今回は、大人気の作曲家ニコライ・カプースチンの生涯を解説します。
クラシックを土台したジャズの技法が人気を博し、
現在では「楽譜が売り切れ」状態も発生しているとのこと。
20世紀前半に生まれ、世界的な活躍を見せたカプースチンとは、どのような人物だったのでしょうか。
すでにカプースチンをご存じの方もそうでない方も、
この記事を参考に、ぜひ彼の世界をのぞいて見てください!!
ニコライ・カプースチンの生涯とは
今、日本でも人気急上昇中のカプースチンの生涯について超ざっくり解説します。
ちょっとした豆知識として、ぜひ最後までお読みください!
カプースチンの生涯その1
ニコライ・カプースチン(以下カプースチン)は1839年11月22日、
ベラルーシ人の父とロシア人の母のもとにウクライナで生まれました。
父が第2次世界大戦に従軍したため、4歳の頃に祖母、母、妹とともにキルギスの都市トクマクに移住します。
幼少の頃から音楽の才能を発揮したカプースチンは、ピョートル・ヴィニチェンコの指導のもと、7歳からピアノのレッスンを開始。
また、同時にヴァイオリンの指導も受けその才能を開花させます。
作曲にも関心を示しており、初めてのピアノ・ソナタを作曲したのは13歳の頃でした。
そして、14歳でモスクワに移り住んだカプースチン。
その後、名門モスクワ音楽院附属音楽学校に入学し、
名教師A・ルッバーフの元で研鑽を重ねます。
同級生には世界的指揮者・ピアニストのウラディミール・アシュケナージが在籍していました。アシュケナージとの詳しい交友関係は分かりませんでしたが、
もしかしたら、何らかの親交があったかもしれません・・・。
カプースチンの生涯その2、ジャズとの出会い
モスクワ音楽院学校に通ったカプースチン。
しかしその生活は決して裕福なものではありませんでした。
モスクワ音楽院時代は、友人のアンドレイ・コンチェロフスキーの自宅に間借りして生活していたそうです。
1954年と1955年のおよそ2年間を友人宅で過ごしたカプースチンですが、
この時期に「ジャズ」に出会ったことで、のちの音楽家人生に大きな影響を受けることとなります。
ジャスとの出会いについてカプースチンは、
私は養子として彼らの家に数年間すんでいました。それで初めてジャズ音楽に興味を持ち、夜中に「ボイス・オブ・アメリカ」のラジオ局を聴いていました
と述べています。
また、ジャズの技法からインスピレーションを受けたカプースチンは、
この頃からジャズを用いた作曲を開始。
影響を受けたジャズ・プレイヤーに、
・ルイ・アームストロング
・グレン・ミラー
・ベニー・グッドマン
・ナット・キング・コール
・オスカー・ピーターソン
などを挙げています。
カプースチンの生涯その3、作曲家・ピアニストとして活躍
1956年、モスクワ音楽学校を卒業したカプースチン。
その後モスクワ音楽院に進学すると、伝説的なピアニスト・教師であったアレクサンダー・ゴールデンヴァイザーのクラスに入学します。
このクラスにおいて、ラフマニノフやスクリャービン、チャイコフスキーなどの作品をに触れ、作曲家としての素養に磨きをかけました。
また、ピアノの腕前も一流だったカプースチンは、
ある日のオーディションでフランツ・リストの『ドン・ジョヴァンニの回想』を披露した際。
「こんなピアニストをどこで見つけたんだ?」と絶賛されたそうです。
1950年代半ばからは、自身によるジャズ・クインテッドを結成し演奏活動を開始。
毎月「高級レストラン」で演奏していたといいます。
モスクワ音楽院卒業後、ヴァジーム・リュドヴィコフスキー率いるジャズ・オーケストラのメンバーとして作曲家・ピアニストの職に就き、1961年から1972年までの11年間を過ごします。
カプースチンの生涯その4、作曲家活動に専念
1972年から1977年にかけてブルースクリーン・オーケストラのピニストを務めたカプースチン。
1970年代後半からは、本格的に作曲家として専念し始めます。
カプースチンのクラシックをベースとした多彩でダイナミックな曲調が好評となり、
さまざまなジャンルの作品を世に送り出します。
カプースチンの作品といえば、「ジャズ的なカッコよさ」が魅力ですが、そのことについて本人は次のように語っています。
「私は決してジャズ・ミュージシャンではなかった。本物のジャズピアニストになろうとしたことはないが、作曲のためにそうせざるを得なかった。即興演奏には興味がない。即興演奏のないジャズ・ミュージシャンとは何だろう?もちろん、私の即興演奏はすべて書かれたものであり、それらははるかに良くなった」
1980年、チャイコフスキー記念コンサートで自作の『ピアノ協奏曲第2番』を披露し、1984年に映画交響楽団を引退。
同交響楽団引退後、カプースチンの作曲活動はさらに活発になります。
21世紀に入っても彼の活躍は続き、
2007年には70歳を祝うコンサートが開催され、大きな反響を呼びました。
おもに室内楽や管弦楽曲から作品が選出され、
・『チェロとピアノのためのエレジー』
・『チェロとピアノのためのソナタ第2番』
・『フルートとチェロとピアノのためのトリオ』
・『チェロと弦楽オーケストラのための協奏曲』
などが演奏されています。
晩年
近年、日本でも人気が高まりつつあるカプースチンですが、
世界的な作曲家として認知されるようになるまでには、少し時間がかかりました。
カプースチンの人気の高まりに火をつけたのは、ピアニストのニコライ・ペトロフやマルカンドレ・アムランといった世界的巨匠が取り上げたことがきっかけでした。
とくに代表作『8つの演奏会用エチュード』は人気が高く、コンサートやリサイタルでもたびたび演奏されています。
20世紀前半から21世紀初頭を駆け抜けたニコライ・カプースチンは、
2020年7月2日にモスクワにてこの世を去りました。享年82歳でした。
死後から4日後の6日にはモスクワ郊外にて告別が行われています。
ニコライ・カプースチンの死因は?
カプースチンの死因について調べたところ、
どうやら「COVIDー19」で亡くなったそうです。
高齢のため、長期にわたり治療に専念したようですが、
その甲斐も虚しく逝去しました。
また、カプースチンが亡くなった4日後、妻のアッラさんも後を追うように他界しています。物静かなカプースチンとは反対に、気さくで明るい人柄だったそうです。
カプースチンのエピソードは?
詳細なエピソードは出てきませんでしたが、
カプースチンは大の激辛好きだったとのこと。
大好物の激辛シシトウを毎日のように食べていたそうです。
また、毎朝5時に起きて作曲を開始し、昼食にはウォッカを飲むのが習慣だったとか。
ウクライナやロシアといえばやはりウォッカなのでしょうね。
でも、健康的な毎日を送っていたようで、
夕食はお酒を飲まず、深夜12時には就寝していたといいます。
これからさまざまなメディアで取り上げられる機会が多くなると思いますので、
意外なエピソードも聞けるかもしれませんね。
カプースチンまとめ
今回はニコライ・カプースチンの生涯について解説しました。
作品だけでなく、少しでも彼の人生を身近に感じていただけたら幸いです。
これからますます、人気が高まることが予想されますので、
まだ聴いたことのない方は、ぜひカプースチンの作品に触れてみてください!