本記事では、フランスを最も代表する作曲家クロード・ドビュッシーを紹介します。
「ドビュッシーって?」と思った方も、ピアノ曲『月の光』は聴いたことがあるのではないでしょうか。
毎度のことながら、豆知識となるようなざっくり解説です。
気軽にサクッとお読みいただき、ちょっとした教養の一助になればと思います。
エピソードなども交えていますので、参考にしてくださいね!

クロード・ドビュッシーの生涯年表
年 | 出来事 |
---|---|
1862年(0歳) | フランス・サン=ジェルマン=アン=レーに誕生(8月22日) |
1872年(10歳) | パリ音楽院に入学。ピアノと作曲を学ぶ。 |
1884年(22歳) | 《ローマ大賞》を受賞し、ローマへ留学(ただし環境に馴染めず苦しむ) |
1894年(32歳) | 管弦楽曲《牧神の午後への前奏曲》を発表。音楽界に新しい風を吹き込む。 |
1902年(40歳) | オペラ《ペレアスとメリザンド》を初演。賛否両論ながら革新性が高く評価される。 |
1905年(43歳) | 娘シュシュが誕生。同年、代表作《海(La Mer)》を発表。自然や印象を音で描く作風が確立。 |
1909年〜 | 癌の兆候が出始めるも、晩年まで作曲活動を継続。ピアノ作品《前奏曲集》《映像》などを次々と発表。 |
1914年(52歳) | 第一次世界大戦が始まり、精神的に大きな打撃を受ける。 |
1918年(55歳) | パリにて死去(3月25日)。戦争中であったため、葬儀はひっそりと行われた。 |
クロード・ドビュッシーの生涯

ドビュッシーは印象主義音楽の創始者として知られ、その革新的な作風により、20世紀の音楽に大きな影響を与えました。
美しい作品を多くの残したドビュッシーですが、「女の敵」とも称されるほど、波乱の人生だったようです。
ドビュッシーの生涯、ピアニストを目指した青年時代
ドビュッシーの生涯と言いながら、実は彼の幼少時代のことは詳しくはわかっていません。
というのも、ドビュッシー本人が幼少期を語ることをあまり好まなかったためです。
とはいえ大まかな経歴については残っているので、サラッと見てみましょう。
ドビュッシーは、1862年8月22日、フランスのサン=ジェルマン=アン=レーに生まれました。
父親は陶器商、母親は裁縫師だったようで、幼い頃から音楽に興味をもったドビュッシーは、5歳でピアノを習い始めます。
幼少期からずば抜けたピアノの才能を発揮したドビュッシーは、わずか10歳でパリ音楽院に入学。
12歳の頃には、すでにショパンの『ピアノ協奏曲』を演奏するほどの腕前だったそうです。
音楽院では作曲をエルネスト・ギローに、ピアノをアントワーヌ・マルモンテルに師事しました。
音楽院で演奏したバッハの『トッカータ』が「魅力的な素質」と評価され、ドビュッシーは本格的にピアニストを志します。
その後、音楽院で開かれたコンクールで優秀な成績を収めたものの、「2年連続で賞が取れなかった」ことを理由にピアニストのになることを諦めます。
作曲家クロード・ドビュッシーの誕生
ピアニストの道を断念したドビュッシー。
しかしその興味は、やがて作曲へと移ります。
当時のドビュッシーにとって、憧れの存在といえばチャイコフスキーでした。
幸運にも、チャイコフスキーのパトロンだったフォン・メック夫人と知り合い、夫人の計らいでチャイコフスキーに自作の作品を送ったものの、酷評を受けたそうです。
しかし、メック夫人とともにロシアの各地を旅したことは、のちのドビュッシーにとって大きな影響を与えています。
その後、カンタータ『放蕩息子』で若手音楽家の登竜門である「ローマ賞」を受賞し、ドビュッシーは本格的に作曲家としての活動を開始しします。
ちなみに、その時に審査員を務めていたのはグノーやサン=サーンスでした。
新しい音楽の追求
19世紀後半から20世紀にかけてのクラシック音楽は、ワーグナー派とブラームス派に大きく分かれていました。
ドビュッシーは一時期ワーグナーを信奉していたものの、やがて伝統的音楽から離れ、独自の道を探求します。
そんなドビュッシーに影響を与えたのが、1889年にパリ万博で聴いたジャワ音楽(ガムラン)でした。
「ガムラン」の響きに強い関心を抱いたドビュッシーは、自信の作品に反映させ、伝統的西洋音楽とは全く異なる音楽を体系化するようになります。
1890年代から1900年代初頭にかけて、ドビュッシーの音楽は「印象派音楽」として花開きます。
この時期に作曲された作品に以下のものがあります。
・『牧神の午後への前奏曲』
・『ピリティスの歌』
・オペラ『ペレアスとメリザンド』
・『ベルがマスク組曲』
・『版画』
など。
ドビュッシー作品でもっとも有名な『月の光』が作曲されたのもこの頃です。
クロード・ドビュッシーの晩年
「印象派音楽」の旗手として、20世紀の音楽に大きな功績を残したドビュッシー。
しかし、人生の後半は必ずしも恵まれた環境ではなかったようです。
数々のヒット作を生み出したものの家計は苦しく、ロンドンやスイス、アメリカへと演奏旅行で廻り生計を立てていました。
やがて19010年代になり、次第に体調が悪化したドビュッシー。
しかしそれでも、『12の練習曲』や『6つの古代碑銘』を発表するなど、精力的に作曲活動を続けます。
そして、最後の作品となった『ヴァイオリンソナタ』を作曲した翌年の1918年。
55歳という若さでこの世を去りました。
ドビュッシーの死因は?
上記の通り、1910年代から病魔に犯されたドビュッシー。
病名は直腸がんだったそうです。
妻エンマに支えられながら、2度の手術と放射線治療を行なったものの、懸命な治療も虚しく、1918年3月25日に亡くなっています。
クロード・ドビュッシーの性格やエピソードについて

数多くのエピソードを残したドビュッシー。
今回はその中から「明日話せる」豆知識としてのエピソードを紹介します。
作品を聴くときに思い出すと、クスッとなるかもしれませんよ。
エピソードその1、生意気な学生
気難しく、内向的かつ非社交的な性格として知られたドビュッシー。
そんな彼の性格は、パリ音楽院時代も全開だったそうです。
ある日、音楽院院長から「君の音楽はどのような動機によって作曲されているのか?」と尋ねられた時のこと。
この質問に対して、ドビュッシーは「私の喜びを元に」と応じたそうです。
また、フランス音楽家の大家セザール・フランクのオルガン・クラスに出席していたドビュッシー。
しかしオルガンの「執拗な灰色の色調」にうんざりした彼は、わずか半年でフランクの授業から立ち去っています。
エピソードその2、ローマ賞を受賞するも・・・
若手作曲家の登竜門で知られる「ローマ賞」。
ドビュッシーはカンタータ『放蕩息子』で3度目の挑戦で見事グランプリに輝きました。
この賞は、フランス政府が若い作曲家に贈る最高の栄誉であり、ドビュッシーは、フランスの音楽界で注目される作曲家となりました。
受賞者には副賞としてローマ留学の機会を与えられるのですが・・・。
ドビュッシーは、ローマでの留学生活に馴染めず、2年で帰国してしまいました。
ローマではの生活はドビュッシーにとって退屈だったらしく、自由な創作意欲を抑えられ、苦悩の日々を送ったと言われています。
ドビュッシーは、ローマ留学を拒否した理由について、次のように語っています。
「ローマで勉強するなら、私は音楽家になることを諦めなければならない」
エピソードその3、性格が悪いかと思いきや
偏屈な性格だったドビュッシーですが、長女のクロード=エンマに対してだけは違ったようです(まぁ娘ですからね)。
ドビュッシーはエンマを「シュシュ」という愛称で呼び溺愛しました。
そんな愛する娘のために作曲された作品が、『子供の領分』です。
この記事を読んでいる方の中にも、弾いたことがある方がいらっしゃるのでと思います。この優しさ溢れる作品集こそが、実は本当のドビュッシーの心なのかもしれませんね。
エピソードその4、「女の敵」と称される。
ドビュッシーのエピソードで欠かせないのが、女性関係でしょう。
ドビュッシーは18歳から8年間、夫のいるマリー=ブランジェ・ヴァニエ夫人と不倫関係にありました。
しかも、その間にも他の女性とも交際するダメ男っぷり。
さらに、その後に付き合ったガブリエル・デュポンと同棲中に他の女性と浮気し、
ガブリエルが自殺未遂を起こす事件にまで発展しています。
さらにさらに、1899年にマリ・ロザリー・テクシエと結婚し落ち着いたと思いきや・・・。
1904年にエンマ・バルダック夫人と不倫関係となり、ロザリー・テクシエまで自殺未遂を起こしています。
ここまで来ると、「女の敵」と後ろ指を刺されても仕方ないですね。
クロード・ドビュッシーの生涯まとめ
ということで、今回はクロード・ドビュッシーの生涯を紹介しました。20世紀のクラシック音楽に新風を巻き起こした彼ですが、私生活の方はグダグダだったようです・・・。
でも、美しい作品とのギャップがドビュッシーの魅力の1つかもしれません。