この記事では、バロック時代の巨匠パッヘルベルの生涯について解説します。
名前だけ聞くと「誰それ?」という方も多いと思いますが、
癒しのメロディーで有名な「『パッヘルベルのカノン』の作曲者」と知ると、
驚く方もいるのではないでしょうか。
現在では『カノン』だけが知られているものの、
じつはバロック時代の大オルガニスト・作曲家であり、
あの大バッハ一族とも関係があった重要人物です。
そこで今回は、多くの謎に包まれているパッヘルベルの生涯について、
豆知識を交えながら紹介します。
いつもながらざっくり解説なので、最後までお気軽にご一読くだされば幸いです。
ちなみに、あわせてバッハに関する記事もお読みいただくと、
さらに教養が深まります(多分)。
パッヘルベルの生涯について
![教会](https://seven-knives.online/wp-content/uploads/2024/05/light-5083606_640.jpg)
作曲家、オルガニスト、音楽教師として、
バロック期のドイツ音楽の発展に大きな役割を果たしたパッヘルベル。
現在では『パッヘルベルのカノン』だけが有名ですが、
コラール前奏曲やフーガなどの分野でも優れた作品を残しています。
パッヘルベルの生涯1、中流家庭に生まれる
ヨハン・パッヘルベルは1653年、ドイツのニュルンベルクに生まれました。
父はワイン商を営んでおり、2番目の妻の息子として生を受けます。
1650年代と聞いてもあまりピンとこない方もいるかもしれません。
音楽史的には、大バッハが生まれる30年ほど前、モーツァルトが生まれる100年ほど前の人物です。
日本史では、慶安の御触書や江戸城本丸が造営された時代にあたります。
パッヘルベルの幼少期について、詳しくはわかりませんが、
若い頃から並外れた音楽的素養を持ち、学問的能力も極めて高かったそうです。
聖ローレンツ音楽院とニュルンベルクのエッゲディアーノ音楽院で初等教育を受けたパッヘルベルは、早くからその才能を認められ、1669年にアルトドルフ大学に入学。
そして同年には聖ローレンツ教会のオルガニストに抜擢されます。
このときパッヘルベルはまだ15歳(16歳?)。
それを考えると、いかにパッヘルベルの才能が優れていたかがわかりますね。
金銭的余裕がなかったため、1年足らずで大学を去っていますが、
その後1670年、レーゲンスブルクのギムナジウム・ポエティカム(詩学院)に奨学生として入学。
パッヘルベルは学問においても卓越した素養を発揮し、
定員枠を超えていたにも関わらず、入学を許可されたと言われています。
パッヘルベルの生涯2、ウィーンからアイゼナハ、そしてエアフルトへ
この時期のパッヘルベルの動向については、詳しくはわかっていません。
しかし、1673年または1674年頃にオーストリアのウィーンに移り住み、
シュテファン大聖堂の副オルガニストに就任しています。
ちなみに、シュテファン大聖堂は現在もウィーンを象徴する教会です。
ウィーンにおけるパッヘルベルは、
南ドイツやイタリアのカトリック作曲家の音楽を積極的に吸収し、
プロのオルガニストとして瞬く間に注目されるようになります。
そして1677年、今度はドイツのアイゼナハに向かったパッヘルベルは、
ザクセン=アイゼナハ公ヨハン・ゲオルグ1世のカペルマイスター※として、
宮廷オルガニストに就任しています。
※カペルマイスター・・・楽長のこと
アイゼナハといえば、みなさんもよくご存知のヨハン・セバスチャン・バッハの故郷です。
そしてパッヘルベルは、アイゼナハにてバッハの父ヨハン・アンブロジウス・バッハと親交を深め、1年間にわたり彼の子供たちの家庭教師を務めました。
その後1678年。
ドイツ中央部に位置する、エアフルトの教会オルガニストに採用されたパッヘルベル。
同地においてもバッハ家との親交は続き、アンブロジウスの息子に音楽の手ほどきをし、
娘ヨハンナ・ユディタの名付け親になるなど、オルガニスト、音楽教師として活躍の場を広げます。
パッヘルベルの生涯3、ドイツ各地を巡る晩年
そして12年過ごしたエアフルトを後にしたパッヘルベル。
1690年からシュトゥットガルトのヴェルテンベルク宮殿の専属オルガン奏者を2年間務め、
その後、オランダのゴーダ(チーズで有名)にてオルガン奏者に就任します。
結局ゴーダでの滞在も2年間(3年とも)と短期間に終わったものの、
1693年にはパッヘルベル唯一の典礼曲集を出版するなど、
パッヘルベルにとって実りある時期となりました。
また、ゴーダでの2年間(3年)で、
再びシュトゥットガルトやオックスフォード大学からのオファーを受けたパッヘルベルですが、これを辞退。
その後ニュルンベルクの聖セバルドゥス教会のオルガニストに就任し、
残りの人生を同地にて過ごしています。
オルガニストとして活躍する一方、作曲家としても成熟期にあったパッヘルベル。
1699年には、もっとも重要な作品の1つ『アポロンの六弦琴』を作曲・出版し、
バロック音楽の歴史に重要な足跡を残しました。
晩年になってもパッヘルベルの作曲意欲は衰えることなく、
イタリア音楽の影響を受けた協奏的音楽や、
90曲以上のマニフィカト※・フーガ曲を残しています。
※マニフィカト・・・教会音楽における聖歌の1種
オルガン作曲家、オルガニスト、音楽教師として人生を歩んだパッヘルベルは、
1706年3月上旬に52歳でこの世を去りました。
時代が古く文献も少ないため、死因については分かりません。
パッヘルベルの豆知識・エピソード
![ステンドグラス](https://seven-knives.online/wp-content/uploads/2024/05/church-windows-2217785_640.jpg)
まだまだ謎の多いパッヘルベル。
しかし、大バッハと関係があったことは想像にかたくないかもしれません。
ここではパッヘルベルにまつわる豆知識やエピソードについて簡単に紹介します。
パッヘルベルの豆知識・エピソード1、エアフルト滞在中に2回結婚している
エアフルトに12年間滞在したパッヘルベルは、
同地で2度結婚しています。
1度目の結婚は1681年のこと。
エアフルト州知事の娘バーバラ・ガブラーと結婚し、一人息子をもうけています。
しかし、当時はまだまだ医学が未発達な時代。
悲しいことに、1683年に妻と一人息子をペストにより失い、
パッヘルベルは失意の底に落とされます。
パッヘルベルの最初の出版作であるコラール集『死についての音楽的考察』は、
妻と息子を失った経験が元になっていると考えられています。
2度目の結婚は2人の死から10ヶ月後。
1684年に職人の娘ユディト・ドロンマーと結婚し、
5人の息子と2人の娘をもうけています。
息子たちのなかには、オルガン作曲家になったものや、
アメリカに移住するものなど、その後さまざまな方面で活躍したそうです。
というか、10ヶ月後って早い気がするのは筆者だけでしょうか・・・。
パッヘルベルの豆知識・エピソード2、バッハ家とのつながり
上述したように、大バッハの父ヨハン・アンブロジウス・バッハと親交を深めたパッヘルベル。
のちにアンブロジウスの長男ヨハン・クリストフ・バッハ(大バッハの兄)の音楽教師を務めたことから、大バッハ本人もパッヘルベルの影響を受けたことが想像できます。
残念ながら、この説を裏付ける証拠はありませんが、
大バッハは兄クリストフから音楽的指導を受けているので、
かなり可能性が高いと考えても良いかもしれませんね。
パッヘルベルの豆知識・エピソード3、バロックが廃れ忘れ去られる
パッヘルベルは、オルガン作曲家・オルガニストとして絶大な名声を獲得しましたが、
彼の死後、その名声は瞬く間に薄れていきます。
エアフルトや晩年を過ごしたニュルンベルクでは、
多少その名を知っている音楽家もいたそうですが、
ごく限られた人物だけだったとのこと。
しかし、絶大な名声を獲得した音楽家が忘れ去られるのは珍しいことではありません。
というより、この時代に死後も忘れ去られなかったのは作曲家は、
ヘンデルくらい(もっといますが)といっても良いかもしれません。
パッヘルベルの豆知識・エピソード4、「カノン」が流行したのは20世紀のこと
癒しの音楽として世界中で愛されている『パッヘルベルのカノン』。
優しく、温かいメロディーは聴いているとホッとしますよね。
実はこの作品、正式名称を『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』と言います。
前半部分の「カノン」だけが抜粋されて、今のような人気作品となりました。
カノンについてのもう少し詳しい解説は別記事で紹介しています。
意外なことに、この作品はパッヘルベルの死後に忘れられてしまい、
何世紀にもわたり無名の作品だったことをご存知でしょうか?
「カノン」が再び注目を集めたのは、
なんと20世紀後半に入ってからのこと。
1968年にジャン=フランソワ・パイヤール室内管弦楽団によって編曲・録音されたことがきっかけで、爆発的な人気となりました。
大昔から愛されている作品と思いきや、
人々に知られるようになったのは、最近になってからのことです。
パッヘルベルの生涯まとめ
今回のシリーズはバロックの巨匠パッヘルベルの解説です。
バッハ家と深い関わりがあったというのは、意外かなと思います。
『パッヘルベルのカノン』という作品だけでなく、
彼の人生をちょっとのぞいてみるのも、なかなか面白いかもしれません。
次回はパッヘルベルの作品の特徴や魅力、おすすめ作品も解説しますので、
併せてお読みいただければと幸いです。