今回から3回にわたって、リヒャルト・シュトラウスを紹介します。
クラシック好きな方ならご存じかもしれませんが、
あまり馴染みのない方にとっては「誰それ?」かもしれません。
でも、彼が作曲した交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』は誰でも1度は聴いたことがあるメロディーだと思います。
19世紀半から20世紀半ばにかけて活躍したリヒャルト・シュトラウスは、
後期ロマン派音楽を代表する人物であり、
ある意味において、ロマン派時代の終わりに立ち会った人物です。
交響詩やオペラで優れた作品を多く残し、
ワーグナーやリストの後継者とも言われた彼はどのような人生を歩んだのでしょうか。
この記事では、彼の生涯についてエピソードも交えながらざっくりと解説します。
リヒャルト・シュトラウスの生涯
ロマン派音における最後の大作曲家であり、
20世紀の音楽に多大な影響を与えたリヒャルト・シュトラウスの生涯を解説します。
生涯その1、天才少年
リヒャルト・シュトラウス(以下R・シュトラウス)は、1864年6月11日、バイエルン王国(現ドイツ)のミュンヘンに生まれました。
父フランツ・シュトラウスはミュンヘン宮廷歌劇場で首席ホルン奏者をつとめた音楽家で、母は名門ビール業者(プジョール醸造所)の娘でした。
プジョール醸造所は、現在も「ハッカー・プジョール」の名で知られる名門醸造所です。
父から徹底した音楽教育を受けたR・シュトラウスは、早くから音楽的才能を示し、
なんと6歳から作曲を始めています。
父が音楽関係者であったため、常に一流の音楽家たちに囲まれて育ち、
8歳からミュンヘン宮廷楽団の楽団長で父のいとこでもあった、ベンノ・ワルター
からヴァイオリンの手ほどきを受けました。
また11歳からはヴィルヘルム・マイヤーに5年間作曲を師事し、
その後1882年から1883年にかけての1年間をミュンヘン大学で過ごしています。
さまざまな音楽家に師事したR・シュトラウスですが、
そんな彼にもっとも影響を与えたのは、やはり父の存在です。
父フランツは、息子の作曲を常に援助し、助言やコメントを与えたほか、
ときには批評するほど熱心に音楽教育を施します。
若い頃のR・シュトラウスは、そんな父の影響により、シューマンやメンデルスゾーンといったロマン派の音楽にどっぷりと浸かっていました。
生涯その2、ワーグナー作品との出会い
父の影響により、伝統的な音楽を学んでいたR・シュトラウス。
しかし1885年、彼の人生に大きな転換期が訪れます。
リヒャルト・ワーグナーの姪の夫であり、作曲家でもあったアレクサンダー・リッターとの出会いです。
そしてリッターの影響によりワーグナー作品に傾倒し始めたR・シュトラウスは、
これまでの音楽とは異なる新しい音楽的支柱を目指し始めます。
またこれと同時に、バイエルン国立歌劇場において指揮者としても活動し始めると、
以降は作曲家・指揮者として多くの名作・名演を世に送り出すこととなりました。
1887年にはグスタフ・マーラーと出会い、同時代の作曲家として親交を深めています。
作曲家R・シュトラウスにとって出世作となったのが、1889年に作曲した交響詩『ドン・ファン』です。
初演では賛否両論が巻き起こったものの、
『ドン・ファン』の成功をきっかけに、
・『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(1895年)
・『ツァラトゥストラはかく語りき』(1896年)
・『ドン・キホーテ』(1897年)
・『英雄の生涯』(1898年)
など数々の名曲を生み出しました。
また、1894年のバイロイト音楽祭ではワーグナーの『タンホイザー』を指揮し、
指揮者としても大きな注目を集めるきっかけとなっています。
そして交響詩『英雄の生涯』を最後に、
管弦楽・そしてオペラ作曲家としての道を歩み始めたのでした。
生涯その3、20世紀最大の作曲家として
交響詩の作曲からオペラの制作に移行したR・シュトラウス。
現在では優れたオペラ作品でも評価されていますが、
最初のオペラ『グントラム』(1894年)や『火の危機』(1901年)では、
成功には至りませんでした。
しかし、イギリスの作家オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』を元に作曲した、
同タイトルのオペラを発表すると、これが大成功となりオペラ作曲家としての地位を確立し始めます。
その後、詩人フーゴ・フォン・ホフマンスタールと共にオペラ『エレクトラ』(1908年)や『ばらの騎士』(1910年)を作曲。
これが大きな成功を収め、R・シュトラウスは20世紀のオペラ作曲家として不動の地位を確立し始めます。
そんなR・シュトラウスが成功を収めた時代は、
アルノルト・シェーンベルクの代表される新ウィーン楽派や、
イーゴリ・ストラヴィンスキーらによって提唱された新古典主義が台頭した時代。
しかしR・シュトラウスは、あくまでもロマン派音楽の立場を取り、
ロマン派音楽最後の大家として、その精神を貫き続けました。
その後もオペラ作曲のほか『アルプス交響曲』といった管弦楽作品や、
晩年には歌曲にも力を注ぐなど、およそ60年にわたり代表曲を生み出し続けたR・シュトラウス。第2次世界大戦後は、ナチスとの関係が疑われ裁判の被告になるなど困難な時期があったものの、最終的に無罪となり難を逃れています。
晩年と死因
長きにわたり音楽界を牽引してきたR・シュトラウス。
しかし1948年に膀胱の手術を受けてから急速に健康状態が悪化し始めます。
そして1949年の6月10日、85歳の誕生日を祝ってミュンヘンのプリンツレーゲンテント劇場で『ばらの騎士』第2幕の最後を指揮したのが最後の公演とりました。
最後の公演からおよそ2ヶ月後の、8月15日に心臓発作を起こし、1949年9月8日午後2時過ぎ、西ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヒェンで腎不全のためこの世を去っています。
晩年のR・シュトラウスは、庭で咲く花に優しい眼差しを向けながら、
「私がいなくなっても、花は咲き続けるよ」と呟いていたそうです。
シュトラウスの85歳の誕生日を祝った指揮者ゲオルク・ショルティは、シュトラウスの埋葬の際にもオーケストラを指揮しており、後にショルティは、『ばらの騎士』の有名なトリオの歌唱中「各歌手が泣き崩れ、アンサンブルから脱落してしまったが、彼らは自力で立ち直り、最後は全員で歌った」と語りました。
また、ピアニストのグレン・グールドは、R・シュトラウスについて「今世紀に生きたもっとも偉大な音楽家」と評しています。
リヒャルト・シュトラウスのトリビアやエピソードは?
リヒャルト・シュトラウスにまつわるトリビアやエピソードを紹介します。
音楽一辺倒かと思いきや、意外な一面もあったようです。
有名作曲家と間違えられる
終戦後の一時期をイギリスで過ごしたR・シュトラウス。
晩年の彼は、もはや「過去の人」として扱われていました。
しかしそんな状況を気にもとめず、R・シュトラウスは自身の健在ぶりをアピールします。
コンサートでは自ら『家庭交響曲』や『アルプス交響曲』の指揮を担当し、
精力的に活動を続けたそうです。
ところが問題が1つありました。
それはロンドンで行く先々で「あなたがあの『美しき青きドナウ』の作曲者ですか?」と間違えられること。
『美しき青きドナウ』はヨハン・シュトラウス2世の代表曲です。
「シュトラウス」という名前が同じだったので、
R・シュトラウスは聞かれるたびに辟易(へきえき)したと言います。
『美しき青きドナウ』ってこの曲です↓
リヒャルト・シュトラウスは恐妻家、でもじつは・・・
R・シュトラウスは大の恐妻家だったそうです。
彼の妻パウリーノは癇癪持ちでせっかち、
おまけにマシンガントークで自分のことばかり話す人物だったとか。
ひと昔でいうところの「悪妻(あくさい)」ですね。
自分の気に入らないことがあると、
たとえ人前であってもR・シュトラウスを罵倒することもあったそう。
しかしそんな妻だったからこそ、妻の尻に敷かれながらも数々の傑作を残せたのかもしれません。持ちつ持たれつのバランスの取れた間柄だったのでしょうね。
とはいえ、R・シュトラウスも人間なので、腹の立つこともあったようで、
妻に対する不満の気持ちを『家庭交響曲』や交響詩『英雄の生涯』の中でこっそりと表現したと言われています。
カードゲームが大好きだった
意外にもR・シュトラウスはカードゲームが大好きだったようです。
上記のパウリーノからのお小遣いが足りなくなると、
楽団員相手に「スカート」と呼ばれるカードゲームでお小遣いを稼いでいたのだとか・・・。
指揮者ジョージ・セルによれば、
ある時オペラの指揮中に(ベートーヴェンの『フィデリオ』)時計をチラッとみたところ、「このままではトランプの開始時間に間に合わなくなる」と気づき、
それ移行猛スピードで指揮したという逸話が残されています。
リヒャルト・シュトラウスの生涯まとめ
今回はリヒャルト・シュトラウスの生涯をざっくりと解説しました。
それぞれの作品名などはとりあえず覚えなくて良いので、
20世紀最高の作曲家の1人ということを知っていただければ十分です。
代表作については次回の記事で紹介しますので、
そちらも併せてお読みいだければ、理解が大きく広がります。
ということで、今回はここまで。
このブログではさまざまなクラシック音楽の作曲家について解説しています(遅々として進行中)。
他に興味がある作曲家についてもあるかもしれませんので、
ぜひトップページからもご参照ください。