この記事ではシュトラウス1世のおすすめ代表曲を7曲紹介します。
「ワルツの父」と称されるシュトラウス1世の作品にはどのようなものがあるのでしょうか。
一般的には息子シュトラウス2世の方が有名ですが、ウィンナ・ワルツの黄金期を築き上げたのは、他ならぬ父シュトラウス1世です。
彼が作曲した『ラデツキー行進曲』は、ウィーンのニューイヤー・コンサートのラストを飾る定番曲であり、だれでも一度は聴いたことがある名曲だと思います。
とはいえ、ヨハン・シュトラウス1世はこれ以外にも多くの名曲を残しています。
今回もいつものようにざっくりと解説しますので、ぜひ最後まで読んで参考にしてください!
ヨハン・シュトラウス1世の魅力的な代表曲・おすすめ7選
ウィンナ・ワルツの父として知られるヨハン・シュトラウス1世。
彼の音楽は19世紀のヨーロッパ社会に大きな影響を与え、今日でも多くの人々に愛され続けています。
今回は、そんなシュトラウス1世の代表曲の中から、特に聴いておきたい7曲をご紹介します。
1、ヴィクトリア女王讃歌
2、ローレライ=ラインの調べ
3、アンネン・ポルカ
4、ドイツ統一行進曲
5、ギャロップ「ため息」
6、ウィーンの謝肉祭
7、ケッテンブリュッケン・ワルツ
シュトラウス1世の代表曲1.ヴィクトリア女王讃歌
本作は1838年にされ、現在でもヨハン・シュトラウス1世の人気曲の1つです。
当時のイギリス社交界では、ワルツは「礼節を欠いた」ものとして扱われていました。
しかし、19歳で即位したばかりのヴィクトリア女王の戴冠を祝して、シュトラウス1世は巧みな手法で瞬く間に当時のイギリスでも人気曲となりました。
イギリスの愛国歌『ルール・ブリタニア』と国歌『神よ、女王陛下を護り給え』のメロディを織り交ぜた本作は、バッキンガム宮殿での舞踏会で初演。
若きヴィクトリア女王自身がこのワルツを踊ったというエピソードも残されている名曲です。
シュトラウス1世の代表曲2. ローレライ=ラインの調べ
後の『ラデツキー行進曲』が登場するまで、シュトラウス1世の最高傑作として称えられた本作。ライン川に潜むという伝説の水の精「ローレライ」をモチーフにした幻想的な曲調は、多くの聴衆を魅了し続けています。
1844年、息子ヨハン・シュトラウス2世がデビューコンサートでこの曲を演奏し、父への敬意を示したことでも知られています。もしかしたら、皮肉だったのかもしれませんが・・・。
シュトラウス1世の代表曲3. アンネン・ポルカ
1842年に作曲された『アンネン・ポルカ』は、オーストリア皇帝フェルディナント1世の皇后マリア・アンナへの敬愛を示すものとして作曲されました。
また、本作に「Beliebte(愛される)」という形容詞が付けられていますが、これは皇后が民衆から深く愛されていたことを表現しているとこのこと。
10年後に息子のヨハン・シュトラウス2世も同名の作品を作曲しており、父子で皇室への敬意を音楽で表現する伝統が続いていたことがわかります。
シュトラウス1世の代表曲4. ドイツ統一行進曲
本作は、1848年の革命期に作曲された行進曲です。
ドイツ諸邦の統一を目指したフランクフルト国民議会の開催を記念して作曲されたそうです。
長らく紛失したとされていましたが、1938年に奇跡的に再発見され、今日ではヨハン・シュトラウス1世の代表曲として知られています。
シュトラウス1世の代表曲5. ギャロップ「ため息」
1828年に出版されたこの作品は、シュトラウス1世が同時代の作曲家ヨゼフ・ランナーとしのぎを削っていた時期の作品です。小編成の楽団での演奏を前提に作られた本作からは、若きシュトラウスの創造性を感じ取ることができるでしょう。
シュトラウス1世の代表曲6. ウィーンの謝肉祭
1828年作曲の本作には、ウェーバーの『オベロン』からの引用が含まれています。これは同年に亡くなったウェーバーへの追悼の意も込められており、シュトラウス1世の音楽的教養の深さを示す作品となっています。
シュトラウス1世の代表曲7. ケッテンブリュッケン・ワルツ
1828年に作曲されたこの作品は、ウィーンの都市開発を象徴する最初の鎖橋の完成を記念して作られました。技術の進歩と芸術の融合を体現する、時代を映す鏡のような作品です。
ウィンナ・ワルツとは?歴史と魅力を解説
ウィンナ・ワルツは、オーストリアの首都ウィーンが世界に誇る文化遺産の一つ。
優雅な3拍子のリズムと華やかな旋律で、今なお多くの人々を魅了し続けています。
ここでは、ウィンナ・ワルツについてざっくりと解説します。
誕生と発展 ―― 18世紀から19世紀への軌跡
ウィンナ・ワルツは、18世紀後半にドイツ舞踊とオーストリアの民俗舞踊「レンドラー」を起源として誕生したと言われています
「レンドラー」は現代の社交ダンスの中でも最も古い歴史を持っており、優美な動きが魅力です。
しかし、当時は「過度に親密な」ダンスとして批判の的にもなりました。
ウィンナ・ワルツの源流を辿ると、ミヒャエル・パーマーという音楽家の存在が浮かび上がります。彼は「トゥーシュ」と呼ばれる序奏とコーダ(結尾)をワルツに取り入れ、ウィーン独自の特徴を確立しました。
黄金期を築いた作曲家たち
一般的に「ウィンナ・ワルツの創始者」として知られるのは、ヨーゼフ・ランナーです。
彼はパーマー楽団での経験を活かし、5つの小ワルツを組み合わせた独自の形式を確立。この革新的なスタイルは、後のウィンナ・ワルツの基礎となりました。
「ワルツの父」として知られるヨハン・シュトラウス1世も、パーマー楽団出身です。
ランナーと共に、当時のウィーンで圧倒的な人気を誇り、その名声は他の作曲家たちにも影響を与えました。
例えば、ショパンはウィーンでの『華麗なる大円舞曲』の出版を断念せざるを得ないほどでした。
しかし、ウィンナ・ワルツを真の芸術の域に高めたのは、ヨハン・シュトラウス2世でした。
彼は父の遺産を受け継ぎ(不仲でしたが)、さらに発展させることで、ウィンナ・ワルツの黄金時代を築き上げることに成功しています。
その影響力は国境を越え、チャイコフスキーやワルトトイフェルといった著名な作曲家たちにも及びました。
ウィンナ・ワルツの特徴
現代のウィンナ・ワルツの特徴は、独特の3拍子のリズムです。
3拍が均等ではなく、2拍目をわずかに早めることで生まれる独特の流動感は、ウィンナ・ワルツならではの魅力となっています。
ただし、この演奏スタイルは比較的新しく、20世紀中頃に確立されたという説もあります。
この優雅な舞曲は、今日でもウィーン国立歌劇場や新年音楽会などで演奏され続け、オーストリアの文化的アイデンティティとして世界中で愛され続けています。
最高傑作「ラデツキー行進曲」の歴史と魅力について解説
ヨハン・シュトラウス1世の最高傑作として知られる「ラデツキー行進曲」。
本作は、単なる行進曲にとどまらず、歴史的にも深い意義を持っています。
1848年に作曲されたこの曲は、今日でもウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤー・コンサートで演奏される名曲として愛され続けています。
会場での手拍子が有名です。
誕生の背景 ―― 革命の時代を生きた名曲「ラデツキー」の由来
1848年、イタリア半島では民族統一運動が最高潮に達していました。オーストリア帝国領であった北イタリアでは、独立を目指す激しい闘争が展開されていましたが、ヨーゼフ・ラデツキー将軍率いるオーストリア軍がこれを鎮圧することに成功しました。
この勝利を祝うため、8月31日に「大勝利感謝祭」が開催されることになり、シュトラウス1世に新曲が依頼されました。
二つ返事で引き受けたシュトラウス1世は、この名曲をわずか2時間で作曲したと言われています。本作は、元楽団員のフィリップ・ファールバッハ1世の協力を得て、2つのウィーンの民謡を取り入れた構成で仕上げられています。
政治的影響力と社会的意義
初演は大成功を収め、その後この曲は帝国軍の士気を高める重要な役割を果たしました。その影響力は「ウィーンを革命から救ったのは、ヨハン・シュトラウスである」と評されるほどだったそうです。
しかし、この成功は作曲者に「君主制支持者」というレッテルをもたらすことにもなりました。コンサート会場には多くの士官と「国民自衛団」の市民が集まるようになり、曲は次第にオーストリア帝国の愛国の象徴として扱われるようになります。
楽曲としての魅力と現代での評価
本作の自筆譜は長らく紛失したとされていましたが、1978年に偶然にも破棄寸前の楽譜の山から発見されました。
1987年当時、楽譜を所有していたロイス・ベック教授は、オリジナルの楽器編成について「現行のものより香り高く透明で、軍隊行進曲というよりもロッシーニの序曲のように聞こえる」と評しています。
2001年のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートでは、ニコラウス・アーノンクールの指揮によってオリジナル版が演奏され、作曲当時の姿を現代に伝えるものとして話題となりました。
シュトラウス1世のおすすめ代表曲:まとめ
今回のまとめは以下の通りです。
この記事を通じて、少しでも多くの作品に触れていただければ幸いです。
ヨハン・シュトラウス1世・2世について、さらに詳しく知りたい方は、日本ヨハン・シュトラウス協会を参考にしてみてください!