スメタナとはどんな人物?その生涯や豆知識、エピソードや死因を簡単解説!

スメタナ

    この記事では、チェコが生んだ世界的作曲家スメタナを紹介します。
    クラシック音楽を普段聴かない方でも、
    「なんとなく名前を聞いたことあるような・・・」と思われる方も多いかもしれません。

    それもそのはず、多くの読者の方は、中学の音楽の授業で『わが祖国』という作品を一度は聴いているはずです。

    とはいえ、授業でなんとなく聴いただけで、
    スメタナがどのような人生を歩み、どんな人物だったのかということは、
    よく知らない人も多いのではないでしょうか。

    そこで本記事では、スメタナの波乱の生涯について解説します。
    でも、いつも通りのざっくり解説なので、難しく考えずお気軽にご一読くだされば幸いです。

    画像出典:アマゾン:スメタナ『わが祖国』より

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    スメタナの生涯

    教会

    チェコにおける国民音楽の基礎を確立したスメタナ。
    幼少から類い稀な音楽の才能を発揮し、世界的な作曲家に上り詰めた彼ですが、
    その生涯は決して平坦なものではありませんでした。

    スメタナの生涯①、幼少期から才能を発揮

    ベドルジハ・スメタナは、1824年、現在のチェコ共和国の首都プラハの東、リトミシュルの街に生まれました。

    スメタナの父フランチシェックは有名なビール醸造業を営む商人で、
    自身もヴァイオリンを嗜む音楽愛好家だったことから、
    幼いスメタナは音楽に囲まれた幼少時代を過ごしています。
    余談ですが、父は3度結婚しており、スメタナは3番目の奥さんの子供であったため、
    異母兄弟・姉妹の多い賑やかな家庭で育ちました。

    父の影響からスメタナ本人もヴァイオリンを学び始め、
    なんと6歳の頃には公の場で演奏会を開いていたとのこと。
    また、ヴァイオリンを習うと同時に即興でワルツを奏でることもあったそうで、
    早くからその音楽の才能を示します。

    その後1838年、プラハにあるカレル大学に進学したスメタナ。
    しかし、地方出身の彼は都会の風土に馴染めず、すぐに学校に行くのをやめ、
    コンサート通いに明け暮れます。
    そしてこの時期からオペラや軍楽隊の演奏を毎日のように聴き歩き、
    自作曲の演奏のため、アマチュア弦楽四重奏にも参加していたとのこと。

    そんな毎日を過ごすスメタナに、音楽の道を進む決心をさせたのが、
    フランツ・リストの存在でした。
    プラハで開催されたリストのピアノ・リサイタルを見たスメタナは、
    「作曲ではモーツァルト、テクニックではリストになる」と宣言し、
    音楽の道を志すようになります。

    生涯その②、作曲家・音楽学校での活躍・宮廷ピアニストになる

    作曲家になることを決意したスメタナ。
    しかし、当時の彼は正式に作曲を学んだことがなく、音楽教育を完全に受けてはいませんでした。

    途方に暮れかけていた中、知人からプラハ音楽大学学長を務めていたヨゼフ・プロクシュを紹介され、1844年1月から正式に生徒として音楽教育を受けるに至ります。
    この頃のスメタナは、ベートーヴェンやショパン、ベルリオーズといった当時の最先端の音楽を次々と吸収し、音楽理論、そして指揮法を学んだといいます。

    また、音楽を学ぶかたわら、貴族であったトゥーン卿家の音楽教師となり、
    経済的困窮を切り抜けると同時に、歌曲やダンス、即興曲といった作曲にも意欲的に取り組んでいます。

    その後1848年にはスメタナ自身もピアノ学校を開講し、定期的にリストが訪れるなど、
    音楽教師としての手腕も発揮しました。
    翌年1849年には前オーストリア皇帝フェルディナンド1世の目にとまり、1850年からフェルディナンド1世の宮廷ピアニストとしても活躍し始めます。

    この頃のスメタナは、作曲家、音楽教師、ピアニストと、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでその名が知られるようになり、プラハの音楽家として徐々に名声を獲得していきます。

    ベートーヴェンの肖像
    ベルリオーズ

    仕事と私生活、すべてにおいて順調に思われたスメタナですが、
    そんな彼に立て続けに不幸が訪れます。

    とくに1854年から1856年の間は、彼の人生にとってどん底だったと言っても過言ではないでしょう。
    というのも、1854年7月、最愛の次女ガブリエルを結核のため2歳で失うと、
    翌年には長女ベドジーシカを感染症で(4歳)、1856年には4女カテジナも生まれて間も無く亡くしてしまいます。

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    生涯その③、スウェーデンへの旅立ち、そして世界的作曲家へ

    わずか数年で人生の絶望を味わったスメタナ。
    そして彼は、この悲劇を忘れるためであるかのように、
    新天地スウェーデンへと向かったのでした。

    そして同地でも音楽学校を開いたスメタナは、
    リサイタルやヨーテボリ音楽協会の指揮者に就任。スウェーデン王家から演奏会の依頼を受けるなど、スウェーデンの地でもその名が知られるようになります。

    1861年になると、再びチェコに活動拠点を移し、チェコの国民性を盛り込んだオペラの作曲に力を注ぐようになったのでした。
    しかし、当時のスメタナはリストやワーグナーの流れを汲んだ「前衛的な作曲家」とみなされる傾向にあり、反発も多かったようです。

    それでも、チェコ文化を取り入れた新しいオペラの作曲を続けたスメタナは、
    1866年に発表したオペラ『ボヘミアのブランデンブルク人』が好評を獲得すると、
    やがて世界的な作曲家へと認知されるようになりました。

    また、プラハの歌劇場で首席指揮者にも任命されたスメタナは、
    アントニン・ドヴォルザークに音楽的指導をするなど、
    チェコ音楽の礎を着実に築き上げていったのでした。

    そして1860年代から1880年代初頭は、まさにスメタナの黄金期とも言える時代。
    この頃に作曲した代表作には、以下のものがあります(代表作については別記事にて紹介)。

    この時期の主な作品

    ・オペラ『売られて花嫁』
    ・『ダリボル』(オペラ)
    ・『二人やもめ』(オペラ)
    『わが祖国』
    ・『弦楽四重奏曲第1番「わが生涯より」
    ・ピアノ曲集『チェコ舞曲集』
    ・オペラ『口づけ』『秘密』『悪魔の壁』
    など

    ドヴォルザーク
    「わが祖国」連弾用スコア

    生涯その④、体調の悪化、聴力を失った晩年

    数年のうちにチェコを代表する作曲家とみなされるに至ったスメタナ。
    しかし、1870年代中頃から(上述の内容と前後しますが)健康状態に不安材料が見られるように。

    この頃にはすでに右耳の聴力を完全に失っており、
    時期を待たずして、左耳の聴力も失ってしまいます。

    さらに1880年代初頭から、めまいや痙攣、記憶障害が見られるようになり、
    不眠やうつ、幻覚にも悩まされ始めます。

    それでも作曲家としての使命を持ち続けたスメタナですが、
    1884年からついに正常な精神を保つことも困難となり、
    プラハの精神病棟に入院することとなりました。

    ところが、ついにスメタナの病状は回復することなく、
    1884年5月12日、次第に衰弱するなか、収容先の病院にて60歳でこの世を去りました。

    遺体はプラハのヴィシェフラド民族墓地に埋葬され、
    この地は音楽関係者にとっての巡礼地となっています。

    引用:wikipediaヴィシェフラド民族墓地の廻廊

    スメタナの死因について

    死因について、当時の病院は老人性の認知症と記録しているとのことです。
    しかしスメタナの家族はそれを受け入れず「梅毒によるもの」と捉えていたとのこと。

    20世紀に入り、ドイツの神経学者エルンスト・レヴィン博士がスメタナの死因について調べたところ「梅毒によるもの」との結論に達しています。
    しかし、チェコの医師イジー・ランバー博士はこの調査に意を唱えており、
    絶対的な結論には達していないというのが、現在における公平な見方かもしれません。

    スメタナの豆知識やエピソードについて

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    音楽の授業で一度は聞いたことのあるスメタナですが、
    エピソードについては紹介されている教科書は少ないのではないでしょうか。
    ここでは、明日話せるスメタナの豆知識・エピソードを3つ紹介します。

    スメタナの豆知識・エピソードその①、フランツ・リストに借金の依頼をするも断られる

    スメタナが音楽の道を志すきっかけとなったのは、フランツ・リストの影響にあることは上述しました。
    そんなスメタナですが、じつは音楽学校を設立するため、リストに借金の申し出をしていたことをご存じでしょうか。
    スメタナはピアノ曲『6つの性格的な小品』をリストに献呈し、
    出版社に紹介してもらうよう頼んだほか、音楽学校設立のために400グルテンの借金を依頼しています。

    これに対しリストは、出版社への依頼は快く返事したものの、
    借金の依頼は丁重に断ったのだとか。
    たしかに「会ったこともない他人に」借金するほど、リストもお人好しでないわけで・・・。というか、会ったことない人に借金のお願いをするスメタナも大した度胸だなと(笑)。
    借金の依頼は断られたものの、二人は友人関係となり、スメタナはリストの励ましに大いに心動かされたそうです。

    豆知識・エピソードその②、革命運動に参加していたスメタナ

    短期間ではあるものの、スメタナは革命運動に参加し、プラハの民主化運動に参加していました。このときスメタナ20代半ば。血気盛んで正義感に溢れた青年でした。

    旧友にして詩人・政治家・ジャーナリストであったカレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーと再開したスメタナは、彼の思想に刺激を受け、愛国的な作品を作り革命運動を影から支えたほか、バリケードの人員を助けたこともあったとのこと。

    この活動はまもなく制圧されたものの、若き日のスメタナの行動力がうかがえるエピソードです。

    豆知識・エピソードその③、病魔と戦いながらも作曲

    本論にある通り、晩年の10年間のスメタナは、病魔とともにあった10年間でした。
    両耳の失調に加え、精神に異変を抱えながらも、オペラ『二人やもめ』『秘密』は成功を収め、とくにオペラ『口づけ』では鳴り止まない拍手喝采で歓迎されたと伝えられています。

    また『わが祖国』の全曲初演が行われた際には(1882年)

    「誰もが立ちあがり、鳴り止まない喝采の嵐が、6つの楽曲ごとに繰り返された… 「ブラニーク」(最終楽曲)の最後には、聴衆はそれ自体を忘れ、人々は作曲家と挨拶をして別れることができなかった

    引用:wikipedia

    という記録が残されています。
    最終的に錯乱状態に陥ったスメタナですが、最後まで音楽に対する崇高な精神が失われなかったことがわかるエピソードですね。

    クラシック作曲家列伝 バッハからラヴェルまで12人の天才たちの愉快な素顔 

    スメタナの生涯まとめ

    ということで、今回はスメタナの生涯についてざっくりと解説しました。
    音楽の授業では「作品聴いて、感想書いて、はい終わり」かもしれませんが、
    音楽史的には、スメタナってとても重要な人物なんです。

    そのことだけでも、なんとなく伝わってくれれば幸いです。
    次回はスメタナの代表作や作品の特徴も紹介しますので、そちらもぜひご一読ください。

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