ヨハン・シュトラウス1世とは?わかりやすく解説!生涯や豆知識、エピソードは?

ヨハン・シュトラウス1世

    この記事では、ヨハン・シュトラウス1世について、わかりやすく紹介します。
    以前このブログで紹介したヨハン・シュトラウス2世の父であり、
    「ワルツの父」とも称される人物です。

    とはいえ、息子(2世)の方が有名なので
    ちょっと影に隠れてしまっている感じは否めません・・・。

    それでも、ヨハン・シュトラウス1世が生み出した数々の作品は、
    現在でも世界中の人々から愛され続けています。

    いつもの通り、今回もざっくり解説なので、
    ぜひ最後までご一読いただき、参考にしていただければ幸いです。

    ヨハン・シュトラウス1世の生涯

    ワルツに革命的変化をもたらしたヨハン・シュトラウス1世。
    音楽家として偉大な功績を残した一方、家族関係はかなり複雑だったようです。

    ヨハン・シュトラウス1世の生涯1:華やかなウィーンの裏側で…孤独な幼少期を過ごした音楽の天才

    1804年3月14日、ウィーンのレオポルトシュタットで生まれたヨハン・シュトラウス1世。

    幼い頃から「ムーア人顔」というあだ名で呼ばれ、本人もそれを気に入っていたと言われています。

    しかし、彼の幼少期は決して平坦なものではありませんでした。
    7歳で母親を病気で失い、その5年後には父親がドナウ川で溺死

    その後、両親を失った彼は、仕立て屋のアントン・ミュラーに引き取られ、
    製本職人として生きていく道を歩み始めます。

    ヨハン・シュトラウス1世の人生は、まさに「たたき上げ」の人生だったわけですね。

    運命の出会い!若き日のシュトラウスを変えた「音楽との邂逅」

    15歳となった1819年、シュトラウスの人生を大きく変える出会いが訪れます。

    ミヒャエル・パーマーの楽団に入団し、そこで3歳年上のヨーゼフ・ランナーと出会ったのです。

    正反対の性格だった二人は意気投合し、貧しかった時期には一着のタキシードを共用して演奏会に通うほどの親友となりました。

    この時期に培った音楽的基盤が、後の「ワルツ王」としての活躍につながっていくわけですね。

    恋と野望、そして葛藤…波乱の家族関係

    1825年、シュトラウスはマリア・アンナ・シュトラインと結婚。

    この結婚からヨハン2世、ヨーゼフ、アンナなど6人の子供が生まれました。

    しかし、頻繁な海外遠征による長期不在が原因で、夫婦関係は徐々に冷え込んでいきます。
    1834年までに愛人エミリー・トランプシュとの間に8人の子供をもうけ、

    1844年にはその関係を公にしたことで、妻マリア・アンナとの結婚生活は終わりを迎えることになります。

    ライバル関係が生んだ音楽革命!ウィーン・ワルツの確立

    かつての親友ヨーゼフ・ランナーとは、後に「ワルツ合戦」と呼ばれる熾烈な競争を繰り広げることになります。

    シュトラウスは1826年、カーニバルの際にロッサウ郊外のシュヴァンで自身の楽団をデビューさせ、一躍その名を知られることとなりました。

    彼のワルツは素朴な農民の踊りから徐々に発展し、
    現代に知られる「ウィーン・ワルツ」の基礎を築き上げました

    世界が認めた才能!国境を越えて愛された音楽家

    シュトラウスの音楽は、ウィーンを飛び出して世界中で認められていきます。

    1837年のフランス旅行ではカドリーユという新しい舞曲に出会い、
    1840年にオーストリアに紹介して大流行させました。

    また、1838年には、イギリスのヴィクトリア女王の戴冠式で演奏するという快挙も成し遂げています。その後、1846年には、その功績が認められ、皇帝フェルディナント1世からK.K.ホーフバルムジークディレクトール(皇帝および王宮の舞踏会の音楽監督)の名誉称号を授与されました。

    シュトラウス1世の死因:悲劇的な最期と不滅の遺産

    1849年、45歳という若さでこの世を去ったシュトラウス1世。

    その死因は、愛人との間にもうけた子供から感染した猩紅熱(しょうこうねつ)でした。

    シュトラウス1世の訃報を受け、
    作曲家エクトル・ベルリオーズは「シュトラウスのいないウィーンは、ドナウ川のないオーストリアのようだ」と述べ、彼の死を惜しみました。

    現在、彼の遺骨は親友だったヨーゼフ・ランナーと共に、
    ウィーンのツェントラルフリートホーフの名誉墓地に眠っています。

    代表作『ラデツキー行進曲』や『ローレライ=ラインの調べ』は、今日でも世界中で演奏され続けています。

    生前は「ワルツ王」と呼ばれ、死後は「ワルツの父」として知られる彼の音楽は、
    時代を超えて今もなお、多くの人々の心を魅了し続けています。

    ベルリオーズ

    ヨハン・シュトラウス1世の豆知識・エピソードについて

    息子ヨハン・シュトラウス1世といえば、息子シュトラウス2世との確執が有名です。
    「そんなこと息子にする?」って思ってしまうほど、
    結構な仕打ちをしています。

    息子に自分と同じ苦労をさせたくなかったのか、
    それとも、自分を遥かに超える才能への嫉妬なのか・・・。

    それはともかく。
    今回はヨハン・シュトラウス1世にまつわる豆知識・エピソードを3つ紹介します。

    衝撃の「ワルツ合戦」!シュトラウスvsランナー、伝説の乱闘事件

    1828年、ウィーン郊外の舞踏場ボックで、シュトラウスとランナーの対立が爆発。

    言い争いから始まり、ヴァイオリンの弓や譜面台が飛び交う乱闘に発展したといいます。
    これを機に両者は完全に袂を分かち、「ワルツ合戦」の幕が切って落とされました。

    ただし、この乱闘事件の目撃証言は残っておらず、伝説の可能性も指摘されています。

    言い争いは事実だったのかもしれませんが、
    尾ひれがついて、誇張されている話って結構ありまね。

    出典:wikipedia

    両者の死後に描かれたシュトラウスとランナー。右上の中央でヴァイオリンを演奏しているのがランナー、その2つ左の奏者がヨハン(1906年)

    「ウィーンの太陽を隠した男たち」〜若きショパンの苦悩

    1829年、ワルシャワから来たショパンは、
    シュトラウスとランナーの人気に圧倒されます。

    『華麗なる大円舞曲』のウィーン出版を断念したショパンは、
    「ウィーンでは太陽は登りたがらない。ランナーとシュトラウス、
    それに彼らのワルツが、すべてを陰らせてしまうのだ」
    と嘆いたといいます。

    シュトラウス1世とランナーのワルツ人気により、
    ショパンの作品(ワルツ集)でさえ、当時のウィーンの音楽界では成功を収めることはできませんでした。

    ショパン

    父と子の確執〜シュトラウス親子の対立劇

    1844年、息子ヨハン2世の音楽家デビューに激怒したシュトラウス1世は、
    あらゆる妨害工作を展開

    コンサート会場の使用を妨げ、楽団員への圧力、
    さらには息子を中傷する記事を書かせるために記者を買収しようとまでしました。

    皮肉にも、この年に妻アンナと離婚したことで、
    息子の音楽活動は更なる発展を遂げることになります。

    シュトラウス

    ヨハン・シュトラウス1世の作品を聴くならAmazon musicがオススメ

    ここまでお読みいただきありがとうございました。
    読者の方の中には「最近クラシック音楽に興味を持った」という方もおられるハズです。

    でも、あまりにも作曲家・作品が多すぎて、どの作品から聴き始めたらよいか迷いますよね。
    そんな方には、amazonが提供する「amazon music unlimited」 がオススメ。

    CD1枚を買うと安くても1000円程度ですが、
    amazon music unlimitedなら1億曲以上の楽曲やプレイリスト、
    ラジオなどを月額980円で聴き放題!

    もちろん、クラシック作品も豊富に揃っています。
    また、最初の30日間は無料お試しができて、
    気に入らなければいつでも解約できるから安心です。

    タイミングが良ければ3ヶ月無料期間の場合もあるので、
    「CD1枚ごとにに1000円以上払うのはな〜」とお考えの方は、

    キャンペーンが終わってしまう前に👇 👇 👇をチェック!

    ヨハン・シュトラウス1世の生涯:まとめ

    1. 孤独な幼少期
      • 1804年、ウィーンで生まれる。
      • 7歳で母を、12歳で父を亡くし、仕立て屋に引き取られる。
    2. 音楽との運命的な出会い
      • 15歳で楽団に入団し、ヨーゼフ・ランナーと出会う。
      • 貧しい中でも音楽の基盤を築く。
    3. 家庭と複雑な人間関係
      • 1825年に結婚し、6人の子をもうけるが、長期不在で夫婦関係が悪化。
      • 愛人エミリー・トランプシュとの間に8人の子供をもうける。
    4. ワルツの確立とライバル関係
      • 1826年に自身の楽団をデビューさせ、ヨーゼフ・ランナーと競争。
      • 「ウィーン・ワルツ」の基礎を築く。
    5. 世界的な成功
      • 1837年フランスで新舞曲「カドリーユ」に出会い、流行させる。
      • 1838年、イギリスのヴィクトリア女王戴冠式で演奏。
      • 1846年、皇帝フェルディナント1世から名誉称号を授与される。
    6. 悲劇的な最期
      • 1849年、45歳で猩紅熱により死去。
      • エクトル・ベルリオーズがその死を惜しむ。
    7. 音楽の遺産
      • 『ラデツキー行進曲』『ローレライ=ラインの調べ』などの名曲は今も演奏され続けている。


    次回は、ヨハン・シュトラウス1世の作品について紹介します。
    そちらの記事もぜひ参考にしてみてください!

    シュトラウス