今回は作曲家ホルストの生涯を解説します。
ホルストには、エルガーの『威風堂々』と共にイギリスの愛国歌になっているほど有名な作品があります。組曲「惑星」の作曲者と知られるホルスト。
日本では、平原綾香さんによる「ジュピター」の作曲者として知られています。
生涯でたった1曲しかヒット曲を作曲できませんでしたが、組曲「惑星」は近現代の管弦楽曲の最高峰の一つと言えるでしょう
前回のシベリウスについての記事はこちら!!
グスターヴ・ホルストの生涯について
グスターブ・ホルストの生涯について解説します。代表作、組曲「惑星」に至るまで、どのような人生を辿ったのでしょうか。調べてみると、作曲家というよりも。教育者として生きた生涯だったようです。
ホルストの生涯1、音楽一家に生まれる
グスターヴ・ホルスト(以下ホルスト)は、1874年イギリス・グロスターシャー州南西部の街チェルトナムに生まれました(チェルトナムは王室御用達の温泉街として知られる名所です)。
ホルストの家系を辿ってみると、一族には音楽関係者が多く、曽祖父マティアス・ホルストの代から音楽に携わっており、曽祖父・祖父共にハープの教師として活躍していました。
さらに、ホルストの父アドルフは一族に養子として迎えられ、チェルトナムの教会オルガニストやピアノ教師を務め、ホルストの母は、父アドルフの教え子で歌手・ピアニストだったそうです。
こうした音楽一家に育ち、幼少の頃から父による音楽教育を受けたホルストでしたが、近視や喘息持ちなどで身体が弱かったため、厳しいレッスンについていくのに苦労したと言います。
その後8歳で母を亡くしたホルストは、以降、叔母に育てられることになりました。
ホルストの生涯2、作曲に目覚める
父が懸命にピアノを教える一方、ホルストには違った目標が芽生え始めていました。
もしかしたら、自分のピアノの才能に早くから見切りをつけていたのかもしれません。
ホルストは12歳の頃から作曲家に憧れ始め、独学で作曲を学び始めます。
しかし、どうしてもピアニストに育てたかった父は、ホルストの作曲の勉強を妨害し、大好きだった作曲家の作品を聴くことを禁じてしまいます。
それでも作曲家の夢を諦めなかったホルストは、父がいないことを見計らって、隠れて作曲の勉強に励んでいたそうです。
ちなみにその時使っていた参考書はベルリオーズの『近代の器楽法と管弦楽法』でした。
家庭の経済的な理由で、わずか17歳で地元の合唱団の指揮者兼オルガニストを務めたホルストですが、合唱団では父とブラームスのハンガリー舞曲を演奏していたそうなので、親子関係は悪くなかったと考えられます。
そして作曲を学ぶために、1893年、ホルストはイギリス王立音楽院に入学。王立音楽院創設者の一人である、作曲家スタンフォードに師事します。
しかしこの頃から右手の腱鞘炎に悩まされたホルストは、ピアノを諦め、以前から勉強していたトロンボーン習得に変更します。
また在学中にボーン・ウィリアムスと出会い、以降生涯にわたり親交を深めました。
スタンフォードのホルストに対する評価はそれほど高評価ではなかったらしく、多くの学生の中の一人といった程度でした。
ホルストの生涯3、大学卒業後、女学校の音楽教師となる
1898年、大学から奨学生として声がかかったホルストでしたが、「これ以上学ぶことがない」と判断し大学を卒業します。
その後、生計を立てるためにスコットランド管弦楽団のトロンボーン奏者として入団。
もちろん、この時期も作曲家を目指していましたが、生活のためには他の手段がなかったようです。
この時期に作曲した作品には「ウォルト・ホィットマン序曲 OP.7」「バレエのための組曲OP.10」「コッツウォルズ丘陵交響曲OP.8」「ピアノのための二つの小品作曲」オペラ『シンデレラ』『若者の選択』などがあります。
そんな苦しい生活が続いたホルストでしたが、1901年、合唱団の指揮者をしていた頃に知り合ったソプラノ歌手イゾベル・ハリソンと結婚(新婚旅行は予算の都合でドイツ旅行でした)。1907年には長女イモージェンが誕生し、充実した私生活を送りました。
結婚後は作曲の時間を確保するためトロンボーン奏者を引退し、1903年からジェームス・アレン女学校の音楽教師、1905年からセント・ポール女学校の音楽教師に就任。
音楽教師兼作曲家という生活が始まります。
ちなみにホルストの教員歴は、
平日は授業で忙しかったため、週末や休みを利用して作曲し、特にセント・ポール女学校では防音室で一日中こもって作曲していたと言われています。
ホルストの生涯4、組曲「惑星」が大ヒットとなる
そんな多忙なホルストですが、作曲家としての成功はなかなか訪れませんでした。
その後1914年に第一次世界大戦が勃発。
ホルストも徴兵されましたが、視力が極端に悪かったのと、腱鞘炎という持病を抱えていたため徴兵を免れます。
徴兵の代わりとして、1918年、ホルストは陸軍教育計画の音楽組織係として中東に派遣され、イギリス音楽紹介のための演奏会を行いました。
中東に派遣されたホルストは現地でさまざまな人と出会ったそうですが、教育者としての性質が活かされ、出会った人に忘れがたい印象を残す好人物だったそうです。
そして中東からの帰国後、ホルストに人生最大の転機が訪れます。
1914年から1916年に作曲した組曲「惑星」がホルスト帰国前にイギリスで初演されており、その後1920年に完全版組曲「惑星」が初演されると、空前の大ヒットとなります。
これについて当時のイギリスThe times紙は紙面上で次のようにホルストを絶賛しました。
ホルストはイギリス人には珍しく、真に人気のある作曲家とい地位を確立した
組曲「惑星」の成功後に発表した「イエスの讃歌」も大ヒットとなり、一躍ホルストは国民的作曲家としての人気を獲得します(本人は嫌だったそうですが)。
この成功により大きおな名声を得たホルストのもとには、作曲の依頼が次々と舞い込み、音楽教師・作曲家としてさらに多忙な日々を送ることになってしまうのでした。
ホルストの生涯5、晩年のホルスト
人気絶頂のホルストでしたが、1923年に指揮代から倒れ頭を打ったことで、不眠や頭痛に悩まされます。
それでもなお仕事を続けたホルストでしたが、
あまりの多忙さのため、医者からドクターストップ。
全ての仕事をキャンセルし、
田舎での療養生活送を余儀なくされました。
そして1925年にロンドンへ戻ると、
セント・ポール女学校での音楽教師以外の仕事を全てキャンセルし、
ホルストはようやく作曲だけに専念できるようになります。
1927年から1933年にかけて意欲的に作品を発表したホルスト。
発表する作品はことごく不評となり、一気に人気に翳りが出ます。
しかし、1930年にはアメリカのイェール大学からハラウンド賞を受賞。
1932年は半年に渡りハーバード大学で講演を依頼されるなど、名誉ある晩年だったようです。
ハーバードに渡米中に十二指腸潰瘍が見つかったホルストは、
帰国後ロンドンで手術を受けるも快方には至らず。
1934年5月25日、心不全のためこの世を去りました。
享年59歳という若さでした。「威風堂々」で知られるエドワード・エルガーもこの年に亡くなっています、
ホルストの逸話やエピソードについて
ホルストという小惑星がある
組曲「惑星」が脅威的なヒットとなったホルスト。
その功績により小惑星に「ホルスト」という名前が付けられています。
個人的に「???」と思って、小惑星に名前がついている人物について調べたところ、めちゃめちゃいました(笑)。
例として、
・バッハ
・モーツァルト
・ベートーヴェン
は当然のことながら、他にも、
・スメタナ
・ヤナーチェク
・ドビュッシー
・バルトークなどなどたくさんでした。それぞれの由来まではわかりませんが、そんなに珍しいことではないみたいです。
インド文学に関心をもつ
若かりし頃のホルストは、インド文学に傾倒したらしく、
ユニバーシティ・ロンドン・カレッジでサンスクリット語を学んでいます。
20世紀に入ってからの数年間、ホルストはインド文学をモチーフにした交響詩「インドラ」やオペラ「シーター」、さらにはインドの聖典『リグ・ヴェーダ』の讃歌に基づく合唱曲を多数作曲。
なかでも1913年、「雲の使者」という合唱曲を満を辞して発表しますが、
まったく成功せず。。。この失敗にホルストはひどく落胆したそうです。
「日本組曲」という作品がある
実はホルストと日本は無関係ではありません。
組曲「惑星」は完成まで2年の歳月がかかっていますが、
2年かかったのには理由があります。
それは、ホルストが「惑星」作曲中に渡英してきた、
日本人舞踏家の伊藤道朗から「日本組曲」の作曲を依頼されたためでした。
ホルストは「日本組曲」を完成させるために一時「惑星」の作曲を中断し、
遠い日本から来た舞踏家の依頼に見事応えたのした。
なお、この「日本組曲」では「ね〜んね〜んころ〜りよ、おこ〜ろ〜り〜よ〜」など、
日本の伝統的なメロディーが用いられています。
ホルストの生涯まとめ
今回はグスターヴ・ホルストの生涯について紹介しました。
いつもながら、ホルストについてなんとなく伝われば良いかな〜と・・・。
ということで、次回はあんまり多くないホルストのおすすめ作品について紹介します!
・ジェームス・アレン女学校
・セント・ポール女学校
・モーリス・カレッジ
・年王立音楽院、レディング大学