この記事では、アメリカが生んだ天才作曲家・サミュエル・バーバーを紹介します。
いつも以上に「誰それ???」という声が聞こえてきそうですが・・・。
それはさておき、
20世紀のアメリカ・クラシック音楽界を語る上で、バーバーは外せません。
「誰でも知っている曲」こそ少ないものの、
彼が生み出した『弦楽のためのアダージョ』は音楽史上における屈指の名曲であり、
読者の皆様にもぜひ知っていただきたい作品です。
ということで、いつものようにサミュエル・バーバーの生涯を簡単に、
そしてざっくりと解説していきます。
彼の作品については別記事で書いていますので、
そちらも後日、併せてお読みいただければ幸いです。
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サミュエル・バーバーの生涯
音楽一家に育ち、自身も幼少期から天才的才能を発揮したバーバー。
卓越した才能は早くから世間に認められ、瞬く間にアメリカを代表する作曲家として認知されました。
しかしながら、彼の生涯を見てみると必ずしも順風満帆とは言えないかもしれません。
サミュエル・バーバーの生涯①、音楽一家に生まれた天才
サミュエル・バーバーは1910年3月9日、アメリカ・ペンシルバニア州ウェストチェスターに生まれました。
母がピアニストだったため、
幼い頃から音楽に関心を示したバーバーは、母の手ほどきで6歳からピアノを習い始めます。また、母方の叔母ルイーズ・ホーマーは、メトロポリタン歌劇場で人気の一流歌手であり、
バーバーの声楽上の指導者として長きにわたり多大な影響を与えました。
そんな恵まれた環境に育ったバーバー。
幼少期から周囲も目を見張るほどの才能を発揮した彼は、
わずか7歳でピアノ曲『悲哀』を作曲し、天才の片鱗を見せ始めます。
そして10歳でオペレッタを作曲。
14歳でフィラデルフィアの超名門音楽学校カーティス音楽院のユース・アーティスト・プログラムに入学します。
カーティス音楽院いおいて、のべ10年にわたり作曲・声楽・ピアノを学んだバーバーは、
あらゆる分野における「天才」として、ここでも注目を集めました。
とりわけ、音楽院の創設者であるメアリー・カーティス・ボックのお気に入りだったようで、
バーバーに出版社を紹介するなど、多方面において彼をサポートしています。
バーバーの生涯その②、早くから作曲家として成功
1931年、21歳で作曲した管弦楽曲『悪口学校』序曲で賞を受賞し、
早くからクラシック作曲家として脚光を浴びたバーバー。
新進気鋭の作曲家として注目集めると同時に、
1934年にカーティス音楽院を卒業すると、翌年にはウィーンへわたり、さらなる研鑽を重ねます。
またこの時期のバーバーは、作曲と同時にバリトン歌手としてのキャリアも積み、コンサート・シリーズにも出演するなど、有り余る音楽的才能を遺憾無く発揮しました。
そして1938年、28歳となったバーバーは代表作『弦楽のためのアダージョ』を発表。
この作品が大盛況となり、バーバーは一躍アメリカを代表する作曲家として認定されるようになります。
この曲の最初のリハーサルを行った大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニも、
この作品について「シンプルで美しい」と絶賛し、バーバーの才能を讃えたそうです。
その後、1939年から1942年にかけて母校カーティス音楽院で作曲教師となったバーバー。この時期から、合唱曲も手がけるようになり、活躍のジャンルをさらに広げることとなります。
そして1942年、第2次世界大戦が勃発するとバーバーは陸軍航空隊に参加。
1945年までの在籍中に『コマンド・マーチ』を作曲するなど、
文化面においてアメリカ軍を鼓舞し続けます。
ちなみにこの『コマンド・マーチ』はバーバー唯一の吹奏楽曲です。
バーバーの生涯その③、世界的音楽家・作曲家として活躍
戦後1950年代以降のバーバーは、
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やフランクフルト管弦楽団いった海外のオーケストラと多数共演。
自身の演奏や作品のレコーディングに意欲的に取り組み、
現代作曲家としての地位を固めていきます。
この時期に録音した作品には以下のものがあります。
その後1962年、モスクワで2年に1度開催される「ソビエト作曲家会議」にアメリカ人作曲家として初めて出席したバーバー。
同年には『ピアノ協奏曲』によりピューリッツァー賞を受賞し、
アメリカのみならず、世界的音楽家・作曲家として揺るぎない地位を築き上げます。
しかし、そんなバーバーの音楽活動を俯瞰してみると、
1960年代が最期のピークだったようです。
1966年に発表したバーバー渾身のオペラ『アントニーとクレオパトラ』が不評に終わると、
この頃からうつ病とアルコール依存に悩まされ、次第に心身のバランスを崩すようになります。
バーバーの生涯その④、天才の晩年と死
次第に創作の意欲を失い、作曲から遠ざかり始めたバーバーは、
ニューヨークとイタリアを行き来しながら、孤独な毎日を過ごしたそうです。
しかしそんな中でも『弦楽のためのアダージョ』を合唱曲『アニュス・デイ』に編曲することに成功し、現在でもバーバーん作品の定番曲として広く演奏されるに至っています。
また1971年にはカンタータ『恋人たち』の初演も果たし、
聴衆と批評家からも好評を博しました。
その後、またも作曲から遠ざかったバーバーですが、
1978年には『オーケストラのためのエッセイ第3番』を作曲。
この作品がバーバーが完成させた最後の作品となりました。
以降、バーバーの体調は次第に悪化の一途をたどり、
1981年1月23日、アメリカ・ニューヨークにて70歳でこの世を去りました。
死因はリンパ腺癌だったそうです。
バーバーの葬儀は死後3日後にウェストチェスター第一長老教会で行われ、
同地のオークランズ墓地に埋葬されました。
未完となった最後の作品『オーボエと弦楽オーケストラのための「カンツォーネ」』は、
バーバーの死後、1981年に出版されています。
サミュエル・バーバーの豆知識やエピソードについて
天才作曲家・音楽家として人生の早くから頭角を現したサミュエル・バーバー。
そんな彼にはどのようなエピソードがあるのでしょうか。
ここでは明日話せる豆知識・エピソードから、ちょっとマニアックな話を3つ紹介します。
サミュエル・バーバーの豆知識やエピソードその①、毎日の仕事初めはバッハから
作曲・声楽・ピアノ、さまざまな分野で天才的な才能を発揮したバーバー。
そんなバーバーはピアニストでもあり、ソロ活動はしなかったものの、
1日の仕事を始める際、かならずバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を弾いてから仕事に取り掛かったとのこと。
それ以外にも、ラフマニノフのピアノ曲に傾倒したバーバーは、
ファン心理からか、ラフマニノフが愛用していたピアノを手に入れたそうですよ。
サミュエル・バーバーの豆知識やエピソードその②、数多くの賞を受賞
アメリカのクラシック音楽史上、バーバーほど名誉に恵まれた音楽家はいないかもしれません。バーバーがその生涯で受賞した賞は以下のとおり。
・ローマ賞
・ピューリッツァー賞(2回)
・ヘンリー・ハドレー・メダル
・アメリカ芸術文学アカデミー研究所音楽部門金賞
・アメリカン・クラシック音楽の殿堂入り(死後)
また、音楽家の支援や音楽振興にも熱心に取り組んでおり、
ユネスコの国際音楽評議会の会長も務めています。
そのほか、作曲家の印税収入を増やす働きに大きな貢献を果たしたのもバーバーだと言われています。
サミュエル・バーバーの豆知識やエピソードその③、『弦楽のためのアダージョ』の誤解
バーバー最大の代表曲として知られる『弦楽のためのアダージョ』。
この作品は、自身の『弦楽四重奏曲 ロ短調』の第2楽章を編曲したものとして発表されました。
非常に瞑想的で精神性の高い作品ですが、
一方で、この作品が有名になったのは、
アメリカの大統領ジョン・F・ケネディの葬儀で使用されてからのことでした。
これ以降、本作は訃報や葬儀の定番曲として定着し、
死者へ送るレクイエム的な作品として使用されるようになります。
ところが、バーバー自身は「葬送」のイメージはまったく持っていなかったらしく、
生前は「葬式のために作った曲ではない」と不満をもらしていたとのこと。
ちなみに、こんな感じの曲です👇。本当に素晴らしい!!!
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サミュエル・バーバーの生涯まとめ
今回はアメリカの天才作曲家サミュエル・バーバーを紹介しました。
「名前さえ聞いたことがない」方も多かったのではないでしょうか・・・。
でも、この記事をきっかけにぜひバーバーの作品を聴いてみてください。
バーバーの繊細で深い内面性が表現された音楽には、
人々の心に感動を呼び覚ます大きな力があります。
次回は、バーバーの作品について解説しますので、
ぜひそちらもご一読だくさい!
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・交響曲第2番(1944年作曲)
・チェロ協奏曲(1945年作曲)
・バレエ組曲『メデア』(1945年作曲、1946年に組曲化)
など