アントニオ・サリエリについてわかりやすく解説!生涯やエピソード、モーツァルトとの関係は?

サリエリ

    この記事では、イタリアを代表する作曲家アントニオ・サリエリについて紹介します。

    モーツァルトの人生を描いた映画『アマデウス』でその姿が描かれたことで、
    ご存じの方も多いかもしれません。

    映画の中で描かれるサリエリは、優れた宮廷音楽家として描かれていますが、
    天才モーツァルトの登場により自分の才能に絶望する姿で描かれています。

    しかしこれはあくまでも映画の中の話。
    実際のサリエリは、映画で描かれている姿とは大きく異なっていたようです。

    そこで本記事では、サリエリの生涯やエピソード。
    そして気になるモーツァルトとの関係についてざっくりと紹介します。

    明日使える豆知識満載なので、ぜひ最後までご一読ください!

    サリエリ:序曲集

    アントニオ・サリエリの生涯:イタリア修業時代

    オーケストラ

    アントニオ・サリエリは、18世紀半ばから19世紀にかけて人気を博したイタリア出身の作曲家です。

    宮廷音楽家、作曲家として活躍したほか、優れた音楽教師としても知られており、
    ベートーヴェンリストなどもサリエリの弟子として知られています。

    以下では、アントニオ・サリエリの生涯について分かりやすく解説します

    音楽の才能に目覚めた少年時代

    1750年8月18日、イタリアのレニャーゴで生まれたアントニオ・サリエリ。
    幼少期から音楽才能を発揮したサリエリは、兄フランチェスコ(ヴァイオリニストで作曲家のジュゼッペ・タルティーニの元教え子)から最初の音楽教育を受けました。

    幼いサリエリは、兄のヴァイオリン演奏を聴くため、許可なく家を飛び出すほどの音楽への情熱を持っていたといいます。

    運命の転機 – 孤児となって音楽の道へ

    1763年から1764年にかけて両親を相次いで失った若きサリエリ。
    行き場を失ったサリエリは、その後一時期パドヴァの修道士に引き取られます。

    孤独に陥り、失意の中にいたサリエリですが、
    やがてヴェネツィアの貴族ジョヴァンニ・モチェニーゴの庇護を受けることになり、
    そしてこれが、彼の音楽人生における重要な転機となりました。

    グルックとの出会いと才能の開花

    1766年、フローリアン・レオポルド・ガスマンの指導のもと、
    サリエリはウィーンへ移り住みます。

    ここで彼は、後の恩人となるクリストフ・ヴィリバルト・グルックと出会い、
    その音楽的才能を開花させていきました。

    ちなみに、グルックは今でこそ演奏機会が少ないものの、
    音楽史上では「オペラの改革者」として知られている重要人物です。

    最初の成功作 – オペラ作曲家としての地位確立

    グルックの元で音楽的才能を開花させたサリエリ。
    そして1770年、サリエリは初のフル・オペラ『Le donne letterate(手紙)』を作曲します。

    これを皮切りに、次々と新作オペラを発表していき、
    1772年に発表された『ヴェニスの見本市』は、3ヶ国語での歌唱や革新的な演出で注目を集めました。

    オペラ『ダナオスの娘たち』の大成功でヨーロッパを代表する作曲家へ

    その後1774年にプスブルク家の宮廷からイタリア・オペラの監督に任命されたサリエリ。

    その後1784年、パリで上演された『ダナオスの娘たち』は、サリエリの代表作となります。
    本作は発表当時グルックの作品として発表されましたが、実はサリエリの手によるもので、以降40年以上にわたってパリの舞台で上演され続け、後のフランス音楽に大きな影響を与えました。

    最終的に1792年までイタリア・オペラ監督の職について彼は、そウィーンにおけるイタリア語オペラの先駆け的存在となり、当時のヨーロッパを代表する作曲家としてその地位を築きます。

    また同時に、1788年から1824年までオーストリア皇帝の宮廷楽長を兼任し、
    宮廷礼拝堂や宮廷付き学校の音楽を担当しました。

    これだけみても、
    当時のサリエリがいかに評価の高い音楽家だったかがわかりますね。

    サリエリ:歌劇「ダナオスの娘たち」

    アントニオ・サリエリの晩年と評価の変遷、死因は?

    オペラハウス

    アントニオ・サリエリの引退・死因

    1804年、時代の変化と共に、彼の音楽スタイルも次第に時代遅れとなり、
    サリエリは表舞台から引退します。

    晩年は宗教音楽の作曲と教育活動に専念し、1825年5月7日、74歳でその生涯を閉じました。

    詳しい死因はわかっていませんが、
    亡くなる1年半ほど前から、今でいうところの「認知症」の症状が見られてそうです。
    また、1823年11月には自殺未遂を起こしたことも伝えれており、
    晩年はなんらかの精神的・身体的不調を抱えていたことが推測できます。

    アントニオ・サリエリの現代における再評価

    19世紀から20世紀後半まで忘れられていたサリエリの音楽ですが、
    近年になって再評価の機運が高まっています。

    特に彼の故郷レニャーゴでは、2009年より毎年サリエリ・オペラ・フェスティバルが開催され、その音楽遺産の保存と普及に努めています。

    今後サリエリの音楽がさらに深掘りされれば、
    コンサートなどでの演奏機会が増えるかもしれません。

    サリエーリ 生涯と作品 モーツァルトに消された宮廷楽長(新版)

    アントニオ・サリエリのエピソード:教育者としての功績と作曲技法

    アントニオ・サリエリの豆知識やエピソードも紹介します。
    冒頭で述べたように、サリエリは音楽教師としても多くの優れた作曲家たちを育てました。

    天才たちを育てた名教師

    サリエリの最も重要な功績の一つが、後世に残る名作曲家たちの育成です。
    たとえば、
    ベートーヴェン
    シューベルト
    リスト
    ツェルニー
    マイアベーア

    といった音楽史に名を残す作曲家たちが、彼の門下から巣立っていきました。

    また、才能ある生徒からは謝礼を取らず、
    むしろ支援を惜しまないような慈善的人格の持ち主だったようです。

    各作曲家については以下にを参照ください。

    ベートーヴェンの肖像

    そのほか「交響曲の父」として知られるフランツ・ヨーゼフ・ハイドンとも親交を深め、クラシック音楽の発展に大きく貢献しています。

    ハイドン

    革新的な作曲技法

    サリエリの音楽は、当時としては革新的な要素を多く含んでいました。
    特にオペラにおいて、複数の言語の使用や異なるジャンルの融合など、
    従来の枠にとらわれない試みを行っています。

    サリエリは、時代の変遷とともに一度は忘れられた存在となりましたが、その音楽的価値と教育者としての功績は、現代において再び光を当てられつつあります。

    彼の生涯は、才能、努力、そして次世代への貢献という点で、
    現代にも通じる普遍的な価値を持つものであると言えるでしょう。

    アントニオ・サリエリとモーツァルトの関係性について

    ピアノ

    映画『アマデウス』の影響があまりにも強いため、
    「モーツァルトへの嫉妬に狂った狂人」のイメージが強いサリエリ。
    しかし、実際は映画とはまったく異なり、サリエリは終始モーツァルトの才能を認め、
    友好的な関係を築いていました。

    以下では、サリエリとモーツァルトを取り巻いていた当時の状況について、
    超ざっくりと紹介します。

    映画「アマデウス」より

    1. 初期の確執と対立

    1780年代のウィーンでは、サリエリを中心としたイタリア人グループがモーツァルトの活動を妨害しているという認識が、モーツァルトと父レオポルドにあったようです。

    そのため、特に宮廷での地位獲得やオペラ上演において、
    イタリア人作曲家が優遇されていることへの不満が募っていました。

    実際、モーツァルトは1781年12月に父に宛てた手紙の中で、
    「皇帝の目にはサリエリしか映っていない」と記しています。
    これはある意味で、サリエリに対する「モーツァルトの嫉妬」ととも取れる内容と言えるでしょう。

    映画とはことなり、当初嫉妬していたのはモーツァルトの方だったわけです。

    モーツァルト (ちくま学芸文庫 ) 

    2. 競争関係の深まり

    当初の関係に追い討ちをかけるように、1781年、ヴュルテンベルク公妃エリザベートの音楽教師選考では、サリエリが選ばれ、モーツァルトは選考から漏れています。

    また、1786年には皇帝ヨーゼフ2世主催のオペラ作曲コンクールで、
    両者の競争関係が公になりました。

    こうしたある種ライバル関係にも見えるような関係が、
    のちのサリエリによる毒殺説のような憶測を生むきっかけとなったのかもしれません。

    3. 協力関係への発展

    時が経つにつれ、両者の関係は次第に改善していきます。
    1788年にカペルマイスターとなったサリエリは、自作のオペラではなくモーツァルトの『フィガロの結婚』の再演を選択。

    さらに、声楽とピアノのためのカンタータ『Per la ricuperata salute di Ofelia(オフェリアの祝日のために)』を共同で作曲するなど、協力関係も生まれています。

    共同作曲した「Per la ricuperata salute di Ofelia」

    また、モーツァルトの『ダヴィデ・ペニテンテ』(1785年)、『ピアノ協奏曲KV482』(1785年)、『クラリネット五重奏曲』(1789年)、『交響曲第40番』(1788年)は、サリエリの提案で初演されたもので、1791年にサリエリが指揮をしたといわれています。 

    4. 晩年の関係

    モーツァルトの最後の手紙には、サリエリと共にオペラを観劇した様子が記されており、
    良好な関係であったことが窺えます。サリエリはモーツァルトの『魔笛』を高く評価し、「これこそオペラだ」と絶賛したそうです。

    それくらい、サリエリはモーツァルトの才能を高く評価していたわけですね。

    5. 死後の誤った噂

    モーツァルトの死後、サリエリによる毒殺説が流布されましたが、
    これはドイツ楽派とイタリア楽派の対立に起因する誤った噂であったとされています。

    実際には毒殺なんてしてませんし、
    それどころか、サリエリはモーツァルトの葬儀に参列し後にモーツァルトの息子の教育にも携わるほど親密な関係でもありました。

    噂を聞きつけた調子者のロッシーニは、サリエリ本人に向かって「あなたが殺したのですか?」と尋ねたのはまた別の話です(笑)

    ロッシーニCD

    アントニオ・サリエリの生涯まとめ

    今回はクラシック音楽史上で重要な役割を果たしたアントニオ・サリエリについてざっくりと紹介しました。

    音楽の授業にも出てこないし、作品を聴いたことがある人も少ないと思います。
    でも、サリエリの存在は後世の音楽家たちに絶大な影響を及ぼしたことは間違いありません。
    この記事をきっかけに、ぜひサリエリの作品を聴いてみてください。

    次回は、サリエリの作品の特徴やオススメ作品を解説しますので、
    ぜひお楽しみに!

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    ここまでお読みいただきありがとうございました。
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