ジョルジュ・ビゼーとはどんな人物?その生涯や豆知識、エピソードや死因を簡単に解説!

ビゼー

    この記事ではオペラ『カルメン』の作者ジョルジュ・ビゼーについて紹介します。
    普段クラシック音楽を聴かない方でも『カルメン』のメロディーを一度は聴いたことがあるのではないでしょうか。

    現在でこそオペラ作品としてもっとも人気のある『カルメン』ですが、ビゼーの生前中はあまり評価されず、初演は失敗に終わったと言われています。

    幼少期から卓越した才能に恵まれたビゼー。
    しかしその生涯は、意外にも苦難の多いものでした。

    そこで今回は、フランスの作曲家ジョルジュ・ビゼーの生涯を解説します。
    いつも通りざっくり解説なので、気軽に最後までお読みください。

    ビゼー:交響曲 第1番

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    シャルル・ビゼーの生涯年表

    出来事
    1838年10月25日、フランス・パリに生まれる。音楽一家で育ち、幼少期から才能を示す。
    1848年9歳でパリ音楽院に入学。当時としても異例の若さでの入学。ピアノと作曲を学ぶ。
    1855年わずか17歳で交響曲《交響曲 ハ長調》(後に有名になる)を作曲。
    1857年オペラ《ドン・プロコピオ》を作曲し、「ローマ大賞」を受賞。イタリア留学の資格を得る。
    1858〜1860年ローマなどで研鑽を積み、バッハやベートーヴェンの影響も受けつつ作曲に励む。
    1863年オペラ《真珠採り》を初演。エキゾチックな雰囲気と美しいアリアで人気となる。
    1869年アルルの民話を題材にした音楽劇《アルルの女》の劇付随音楽を作曲。後に組曲として編曲され、人気作品に。
    1871年プリュダン賞(フランス音楽家協会賞)を受賞し、フランス音楽界での地位を確立。
    1873年《カルメン》の作曲を開始。台本はメリメの小説に基づく。社会の偏見や当時の道徳観を超えたテーマに挑戦。
    1875年(3月)《カルメン》初演。斬新な内容が批判されるが、音楽の完成度は高く、一部では絶賛も。
    1875年(6月3日)《カルメン》の初演からわずか3か月後、パリ郊外で心臓発作により死去。享年36。死後、《カルメン》は世界的に大成功を収める。

    ジョルジュ・ビゼーの生涯

    コンサート

    36歳という若さでこの世を去ったビゼー。
    音楽的才能に恵まれながらも、その生涯は波乱に満ちたものでした。

    天才少年現る

    ジョルジュ・ビゼーは、1838年10月25日、フランスのパリに生まれました。
    父は美容師兼声楽家、母は教養豊かな家柄に生まれた人物です。

    一人っ子だったビゼーに、最初にピアノの手ほどきをしたのは母でした。
    母からピアノと楽譜の書き方(記譜法)を学んだビゼーは、ただちに音楽的才能を示し、難しい和声を分析するまでに至ります。

    そしてわずか9歳で音楽院入学を許可。
    天才少年として早くから注目を集めたのでした。
    入学審査を担当したホルン奏者ジョゼフ・メイフレッドは、少年ビゼーのあまりの天才ぶりに大きな衝撃を受けたと言われています。

    音楽院入学後もビゼーは溢れんばかりの才能を発揮し、入学からわずか半年でソルフェージュで1等を獲得。前代未聞の偉業に周囲から大きな関心を集めたと言います。

    また音楽院では生涯の師である、シャルル・グノーや、若かりし頃のカミーユ・サン=サーンスと出会っており、これ以降、深い友情で結ばれることとなりました。

    サン=サーンスについてはこちら

    ローマ賞受賞、ローマ、パリ時代

    1850年頃から本格的に作曲を開始したビゼー。
    最初に作曲した作品は、歌詞のない歌曲だったそうです。

    その後17歳で『交響曲ハ長調』を作曲。
    1856年には、作曲家の登竜門といわれる「ローマ賞」に挑戦するも、「該当者なし」として1位獲得には届かず、人生で初の挫折を経験します。

    しかし翌年に再度応募すると、見事1等を獲得。
    5年分の奨学金を得て、ローマ、ドイツ、パリへ渡り音楽の研鑽を重ねました。

    最初の2年間をローマで過ごしたビゼー。
    しかし最初の半年で作曲したのは『テ・デウム』(宗教曲)のみだったそうで、それ以外の多くを社交場や人付き合いなどに費やしたそうです。

    そのほか、ミサ曲やオペラの構想、交響曲などの作曲が試みられましたが、どれも完成には至らず、2年間で作曲した作品は交響詩『バスコ・ダ・ガマ』の1曲でした。

    2年間に及ぶローマでの生活の後、1年をドイツで過ごしたビゼーは、最後の2年間を地元パリで過ごしています。

    当時のパリはワーグナーのオペラが初演を飾った時期であり、ワーグナー作品を見たビゼーは、
    ワーグナーを「あらゆる作曲家を超えた存在」として崇拝したそうです。

    下積み時代のビゼー

    有意義だった5年間はまたたく間に過ぎ去り、気づけば作曲で生計を立てられなくなっていたビゼー。

    1863年以降のビゼーは、ピアノや作曲の講師、舞台作品のオーディションピアニストなどで生活したといいます。

    また、別の作曲家による作品の編曲を多く手がけ、オペラ作品をピアノ版に編曲したり、声楽曲を管弦楽版にアレンジしたりなど、編曲家としての活動が活発だったようです。

    作曲家としてはオペラ・コミック『美しきパースの娘』や、子供用の連弾曲『子供の遊び』、オペラ『ジャミレ』などを作曲しています。

    『美しきパースの娘』では一定の評価を得たものの、パトロンの財団が財政破綻を起こしたことが原因で、わずか18回で打ち切られるよいう結果に終わりました。

    作品を書き上げるも成功せず・・・。
    つらい日々を送っていたビゼーですが、『アルルの女』『カルメン』の作曲をきっかけに、
    再び作曲の意欲を取り戻します。

    とくに『カルメン』の初演には、マスネやサン=サーンス、グノーも駆けつけ、当時の音楽界において大きなイベントとして取り上げられました。

    しかし、初演では良い評判が得られず、一般大衆からの評判も芳しくなかったといいます。

    大衆の反応を見たビゼー自身も、作品の失敗を確信していたのか、『カルメン』について「私には明確な絶望的大失敗が予見されます」と周囲に語っていたそうです。

    ジョルジュ・ビゼーの晩年と死因

    なかなか成功に至らないビゼー。

    多いときには1日16時間働き生計をたてていたものの、自身の作品は評価されず、苦悩の日々を送ります。

    そして1868年、日頃の無理とヘビースモーカーが災いし、気管の腫瘍ができてしまいます。

    30歳という若さで体調に翳りが見え始め、『カルメン』作曲時の1874年には、深刻な体調悪化に陥ってしまいました。

    また『カルメン』の失敗により精神的にもダメージを負ったビゼーは、心身ともに疲れ果て、別荘にて療養生活に入ります。

    これにより少し体調が回復したものの、セーヌ川へ泳ぎに行った次の日に高熱を出したことが原因となり、心臓発作により36歳という若さでこの世を去りました。

    一説には、自殺説もささやかれましたが、医師は最終的な死因を、急性関節リウマチに伴う心臓の合併症と診断しています。

    大きな成功を収めるられなかったビゼーですが、葬儀には4000人もの人々が参列し、才能ある作曲家の死を悼(いた)んだそうです。

    また、弔辞(ちょうじ)を述べたグノーは、悲しみのあまりその場に崩れ落ちたと伝えられています。

    ビゼーの死後『カルメン』の評価が急速に高まり、オペラ史上最高傑作の1つとして、今日も世界中のファンに愛されています。

    ビゼー:「カルメン」第1組曲、「アルルの女」第1組曲&第2組曲

    ジョルジュ・ビゼーの豆知識やエピソードは?

    船の写真

    苦労の多い生涯を送ったビゼー。
    しかし、その才能はピアノの魔術師リストをも驚愕させました。
    ここではビゼーのエピソードを紹介します。

    明日話せる豆知識としてお楽しみください。

    卓越したピアノの技術でリストを驚愕させる

    現在では作曲家として知られるビゼーですが、じつはピアノの技術においても優れた才能を発揮しています。

    幼少期のビゼーは作曲家としてよりも、将来はピアニストとして有望視されていたほどです。

    ある日、フランツ・リストが主催する小さなコンサートに招かれた日のこと。
    集まった人に新曲を披露したリストは、演奏後に「この作品を弾ける者はいないか?」と問いかけます。

    するとそれに応えるように立ち上がったビゼーは、ピアノの前に座り、先ほどリストが演奏した作品を「初見で完璧に」弾きこなしたそうです。

    これに驚愕したリストは、「この難曲を克服できる人間は2人しかいないと思っていましたが、3人おり、そしてこの少年(ビゼー)がおそらく最も大胆かつ最も華麗に演奏するだろう」と賛辞を送りました。

    ちなみにリストとビゼー以外のもう1人は、リストの娘コジマの夫で、指揮者のハンス・フォン・ビューローです。

    ロッシーニからサインをもらい有頂天になる

    毎週金曜に夜に開かれる、オッフェンバックの音楽サロンでも常連となっていたビゼー。

    そのサロンには『ウィリアム・テル』の作者ロッシーニも参加していました。
    以前から大のロッシーニファンだったビゼーは有頂天となり、後日この出会いについて次のように書いています。

    「ロッシーニは全作曲家の中でも最高の人物です。というのも、ロッシーニにはモーツァルトのようにあらゆる美徳があるのですから」

    これはロッシーニがサイン入りの写真を送ったことも関係しているかもしれませんが、若きビゼーの音楽に対する情熱が伝わるエピソードです。

    オペラ以外の作品が評価されたのは20世紀から

    ビゼーの死後、ウィーンやロンドン公演を経て『カルメン』は世界的人気を獲得します。

    一方で、交響曲や歌曲といったその他の作品は演奏機会に恵まれませんでした。
    『交響曲ハ長調』『ミラクル博士』『バスコ・ダ・ガマ』といったオペラ以外の作品が再び注目を集めたのは20世紀に入ってからのことです。

    そういう意味では、ビゼーは時代を先取りし過ぎていた作曲家だったのかもしれませんね。

    ピアノ版 ビゼー 組曲「カルメン」

    ジョルジュ・ビゼーのまとめ

    今回はジョルジュ・ビゼーの生涯を解説しました。

    最近は後期ロマン派ばかり書いていたので、次からは少し時代を遡ってみたいなと思っています。

    次回はビゼーの作品の特徴や代表曲、その次は『カルメン』の解説を書きますので、
    3つ併せてお読みいただければ嬉しいです。

    とくに代表曲紹介では、あまり聴きなれない作品もありますので、このブログをきっかけに、教養の一助になれれば幸いです。

    前回のブルックナーの記事はこちらから

    ブルックナー
    ビゼー
    ビゼー

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