだけではなく、誰しも一度は聴いたことがある作品ではないでしょうか。
ドイツのオペラ王ワーグナーと並び、オペラの作品に革新をもたらした、
ヴェルディとはどのような人物だったのでしょうか。
今回もいつもながらのざっくり解説で紹介します。
ぜひ最後まで読んでいただき、参考にしていただければ幸いです。
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ジュゼッペ・ヴェルディの生涯について
オペラ『椿姫』や『アイーダ』、『仮面舞踏会』など、数々の名作オペラを生み出したヴェルディはどのような生涯を歩んだのでしょうか。
意外なことに、政治家としての一面も持ち合わせていたそうですよ。
ジュゼッペ・ヴェルディの生涯、幼少期:音楽への目覚め
1813年10月10日、イタリアの小村レ・ロン・コーレで生まれたジュゼッペ・ヴェルディは、
幼い頃から音楽に強い興味を示しました。
彼の父カルロは、農業や小売業を営む傍ら読み書きができる珍しい人物だったといいます。
今でこそ、読み書きができない人はごく少数ですが、
当時としては「読み書きができる人」の方が少数派でした。
8歳の時、両親から中古のスピネット(小型のチェンバロ)を買い与えられたヴェルディ。
それからというもの、毎日熱心に練習に励んだそうです。
そして、旅回りの楽団や村の教会のパイプオルガンに魅了されたヴェルディは、
やがて本格的に音楽の世界に没頭していきます。。
1823年、10歳のヴェルディは上級学校に進学し、読み書きやラテン語を学ぶかたわら、
音楽学校でフェルディナンド・プロヴェージから音楽の基礎を学びました。
また、アントニオ・バレッツィの家に通い、作曲や演奏、指揮などの経験を積みはじめます。
この時期に培われた基礎が、後のヴェルディの音楽キャリアを支える重要な土台となりました。
ちなみに、スピネットとはこんな感じの楽器とのこと👇
ヴェルディの生涯その1、苦難を乗り越えて:初期の成功と挫折
その後1832年、18歳のヴェルディはミラノ音楽院への入学を志願しましたが、
年齢制限を理由に不合格となってしまいます。
しかし、彼はこの挫折に屈することなく、音楽教師のヴィンチェンツォ・ラヴィーニャから個人指導を受けながら作曲の技術を磨いていきました。
「何かを始めようとするとつまづく経験」というのは、誰しもあるようで安心しますね。
それはさておき。
1839年に完成させた処女作『オベルト』は、スカラ座での上演が決まりましたが、
主演歌手の体調不良により中止となってしまいます。
しかし、スカラ座の支配人より上演の申し込みが舞い込み、計14回の上演は好評を収めたそうです。
一方でこの時期、ヴェルディは個人的な悲劇にも見舞われています。
それは、1歳余りの息子イチリオを病気で亡くしたことです。
心に深い傷を負いながらも創作活動を続けたヴェルディでしたが、
1842年3月9日、スカラ座で上演されたオペラ『ナブッコ』は大成功を収め、
一夜にしてヴェルディの名を高めました。
特に合唱曲「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」(Va, pensiero)は観客を熱狂させ、
当時禁止されていたアンコールまで要求されるほどの人気を博しました。
この曲は後にイタリア統一運動の非公式な国歌としても親しまれ、
ヴェルディの音楽が持つ社会的影響力を象徴するものとなりました。
ヴェルディの生涯その2、黄金期:傑作の連続と革新的なアプローチ
『ナブッコ』の成功を皮切りに、ヴェルディは次々と傑作を生み出します。
この時期の代表作は以下の通りです。
・『エルナーニ』(1844年)
・『マクベス』(1847年)
・『リゴレット』(1851年)
・『椿姫』(1853年)
・『アイーダ』(1871年)
など、今日でも頻繁に上演される名作が続々と誕生しました。
また、ヴェルディの作曲スタイルは、従来のイタリア・オペラの形式にとらわれない革新的なものでした。
例えば『リゴレット』では、以下のような斬新な手法が用いられています:
- 合唱から始まらない第一幕
- アリアの形式を逆転させる試み
- 朗読調の二重唱の導入
- アリアのような劇的なシェーナ(劇唱)の多用
これらの革新は、オペラをより劇的で感情豊かなものに変貌させ、観客を魅了しました。
また、『椿姫』(1853年)では、当時のオペラでは珍しかった現代社会を舞台にした物語を採用し、主人公の心理描写を深く掘り下げました。
初演時には失敗に終わりましたが、ヴェルディは諦めず改訂を重ね、
最終的には彼の代表作の一つとして確立しました。
1853年、ヴェルディは長年のパートナーであったジュゼッピーナ・ストレッポーニと結婚し、
サンターガタの農場に移り住みました。
この時期、彼は音楽と農業の両立を図り、創作の合間には農作業に励んでいました。
ヴェルディの生涯、晩年:最後の輝きと慈善活動
晩年のヴェルディは、円熟味を増した作品を世に送り出しました。
1871年に依頼を受けた『アイーダ』は、彼の集大成とも言える傑作となりました。
この作品では、音楽と劇の融合を極限まで追求し、
アリアやレチタティーヴォといった従来の形式にとらわれない、
劇全体を貫く独唱と合唱を実現しています。
また、1893年に78歳で発表した『ファルスタッフ』は、ヴェルディ唯一の本格的喜劇オペラとして高い評価を受けました。
シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』を原作としたこの作品は、
ヴェルディの音楽的才能の集大成と言えるでしょう。
初演時のチケットは通常の30倍もの価格で売られ、
ヨーロッパ中の王侯貴族や芸術界の重鎮が集まる大イベントとなりました。
晩年のヴェルディは音楽だけでなく、慈善活動にも力を注ぎました。
1894年にはシチリアの地震被災者のために歌曲を出版し、1895年からはミラノに引退した音楽家のための保養所「Casa di Riposo per Musicisti」の建設を計画・寄附しました。
さらに、ブッセート近郊のヴィッラノーヴァ・スッラルダに病院を建設するなど、社会貢献活動にも熱心に取り組みました。
ジュゼッペ・ヴェルディの死因について
作曲家・慈善事業家など多方面で活躍したヴェルディ。
晩年になっても作曲意欲は衰えませんでした。
しかし、1900年にウンベルト国王が暗殺されたことに深く動揺したヴェルディは、
国王を偲ぶ作品をスケッチするも完成させることはできず、
1901年、グランド・ホテル滞在中に脳卒中で倒れ、この世を去りました。
享年87歳でした。
ジュゼッペ・ヴェルディの遺産:現代に続く影響力
ヴェルディの葬儀では、『ナブッコ』の「Va, pensiero」が820人もの合唱団によって歌われ、彼の音楽が人々の心に深く刻まれていることを示しました。
この壮大な合唱は、当時の若き指揮者アルトゥーロ・トスカニーニによって指揮されました。
ヴェルディの音楽的革新は、後世の作曲家たちに大きな影響を与えました。
彼が確立した劇的な表現方法や、人間の感情を鮮やかに描き出す能力は、
プッチーニやマスカーニなどのイタリア・オペラ作曲家たちに受け継がれ、
さらには20世紀のオペラ作曲家たちにも影響を与えています。
また、ヴェルディの作品は映画やテレビドラマの中でも頻繁に使用され、
クラシック音楽を越えて広く大衆文化に浸透するものとなりました。
例えば、『椿姫』のアリア「乾杯の歌」は、数多くの映画やCMで使用されており、
オペラを知らない人々にも親しまれています。
「乾杯の歌」は絶対に聴いたことあるはずです!👇
ジュゼッペ・ヴェルディの豆知識やエピソード
ここまでヴェルディの生涯について簡単に紹介しました。
音楽や慈善事業に身を捧げたヴェルディは、まさにイタリア国民にとっての誇りといえる音楽家であるといえるでしょう。
そんな偉大な作曲家ベルディに関する明日話せる豆知識やエピソードを紹介します。
ヴェルディの豆知識やエピソードその1、音楽院で才能が開花
音楽院への進学を断念したヴェルディですが、音楽院で教師を務めていたラヴィーニャと出会い、運命の力が働き始めます。
スカラ座で作曲や演奏を担当していたラヴィーニャは、自身がもつあらゆる知識を惜しげも無くヴェルディに伝授。
また知識だけでなく、演劇鑑賞やリハーサル見学といった機会も与え、
ときにはピアノ伴奏もヴェルディに任せたのだとか。
ピアノを弾きながら指揮をするヴェルディの姿に感心したラヴィーニャは、
本番の指揮も任せると、演奏会は大成功に。
これによりヴェルディに依頼が舞い込むようになり、音楽家としての第一歩を歩み始めるに至ります。
豆知識やエピソードその2、名作『椿姫』の初演は失敗だった
現代でももっとも人気のあるヴェルディ作品『椿姫』。
上述した「乾杯の歌」は、誰しも一度は聴いたことがあると思います。
しかし意外なことに、初演は失敗に終わったのだとか。
その理由は、上演までに十分なリハーサルができなかったこと、
そして、肺病病みの病弱なヒロインを演じるソプラノ歌手があまりにも「健康的すぎた」からだったと言われています。
言い伝えによれば、初演でヒロインが死ぬシーンでは、
あまりのギャップに観客から「失笑がもれた」とも。
上演はわずか2回で打ち切られてしまいます。
ところが、この失敗に闘志がついたヴェルディ。
配役を見直し、初演から2ヶ月後に再演を果たします。
これが見事に大成功を収め、聴衆か拍手喝采を受け、たちまち人気作品となりました。
豆知識やエピソードその3、いやいやながらもイタリアの国会議員に選出される
イタリアが現在のイタリアになったのは1861年のこと。
カヴールが初代首相に就任し、ようやく統一を果たします。
そしてカヴールは、ヴェルディに対し国会議員になることを勧めます。
しかしヴェルディは「議会中にじっと座っている自信がない」との理由で、
この申し出を拒否。
一度は断ったものの、カヴールから熱心に説得され、しぶしぶ立候補することに・・・。
すると見事当選をはたし、統一直後のイタリア下院議員になってしまいます。
任期期間は4年間だったそうですが、ヴェルディはとくに政治的野心を持っていなかったため、
目立った働きはしなかったとのことです。
ジュゼッペ・ヴェルディの生涯まとめ
今回はヴェルディの生涯について、ざっくりとお届けしました。
オペラ王ヴェルディについて少しでも関心を持っていただければ幸いです。
また、ヴェルディとよく比較されるのがドイツのオペラ王ワーグナーです。
ワーグナー作品とヴェルディ作品を聴き比べてみると、楽しい時間が過ごせるかもしれません。
ぜひ、いろいろな楽しみ方で、クラシック音楽を聴いてみてください!
ワーグナーの作品紹介についてはこちら👇
次回はヴェルディの代表曲や作品の特徴をお届けします。
そちらも併せてお読みいただくと、より知識の幅が広がりますよ!
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