ミリイ・バラキレフとは?わかりやすくまとめ解説!生涯や五人組との関係、死因は?

バラキレフ

    この記事では「ロシア五人組」の中心人物ミリイ・バラキレフについて紹介します。
    これでようやく4人目。

    残るはセザール・キュイのみとなりました。
    バラキレフといえば、最高難易度のピアノ曲『イスラメイ』の作者として有名ですよね。
    でも、彼がどのような生涯を送ったかについてはご存じない方が多いのではないでしょう。

    そこで本記事では、彼の生涯、業績、五人組との関係、
    そして彼の影響について解説します。

    といっても、いつも通りのざっくり解説なので、
    バラキレフについての「入口」として参考にしていただければ幸いです。

    また、五人組メンバーについての関連記事も掲載しますので、
    そちらおあわせてお読みいただくと、より知識が深まります。

    バラキレフ:30のロシア民謡/ロシア民謡による大幻想曲

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    ミリイ・バラキレフの生涯

    ロシア

    ロシア音楽の発展に多大な影響を及ぼしたばらバラキレフ。
    彼の存在は「五人組の精神的支柱」のみならず、
    ロシアの国民楽派にも重要な役割を果たしました。

    そんなバラキレフはどのような生涯を送ったのでしょうか。

    ミリイ・バラキレフの生涯:出生と家庭背景

    ミリイ・バラキレフは、1837年、ニジニ・ノヴゴロドで貴族の家族に生まれました。
    父は名誉顧問であり、家系はモスクワのボヤールにまで遡ります。

    母は音楽家であり、幼いバラキレフは母からピアノの手ほどきを受けました。
    文化的な背景が豊かで裕福な家庭に育ってバラキレフ。

    日常生活の一部として常に音楽に囲まれた環境で育ったバラキレフは、
    その自身の音楽的才能を徐々に開花させていきました。

    幼少期の音楽教育

    4歳から母にピアノを教わり、10歳でモスクワに移り住んだバラキレフ。
    モスクワでは、音楽教師として名高いアレクサンドル・デュビュックのレッスンを受けています。

    その後1847年に母が亡くなると、彼はニジニ・ノヴゴロドのギムナジウムに通いながら音楽の道を進むことを決意。

    バラキレフの卓越した音楽的才能は早くから認められ、早くから周囲の注目を集めます。
    とりわけ、作曲に強い興味を持った彼は、この頃から独自の作品を創作し始めました。

    音楽教育と初期の作品:ギムナジウムでの学び

    ギムナジウムで学んだ後、アレクサンドル・ウリビシェフの後援を受けたバラキレフ。
    それと同時に「音楽の夕べ」に参加することで、様々な音楽家と交流し始めます。

    当時の音楽教育は、特にピアノ演奏と作曲に焦点を当てており、
    このれによりバラキレフの作品は徐々に独自のスタイルを確立するに至ります。

    また、ロシアの民謡を取り入れた作品を作曲し始めたのもこの頃で、
    のちのロシアの国民楽派の発展に大いに貢献することとなりました。

    ミリイ・バラキレフ:初期の作品

    バラキレフの最初期の作品には、
    フルート、クラリネット、ピアノ、弦楽器のためのセプテット※や
    ロシア民謡を基にした「グランデ・ファンタジー」などがあります。

    その他、1855年にはモーツァルトの「レクイエム」を指揮したことがロシアの音楽界の目に留まり、徐々にバラキレフは注目を集めることとなりました。

    彼の独自のスタイルは、この時期に形成されたといっても過言ではないでしょう。
    また、作曲、指揮法の習熟に重きを置く一方で、
    多くの即興演奏を行い、演奏技術を磨いたのも特筆すべき点です。

    サンクトペテルブルクへの移住:音楽界との出会い

    1855年、バラキレフはサンクトペテルブルクに移り、グリンカと出会います。

    バラキレフの音楽的才能を高く評価したグリンカは、作曲を続けることを強く勧め、
    精神的支えとしてバラキレフを励まし続けたと言います。

    そしてグリンカとの出会いは、彼の音楽的キャリアにおいて重要な転機となり、
    グリンカとの交流を通じて、バラキレフはロシア音楽の伝統と西洋音楽の要素を融合させることを学びました。

    その後バラキレフはまた、ロシアの民謡や伝説を取り入れた作品に本格的に取り組み
    ロシア国民楽派の確立に寄与することとなります。

    初めての公演

    1856年、バラキレフは大学のコンサートで『ピアノ協奏曲第1番」を演奏し、
    ピアニストデビューを果たしました。

    ロシア民謡を取り入れた彼の音楽は注目を集め、
    この公演をきっかけに、彼のキャリアは大きく羽ばたくことになります。

    バラキレフの演奏・作曲スタイルは当時のロシアの聴衆に強い印象を与え、
    新しいロシア音楽として、彼の名声を高める契機となりました。

    無料音楽学校の設立

    音楽界で名声を獲得したバラキレフは、
    アントン・ルビンシュタインが設立したサンクトペテルブルク音楽院に対抗する形で、
    1862年、無料音楽学校を設立

    当時のバラキレフは、ドイツの音楽教育がロシアの音楽に与える影響を懸念しており、
    ロシアの音楽教育が西洋の模倣に陥ることを避けるべきだと考えていました。

    こうした考えから、ロシアの民族音楽を重視し、
    教育の中でそれを取り入れることを目指しました。
    とはいえ、授業では当時流行していたベルリオーズシューマンリストなどの西ヨーロッパの作曲家も紹介されており、先進的な性質を備えていたようです。

    そんな無料音楽学校には開校からわずか1ヶ月で300人もの希望者が訪れ
    毎週日曜には音楽会を開催し、若手音楽家の新作発表の場として好評を博しました。

    また、音楽会には若き日の天才グラズノフも登場しており、
    彼の『交響曲第1番』は無料音楽学校にて初演が行われています。

    ちなみに、コチラがグラズノフの『交響曲第1番』👇


    ミリイ・バラキレフ:無料音楽学校の特徴

    無料の音楽教育: 経済的に困難な家庭の子供たちにも音楽教育を提供しました。
    これにより、多くの才能ある音楽家が育成されました。

    学校はでは特に合唱歌唱を重視し、これはロシア正教会の要求に応じたものだったといいます。というのも、合唱はロシアの音楽文化において重要な位置を占めており、バラキレフはその普及に一役かったわけですね。

    また、バラキレフは学生たちが創作を通じて学ぶことを奨励し、
    従来の音楽教育とは一線を画しました。
    「教師が生徒に一方的に指導する」という指導法ではなく、
    生徒の自主性を重んじるカリキュラムが特徴で、その点も無料音楽学校が好評となった理由だと考えられます。

    ミリイ・バラキレフと五人組

    五人組のメンバー

    バラキレフは、グリンカの死後、ロシア音楽のナショナリズムを推進するために、
    同じ理想を持つ作曲家たちを集めました。

    そして、これがのちに「ロシアの五人組」として知られるようになります。
    彼らは、ロシアの音楽を西洋の影響から解放し、
    独自のスタイルを確立することを目指しました。

    五人組は定期的に集まり、互いの作品を批評し合い、
    音楽のアイデアを交換するなど、
    新しいアイディアを次々と発表します。

    やがて彼らの活動は、ロシア音楽の発展において重要な役割を果たすことに。
    なかでも、ロシア民謡を取り入れた作品に専念し、
    国民音楽(国民楽派)の確立に寄与したことは、彼らの大きな功績と言えるでしょう。

    五人組メンバー

    メンバーはバラキレフを含め以下の5名です。
    ・バラキレフ
    ・ムソルグスキー
    ・リムスキー=コルサコフ
    ・ボロディン
    ・キュイ

    各人についての解説は、関連記事を参考にしてください。
    キュイについては近日公開予定です(2024年12月現在)。

    モデスト・ムソルグスキー

    ロシアの民俗的な要素を強調し、特にオペラにおいて独自のスタイルを確立。
    組曲『展覧会の絵』は誰でも一度は聴いたことのある名曲です。

    展覧会の絵

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    リムスキー=コルサコフ

    オーケストレーションの名手であり、バラキレフの影響を受けながらも独自の音楽言語を発展させました。元軍人という異色の経歴の作曲家で、近代管弦楽法の礎を築いた人物です。

    シェヘラザード

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    アレクサンドル・ボロディン

    医師・化学者でありながら作曲家としても知られ、ロマン主義的な作風が魅力。
    日本では『韃靼人の踊り』がとくに有名ですね。

    ボロディン

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    ツェーザリ・キュイ

    フランス生まれの作曲家で、ロシア音楽に新しい視点をもたらしました。
    軍事教育家としても名声を博しています。

    ミリイ・バレキレフの晩年と影響力の低下

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    その生涯をロシア音楽の発展に捧げたバラキレフ。
    しかし、晩年は心身の不調により塞ぐことも多かったようです。

    精神的な苦悩

    バラキレフは、晩年に神経衰弱に悩まされ、音楽界から距離を置くようになりました。
    音楽スタイルも徐々にに古くなり、若い世代の作曲家たちから軽視されることもあったようです。

    そんな彼は、自身の音楽が時代遅れになっていると感じ、苦悩することが多くなります。
    やがて精神的な苦悩が大きくなったバラキレフは、音楽活動に対する情熱を失い、
    一時期引退を考えたといいます。

    ミリイ・バレキレフ:最晩年の活動

    しかしバラキレフは、最後の気力を奮い立たせ、
    晩年においても音楽教育に力を入れました。

    とくに若い音楽家たちに対して指導を行い、彼らの成長を支援しました。
    そんな彼の教育方針は、依然として多くの音楽家に影響を与え続け、
    彼の理念を受け継いだ教え子たちは、その後のロシア音楽の発展に貢献することとなります。

    チャイコフスキーもバラキレフから少なからず影響を受け、
    作曲の助言を求めました。

    チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番

    その後バラキレフは1910年5月29日、73歳でこの世を去りました。
    他の五人組のメンバーと同じく、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー修道院に埋葬されています。

    ミリイ・バレキレフの死因について

    調べてみたところ、バラキレフの死因について正確な情報は得られませんでした。

    しかし、一部では心不全あるいは心臓麻痺という記述もあるようです。
    ただ、73歳というのは当時としては高齢であることから、
    老衰による自然死との見方が自然かもしれません。

    アレクサンドル・ネフスキー大聖堂

    引用:wikipediaより

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    ミリイ・バラキレフの生涯:まとめ

    今回はロシア国民楽派を代表する作曲家ミリイ・バラキレフについて簡単に紹介しました。

    バラキレフは、ロシア音楽における重要な人物であり、彼の影響は後の世代の作曲家たちに深く刻まれています。彼の生涯や業績を振り返ることで、ロシア音楽の発展における彼の役割を少しでも知っていただけば幸いです。

    五人組のメンバーとの関係性を知ると、
    さらに知識が深まると思いますので、ぜひそちらも参考にしてください。

    次回はバラキレフの作品の特徴や代表作について解説しますので、
    お楽しみに!

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