この記事ではカミーユ・サン=サーンスの生涯について紹介します。
サン=サーンスは1835年に生まれ、
19世紀から20世紀初頭まで活躍したフランスの音楽家です。
作曲家・オルガニスト・指揮者として名声を獲得したサン=サーンスですが、
音楽以外にも、哲学や評論、さらには天文学にも言及した「文化人」でもありました。
作曲した作品の中では「動物の謝肉祭」が特に有名なので、
サン=サーンスの名前は知らなくても一度は聞いたことのある人も多いのではないでしょうか。
カミーユ・サン=サーンスの生涯について
サン=サーンスの生涯とはどのようなものだったのでしょうか?
この記事では、サン=サーンスの生涯について解説します。
幼少の頃から天才的な才能を発揮し、
「モーツァルトの再来」と周囲を驚かせていたようです。
サン=サーンスの生涯1、モーツアルトの再来と呼ばれた幼少期
カミーユ・サン=サーンスは1835年10月9日、
父のヴィクトル・サン=サーンスと母フランソワーズの子として、
フランスのパリに生まれました。
サン=サーンスは一人息子だったため、とても可愛がられて育ったそうですが、
生後わずか2ヶ月で父・ヴィクトールが結核のためこの世を去ります。
父ヴィクトールの死後、母と叔母と共にパリで生活を始めたサン=サーンス。
2歳半からピアノを習い始めたサン=サーンスは、
ピアノ教訓本をわずか1ヶ月でマスターしてしまい、
3歳の時には作曲を行うという神童っぷりを発揮します。
少年サン=サーンスの噂は瞬く間に世間に広がり、
10歳で公式にコンサートデビューを果たします。
その時のプログラムは、モーツァルトのピアノ協奏曲十五番とベートーヴェンのピアノ協奏曲三番だったそうです。
そして、天才サン=サーンスは13歳の若さでフランス音楽学校の最高峰・パリ音楽院への入学を許可されました。
さらにサン=サーンスは音楽だけでなく、
フランス文学・ラテン語・ギリシャ語・数学・神学など、
学問にも優れた才能を発揮したと言われています。
サン=サーンスの生涯2、オルガニストとして活躍
1853年、パリ音楽院を後にしたサン=サーンスはパリ市庁舎近くのサン・メリ教会においてオルガニストの職に就きます。
オルにガニストとして働く一方で、時間に余裕のある時には精力的に作曲も行い、
同年に「交響曲第一番」を完成させます。
17歳という若さで作曲した本作は大好評となり作曲家グノーからも高い評価を得ています。
やがて若き天才サン=サーンスの名前はヨーロッパ中に広まり、
ロッシーニやリスト、ベルリオーズといった作曲家から高く賞賛されることになります。
そして1858年には活動場所をマドレーヌ寺院に移し、
以降20年にわたりオルガニストを務めました。
サン=サーンスの才能を特に評価したのは「ピアノの魔術師」と呼ばれるフランツ・リストだったそうで、サン=サーンスのオルガニストとしての腕前についてリストは「世界でもっとも素晴らしいオルガニストと絶賛しています。
また、1850年代のサン=サーンスは、
ロベルト・シューマンやリヒャルト・ワーグナーなどの最新の音楽に傾倒し、
普及に努めていたそうです。
サン=サーンスの生涯3、音楽教師になる
教会のオルガニストとして活躍する一方で、
サン=サーンスは1861年から1865年の4年間、音楽学校でピアノ教師をしています。
音楽家を育てることにあまり関心が無かったサン=サーンスですが、
教え子の中には「パヴァーヌ」で有名なガブリエル・フォーレがおり、
フォーレはサン=サーンスの革新的な態度に強い影響を受けました。
また、サン=サーンスの作品でもっとも有名な「動物の謝肉祭」の構想が練られたのも、
音楽学校の教師時代だと言われています。
完成にはこれより20年以上の歳月を待たなくてはなりませんが、
この教師時代がなければ、名曲は生まれなかったかもしれません。
サン=サーンスの生涯4、オペラ「ヘンリー8世」が大成功する
生涯で300曲以上もの作品を残したサン=サーンス。
そんなサン=サーンスのもっとも成功した作品の一つとして知られているのが、
1883年に発表したオペラ「ヘンリー8世」です。
パリ・オペラ座の委嘱によって作曲された本作は大成功を収め、
サン=サーンスの名をより一層高めるものとなりました。
一部のフランスのリブレット(台本)作家からは「イギリスの歴史をひどくめちゃくちゃにするもの」との批判を受けましたが、この作品の成功がサン=サーンスのその後を大きく決定したと言っても過言ではないでしょう。
実際、イギリスにおけるサン=サーンスの人気は凄まじく、
「(当時の)フランスにおける最高の作曲家」という認識が広まるほどでした。
その後も交響曲第三番「オルガン付き」や「ピアノ協奏曲第四番」など次々と傑作を発表し、
サン=サーンスは円熟期を迎えることになります。
サン=サーンスの晩年
1906年と1909年の2度にわたり、アメリカでの演奏旅行も行ったサン=サーンス。
演奏旅行は大成功となり、2度目のニューヨーク公演では「主をほめたたえよ」という新作も披露しています。
その一方で、保守的立場をとっていた彼は、
20世紀彼頭に流行した無調音楽やシェーンベルクなどの十二音技法とは肌が合わず、
やがて作曲の意欲を失ってしまいます。
しかしそれまでの功績が大きく認められたサン=サーンスは、
など数々の名誉を受賞しています。
そして1921年、サン=サーンスはアルジェにてこの世を去りました。享年86歳でした。
亡骸はパリに移され、マドレーヌ寺院にて盛大に国葬が執り行われました。
サン=サーンスの死去を受けて、イギリスの『タイムズ』紙は、
サン=サーンス氏の死は、フランスから国の最大級の作曲家を奪っただけではない。彼の死によって、19世紀に典型的な偉大なる音楽運動の最後の代表者が世界から失われたことになる
と報じています。
サン=サーンスの死因について
86歳という当時としては長寿だったサン=サーンスですが、
死因は心臓発作だと考えられています。
今で言うところの、心不全や心筋梗塞の可能性が高いです。
管弦楽「アルジェリア組曲」や「アルジェの学生に捧げる行進曲」などの作品からわかるように、サン=サーンスはアルジェという場所を心から愛し、
存命中はたびたびこの地を訪れています。
そういう意味で、大好きだったアルジェでこの世を去ったのは、
サン=サーンスにとって本望だったのかもしれません。
サン=サーンスの豆知識やエピソード
豆知識やエピソードその1、文化人としても活躍
幼少期から「新しいモーツァルト」と称されたサン=サーンスですが、
どうやらその才能は音楽だけには止まらなかったようです。
サン=サーンスはフランス古典・ギリシャ語・ラテン語・天文学・数学・絵画・哲学といった学問の分野でも秀でた才能を発揮しており、
天文学の分野では「天文学の科学をフランスで大衆化させる一助となった」と評価されています。
また1870年代からは音楽評論家として多くの執筆活動をしましたが、
内容が辛辣だったため意外に敵が多かったそうです。
その2、若きコルトーに辛辣な評価を下す
自身が天才過ぎたのか、人の感情に無頓着な一面があったサン=サーンス。
20世紀を代表するピアニスト・アルフレッド・コルトーがパリ音楽院で学んでいた時、
サン=サーンスはコルトーに向かって「君は何科かね?」と問いかける場面がありました。
サン=サーンスの問いに対し「ピアノ科です」とコルトーが答えると、
「君、大それたことを言ってはいけないよ」と皮肉たっぷりに伝えたそうです。。
ちなみにコルトーはのちにパリ音楽院の教授となり、
音楽院の改革に大きな貢献を果たしました。
その3、大の旅行好き
晩年はフランス音楽の重鎮として名声を博したサン=サーンスですが、
大の旅行好きでも知られています。
1873年にアルジェ(フランス領だったし)を訪れたのをきっかけに、
頻繁に北アフリカを訪れたほか、
スペインやイギリス、北欧、南北アメリカやセイロンなどにも足を運んでいます。
「アルジェリア組曲」 やピアノ協奏曲第五番「エジプト」などはこうした旅行経験にインスピレーションを受けて作曲されました。日本に来ていなかったのは残念ですね。
サン=サーンスの生涯まとめ
今回はカミーユ・サン=サーンスの生涯について解説しました。
クラシック解説のサイトなら、最初は「バッハ」とか「モーツァルト」とか「ベートーヴェン」だろ!と思ったかたも多いと思いますが、その辺はのちのちゆっくりと書きます。
次回はおすすめ作品を動画付きで紹介しますのでお楽しみに!。
サン=サーンスの代表曲についてはこちら
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