エドヴァルド・グリーグとはどんな人物?その生涯や豆知識は?エピソードや死因を簡単に解説!

グリーグ

    今回はノルウェーを代表する世界的作曲家エドヴァルド・グリーグの解説です。
    またまた「誰それ?」という声が聞こえてきそうですが・・・。

    でも大丈夫。彼が作曲した『ペール・ギュント』で登場する作品は、
    誰しも一度は聴いたことのある作品です。

    グリーグをもっとも代表する作品『ピアノ協奏曲』(の冒頭部分)なんかも聴いたことがあるハズです。

    グリーグはロマン派の流れを組みながらも、ノルウェーの民俗音楽を生かし、
    北欧ならではの雄大で優しいメロディーに溢れる作品を多く残しました。

    そういう意味で、フィンランドのシベリウスやチェコのスメタナと同じく、
    国民学派の代表と言えるでしょう。

    ということで、今回もエドヴァルド・グリーグについてざっくり解説なので、
    ぜひ最後までご一読ください。

    シベリウススメタナに関してはコチラに書いています。

    スメタナ
    画像出典:アマゾン:グリーグ:ペール・ギュント組曲、ホルベルク組曲&抒情組曲

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    エドヴァルド・グリーグの生涯

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    北欧ノルウェーを代表する作曲家エドヴァルド・グリーグ
    抒情豊かなグリーグの音楽は広く世界に愛され、ノルウェーの音楽に世界的な評価をもたらしました。

    今回は「北欧のショパン」とも称されるグリーグの人生を解説します。

    エドヴァルド・グリーグの生涯その①、音楽一家に育つ

    エドヴァルド・グリーグは、1843年6月15日、ノルウェーのベルゲンという街に生まれました(当時はスウェーデンとノルウェーの一部)。

    父アレクサンダーは、ベンゲルにあったイギリス副領事で商人、
    母ゲシーネは音楽教師を務めていました。

    そのため、グリーグは幼い頃から音楽教育に恵まれ、
    6歳から母の手ほどきによりピアノを習い始めます。

    幼少期から優れた音楽的才能を示したグリーグは、
    1858年の夏、家族ぐるみで付き合いのあったノルウェーのヴァイオリニスト、
    オーレ・ブルにその才能を認められたのでした。

    ブルはグリーグの両親にライプツィヒ音楽院への進学を提案したものの、
    当時まだグリーグが15歳という少年だったため、進学に反対します。

    しかし、最終的にブルの説得により、グリーグはライプツィヒ音楽院に入学。
    音楽院にて本格的にピアノ・作曲を学び始めたのでした。

    不真面目な学生だった?

    ライプツィヒ音楽院に入学したグリーグ。
    そこで、グリーグはコンサートやリサイタルなど、学生生活を楽しんだと伝えられています。
    しかし意外なことに、音楽院の規律を嫌い反抗的な一面もあったのだとか・・・。
    とくに音楽院での勉強は苦手だったらしく、
    のちに「私はライプツィヒ音楽院に入ったときと同じように、愚かなまま音楽院を去ったことを認めなければならない」と語っています。

    また、1860年の春ごろに胸膜炎と結核という重大な病にかかり
    若くして健康上の問題を抱える身体となってしまいました。

    生涯その②、ピアニストデビュー、フランツ・リストとの出会い

    健康面に大きな懸念材料がありつつも、音楽院にてその才能を着実に育てたグリーグ。
    1861年にはスウェーデンでのコンサートでついにピアニスト・デビューを果たし、
    音楽的キャリアをスタートさせます。

    そして翌年1862年にライプツィヒ音楽院を修了したグリーグは、
    ノルウェーで凱旋コンサートを開き、大きな成功を収めたのでした。
    ちなみに、この時のプログラムはベートーヴェンの『悲愴ソナタ』だったそうですよ。

    その後1863年、デンマークのコペンハーゲンに渡ったグリーグ。
    同地にて著名な作曲家ニルス・ゲーゼに作曲を師事。
    『交響曲』や『ピアノ・ソナタ』、『ヴァイオリン・ソナタ第1番』といった初期の作品を生み出しています。

    1860年代後半のグリーグは、まさに人生の最盛期でした。
    1867年には、いとこでソプラノ歌手のニーナと結婚。
    さらに同じ年に、現在のオスロ・フィルハーモニーの指揮者に就任し、
    ピアニスト・指揮者・作曲家と、その名声を徐々に高めていきます。

    そして1868年、グリーグはピアノの魔術師フランツ・リストと出会ったことで、
    リストの推薦状を受け、旅行助成金を得るきっかけとなったのでした。
    これ以降も2人の交流は続き、ときにはリストがオーケストレーションのアドバイスを与えるまでになったそうです。

    シューマン&グリーグ:ピアノ協奏曲(2018 DSD 11.2 MHzマスターによる)ウルトラセブン50th&リパッティ100th

    生涯その③、『ペール・ギュント』の誕生、そして晩年

    ピアニスト・作曲家・指揮者としての地位を獲得したグリーグ。
    その後、グリーグはノルウェーの民俗音楽へ関心が移ります。

    その大きなきっかけとなったのは、
    詩人ビョルンストイェルネ・ビョルンソン(名前難しい)との出会いでした。
    ビョルソンの影響により、ノルウェー民謡に関心を抱いたグリーグ。
    次第にグリーグは、自身の作品にノルウェーの民俗音楽を織り交ぜた、独自の音楽を発展させるようになります。

    そんな中で生み出された作品こそが、グリーグの代表作『ペール・ギュント』です。
    ヘンリック・イプセンの戯曲を題材に、付随音楽として発表した本作は大きな成功を収め、
    グリーグは世界的作曲家へと認知されるにいたりました。
    誰でも1度は聴いたことがあると思いますよ👇

    その後1870年代後半から1880年にかけて、ハダンゲル地方に移り住んだグリーグ。
    この頃から、それまで以上に民俗音楽、民俗楽器へと関心を深めていきます。

    また、1884年には、トロールハウゲン(妖精の丘)に住居を建て、
    以降は同地を活動の拠点として音楽活動を続けました。

    1880年代のグリーグは、ベルゲン・フィルハーモニック管弦楽団と親交を深め、同管弦楽団の音楽監督を務めたほか、1888年にはチャイコフスキーとも出会い、互いに交流を深めています。

    チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番
    グリーグ:《ペール・ギュント》第1組曲&第2組曲/シベリウス:交響詩《フィンランディア》 他

    グリーグの死因

    晩年のグリーグは、まさに栄誉と賞賛に溢れた人生でした。
    1897年にはヴィクトリア女王の御前にてプライベート・コンサートの披露。
    そして1894年にはイギリスのケンブリッジ大学から、1906年にはオックスフォード大学から名誉博士号を授与されています。

    さらに定年を迎えたグリーグは、ノルウェー政府からも多額の年金を支給され、
    音楽家としてこれ以上にない晩年を送りました。

    音楽に生涯を捧げたエドヴァルド・グリーグですが、
    若い頃から患っていた心臓と肺の疾患が原因となり、
    1907年9月4日、長い闘病生活の末、心不全のためこの世を去りました。
    享年64歳。

    ノルウェー国民に心から愛されていたグリーグの葬儀には、3万人から4万人の人々が参列に訪れたと伝えれています。彼の遺体は火葬され、トロールハウゲン近くの墓地に埋葬されました。

    トロールハウゲン近くにあるグリーグの墓

    引用:wikipedia:グリーグの墓

    エドヴァルド・グリーグの豆知識・エピソード

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    写真を見る限り、いかにも温厚そうな人物像が伺えるグリーグ。
    作品と同様に彼のエピソードには、おもわずクスッと笑ってしまうエピソードがあります。

    今回は、グリーグにまつわる豆知識・エピソードを簡単に3つ紹介してみましょう。

    グリーグの豆知識・エピソードその①、ぬいぐるみを大切にしていた

    卓越したピアニスト、そして作曲家として名声を獲得したグリーグ。
    そしてやがて「北欧のショパン」と称され、ノルウェーのみならず世界的音楽家へと駆け上がっていきます。

    しかしそんなグリーグは、じつはとっても繊細な人物だったよう。
    なかでも有名なエピソードとして、小さなカエルの置物や子豚のぬいぐるみを大事にし、
    寝る時も肌身話さなかった
    というものがあります。

    演奏会のときには、緊張を紛らわせるためポケットにカエルの置物を入れ、
    そっと握りしめていたとのこと。

    小柄だったグリーグですが、内面もとてもチャーミングで、
    なんとも微笑ましいエピソードです。

    グリーグの豆知識・エピソードその②、リストに『ピアノ協奏曲』を見せるも・・・。

    グリーグはリストを尊敬し、ときには作曲上のアドバイスをもらうまでに親交を深めました。リストもまたグリーグを高く評価し、ノルウェー教育省に推薦状をしたたえめ、旅費を出資してもらうなど陰からグリーグを支えます。

    そんなグリーグが2度目にリストを訪問したときのこと。
    グリーグは自信作の『ピアノ協奏曲』の楽譜を持参しリストの元を訪れます。

    リストは楽譜を眺め、早速ピアノに向かい、
    なんと初見で『ピアノ協奏曲』を最後まで弾きあげたのでした。

    これにはさすがのグリーグも驚いたに違いありませんが、
    グリーグはリストの演奏に対し「第1楽章を早く弾きすぎですよ」と優しく伝えたそうです。

    もはやリストのエピソードなのか、グリーグのエピソードなのかわかりませんが、
    いずれにしても、グリーグの穏やかな性格がわかるエピソードですね。

    グリーグの豆知識・エピソードその③、トロールハウゲンは博物館へ

    グリーグが44歳の頃に建て、亡くなるまで妻ニーナと過ごしたトロールハウゲン。
    この家で後半生のグリーグは数々の名曲を生み出しました。

    現在、トロールハウゼンは博物館として一般公開され、
    グリーグが生活していた当時の様子を垣間見ることができます。

    北欧の人としては、背の小さかったグリーグ夫妻。
    そんな自分たちのことを、グリーグは「小人(妖精・トロール)の夫妻」と自称し、周囲を和ませていたのだとか。

    グリーグの穏やかな人物像がうかがえますね。
    ちなみに、20世紀の鬼才グレン・グールド(ピアニスト)は、
    妻ニーナの親類にあたるそうですよ。

    参考までにグレン・グールドです🎹👇

    「ゴールドベルク変奏曲」
    バッハ:ゴールドベルク変奏曲(55年モノラル録音)

    エドヴァルド・グリーグの生涯まとめ

    今回はノルウェーの作曲家エドヴァルド・グリーグについて紹介しました。
    作曲家というと、なんだか気難しいイメージや変人なイメージがありますが(そういう人実際多いけど)、グリーグの人生は終生穏やかなものだったように思えます。

    ということで、次回はグリーグの代表曲や作品の特徴を解説しますので、
    ぜひそちらも併せてご一読ください。

    今回登場した他の作曲家については、コチラ👇から。

    チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番
    スメタナ

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    楽器を始めたい方や再スタートしたい方は、こちらの記事も参照ください。

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