この記事では、モーツァルトの生涯を簡単に解説しています。
人類史上最高の音楽の天才としてしられるモーツァルト。
クラシック音楽に興味がない人でも、一度は作品を聴いたことがあると思います。
また、クラシック音楽以外でも「癒しの音楽」としても親しまれ、勉強や作業BGMとして利用している方も多いのではないでしょうか。
ということで、「いまさら感」は否めませんが、今回はモーツァルトの生涯を見てみましょう。
毎度のことながら、ざっくり解説ですので、ぜひ最後までご一読ください。
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モーツァルトはどこの国の人?
生涯の解説に入る前に、モーツァルトの出身国について紹介します。
モーツァルトは1756年1月27日、現在のオーストリア・ザルツブルクに生まれました。
音楽の授業ではここで終わりですが、ここではもう少し詳しく。
「現在の」ということは「昔は違った」ということです。
モーツァルトが生まれた当時は、「神聖ローマ帝国領」という大きな国に属するオーストリア領のザルツブルクで生まれた、という方が正確かもしれません。
ザルツブルクとはドイツ語で「塩の城」という意味です。
指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンもザルツブルク出身。
ザルツブルクの街並み:出典:Wikipedia
モーツァルトは何ヶ国語話せた?
幼少期より、父レオポルトとともにヨーロッパ各国を旅して回ったモーツァルト。
そんな彼は、音楽の才能だけでなく、語学も秀でていました。
母国語のドイツ語はもちろん、フランス語、イタリア語、オランダ語、ポルトガル語、スペイン語、ラテン語を流暢に使いこなしたそうです。英語もできたと言われていますが、完璧にマスターしていたかどうかはわかっていません。
それにしても8ヶ国語を使い分けていたというのは驚きですね。
サリエリとの関係
モーツァルトの最大のライバルといえば、イタリアの作曲家アントニオ・サリエリです。
映画「アマデウス」の中でサリエリは、モーツァルトに対し猛烈な嫉妬心を抱き対抗心を燃やします。
といってもこれはあくまでも、映画での話。
実際のサリエリはモーツァルトの才能を認め、賞賛していました。
確かに、あまりの天才っぷりに嫉妬はしていたかもしれませんが・・・。
サリエリについての詳しい解説はこちらからお読みください。
モーツァルトの生涯
ここでは以下のポイントに絞って解説しています。
モーツァルトの生涯その1:驚異的な音楽の才能
モーツァルトの音楽的才能は、幼くして開花します。
3歳の頃から姉(ナンネル)のピアノレッスンを熱心に見つめ、4歳になると父から教わったメヌエットや小品を完璧に演奏できるようになりました。
5歳で作曲を始めたのも有名な話ですね。
これらの初期作品は『ナンネル・ノートブック』に収められており、すでに音楽の基本を完全に理解していたことがうかがえます。
父レオポルトは子供たちの教育に熱心でしたが、モーツァルトは教えられた以上のことを自ら学び取っていったといいます。
特に作曲やヴァイオリンへの取り組みは、父でさえその才能に驚きを隠せなかったそうです。
父レオポルトも著名な作曲家で、『おもちゃのシンフォニー』という作品が有名です。
なんとなく、モーツァルトの旋律に似ているような・・・。
出典:YouTube
モーツァルトの生涯その2:ヨーロッパを巡る音楽の旅
モーツァルトの才能を確信した父レオポルトは、1762年から子供たちを連れてヨーロッパ各地を巡る演奏旅行を始めます。
ミュンヘン、ウィーン、プラハから始まり、パリ、ロンドン、アムステルダムなど、主要な都市を訪れました。
この3年半に及ぶ長期の旅で、モーツァルトは各地の音楽様式に触れ、多くの音楽家との出会いを経験します。
特に重要だったのは、1764年から1765年にかけてのロンドン滞在。
ここでヨハン・クリスティアン・バッハと出会い、その音楽から大きな影響を受けます。
8歳にして最初の交響曲を作曲したのもこの時期でした。
しかし、この演奏旅行は決して楽なものではなかたようです。
当時の移動手段は原始的で、長期の病気に苦しむこともありました。
それでも、モーツァルトは各地で「神童」として称賛を浴び、その名声を確実なものとしていきました。
体調の良し悪しを確認するために、旅行には便器を持っていったという話もあります。
ヨハン・クリスティアン・バッハ・・・大バッハの末っ子です。
モーツァルトの生涯その3:イタリアでの成功
1769年から1771年にかけて、モーツァルトは父とともにイタリアを訪れます。
この旅でも彼の才能は高く評価され、ボローニャの権威ある音楽アカデミーのメンバーに認定されました。ミラノではオペラ『ポントの王ミトリダーテ』を作曲し、大成功を収めます。
モーツァルトの生涯その4:ザルツブルクでの活動と苦悩
1773年、モーツァルトは故郷ザルツブルクの宮廷音楽家として採用されました。
この時期は、交響曲、ソナタ、弦楽四重奏曲、ミサ曲など、様々なジャンルの作品を手がけています。特に1775年に作曲された5曲のヴァイオリン協奏曲は、今日でも演奏会の定番となっています。
しかし、モーツァルトはザルツブルクでの生活に満足できませんでした。
年俸は低く、特に情熱を注いでいたオペラを作曲する機会もほとんどありませんでした。
1775年に宮廷劇場が閉鎖されると、その不満は一層強まっていきます。
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ヴァイオリン協奏曲第3番(シュトラスブルク):出典:YouTube
モーツァルトの生涯その5:ウィーンでの独立
そして1781年、モーツァルトは大きな決断を下します。
雇い主であるコロレド大司教との確執から、ザルツブルクの職を辞し、ウィーンで独立した音楽家として生きていく道を選んだのでした。
ウィーンでは、アロイジア・ウェーバーの妹コンスタンツェと1782年に結婚。
この時期、モーツァルトは演奏や作曲から多くの収入を得て、比較的裕福な生活を送っていました。
また、ヨーゼフ・ハイドンとの親交を深め、互いに影響を与え合う重要な関係を築きます。
ウィーンでの独立後、モーツァルトの音楽性はさらなる深まりを見せます。
特に1782年から1783年にかけて、ゴットフリート・ファン・スヴィーテンの影響で、大バッハやヘンデルといったバロック音楽の大家の作品を研究する機会を得ました。
この経験は後の作品に大きな影響を与え、『魔笛』のフーガや交響曲第41番「ジュピター」のフィナーレにその成果が表れています。
また、1784年にはフリーメーソンに入会します。
最晩年の傑作『魔笛』には、フリーメーソンの思想が色濃く反映されているとされています。
アロイジア・ウェーバー:出典:Wikipedia
アロイジア・ウェーバー・・・「魔弾の射手」で有名なカール・マリア・フォン・ウェーバーの親戚にあたる人物。モーツァルトが恋焦がれた人物でもあります。
モーツァルトの生涯その6:家族との関係
1783年には妻コンスタンツェとともにザルツブルクの家族を訪問しています。
この時の経験から生まれたのが、未完に終わったものの彼の代表的な宗教曲の一つとなった「ミサ曲ハ短調」です。初演ではコンスタンツェ自身がソロパートを歌いました。
また、二人の間には6人の子供が生まれましたが、当時の高い乳幼児死亡率を反映してか、成人まで生き延びたのは2人だけでした。
このような辛い経験がありながらも、モーツァルトは家族を深く愛し、残された手紙からは彼らへの強い愛情が読み取れます。
ミサ曲ハ短調:出典:YouTube
成人したのは、カール・トーマスとフランツ・クサーヴァーの2人だけでした。
モーツァルトの生涯その7:オペラの黄金期
1786年から1787年にかけて、モーツァルトは作曲家ロレンツォ・ダ・ポンテとの協力により、『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』という二大傑作オペラを生み出します。
これらの作品は、その音楽的な複雑さゆえに初演時には困難も伴いましたが、今日ではオペラ界の最高傑作として評価されています。
映画「アマデウス」の中で、皇帝が退屈そうにあくびをするシーンが印象的です。あまりにも長すぎたことが原因だったのかもしれません。上演時間はおよそ3時間です。
「フィガロの結婚」序曲:出典:YouTube

晩年と死
1787年末、モーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世から宮廷作曲家の地位を得ますが、年俸はわずかなものでした。
そしてこの頃から、オーストリア・トルコ戦争の影響もあり、モーツァルトは経済的な困難に直面するようになります。
それでも、最後の数年間に『コジ・ファン・トゥッテ』『魔笛』といった傑作オペラや、交響曲第39番、第40番、第41番という3つの偉大な交響曲を作曲しています。
1791年、最後のオペラ『皇帝ティートの慈悲』の初演のためにプラハに滞在中、モーツァルトは病に倒れます。
その後同年12月5日、未完のレクイエムを残したまま、35歳という若さでこの世を去りました。
「魔笛」より「夜の女王のアリア」:出典:YouTube
レクイエム:出典:YouTube
ラクリモーサ(その日は涙にくれる日)を執筆中に亡くなりました。残りの部分は弟子のジュスマイヤーによる作曲です。
モーツァルトの死因について
死因については、リウマチ熱や腎臓病など、様々な説が提唱されていますが、現在も確定には至っていません。
しかし、モーツァルトの死後、彼の名声は急速に高まり、作品は熱狂的に迎えられるようになりました。
生涯を通じてヨーロッパの音楽文化を吸収し、独自の音楽語法を確立したモーツァルト。
オーストリアに生まれ、神聖ローマ帝国の様々な地域で活動した彼の音楽は、国境を越えて普遍的な価値を持ち、今なお世界中の人々を魅了し続けています。
100以上の死因が考えられるとのこと。
後世への影響
モーツァルトの死後、彼の音楽は急速に広まり、多くの作曲家に大きな影響を与えました。
ベートーヴェンは若い頃にモーツァルトに師事することを望んでいたとされ、後の作品にモーツァルトからの影響が見られます。
また、シューベルトやブラームスなど、後のロマン派の作曲家たちも、モーツァルトの作品から多くを学んでいます。
まとめ
- 出身地: モーツァルトは1756年、現在のオーストリアにあたる神聖ローマ帝国のザルツブルクで生まれる。
- 家族: 父レオポルトは宮廷音楽家、姉ナンネルも優れた音楽の才能を持っていた。
- 幼少期の才能: 3歳で音楽に興味を示し、4歳でピアノを弾き、5歳で作曲を始める。
- 演奏旅行: 1762年からヨーロッパ各地を巡る演奏旅行を行い、「神童」として名声を得る。
- ロンドン滞在: 1764-1765年、ヨハン・クリスティアン・バッハと出会い影響を受ける。
- イタリア旅行: 1769-1771年にイタリアを訪れ、オペラ『ミトリダーテ』で成功。
- ザルツブルク時代: 1773年に宮廷音楽家となるが、低収入と制約に不満を持つ。
- ウィーンでの独立: 1781年、コロレド大司教と対立し、ウィーンで自由な作曲家として活動を始める。
- 結婚: 1782年、アロイジア・ウェーバーの妹コンスタンツェと結婚。
- フリーメーソン入会: 1784年、フリーメーソンに入会し、その思想が後の作品に影響を与える。
- オペラの成功: 『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』などを作曲し、オペラ界に大きな影響を与える。
- 宮廷作曲家: 1787年、皇帝ヨーゼフ2世の宮廷作曲家に任命されるが、収入は少なかった。
- 晩年の傑作: 1789-1791年に『魔笛』や交響曲第39番~41番を作曲。
- 最期: 1791年、プラハ滞在中に体調を崩し、12月5日に35歳で死去。
- 死後の評価: 生前は苦労も多かったが、死後に名声が急上昇し、現在も音楽史上最も偉大な作曲家の一人として評価されている。