この記事では、イタリアが産んだ大ヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニを解説します。
ヴァイオリニスト史上、類い稀なヴィルトォーゾとして、時代に旋風を巻き起こしたパガニーニ。
当時の人々は、パガニーニのあまりに並外れたヴァイオリン演奏に、
「悪魔が乗り移った演奏家」と称したとも言われています。
しかし、実際にはそんなことはないわけですが、
そのように揶揄されるほど、とんでもないヴァイオリニストであったことは間違いありません。
また演奏家のほかにも、パガニーニは作曲家としても多くの作品を残しており、
その名曲は現在にも広く聴衆に親しまれています。
ということで、
今回はニコロ・パガニーニの生涯や豆知識・エピソードをざっくり解説です。
同時代の作曲家だけでなく、後世にも多大な影響を与えたパガニーニはどのような人生を送ったのでしょうか。
順を追って紹介します。
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ニコロ・パガニーニの生涯について
パガニーニという名前を知らない人も多いかもしれません。
あるいは、知っていても作品を聴いたこはないという方もいることでしょう。
確かに、作曲家としてのパガニーニはそれほど露出度は多くないです。
しかし『ラ・カンパネッラ』という作品はご存知の方も多いでしょう。
『ラ・カンパネッラ』はフランツ・リストのピアノ曲として有名ですが、
じつはもとはパガニーニの『ヴァイオリン協奏曲』が題材となっているんです。
ニコロ・パガニーニの生涯①、天才ヴァイオリニストの誕生
1782年10月27日、ニコロ・パガニーニはジェノヴァ共和国(現在のイタリア・ジェノバ)にて、6人兄弟の3男として生まれました。
未来の大ヴァイオリニストというと、
さぞかし裕福な音楽一家に生まれたかと思いきや・・・。
父アントニオ・パガニーニは、船問屋を営む商人をしており、
一家はお世辞にも裕福とは言えなかったそうです。
しかしそんな中、パガニーニは5歳から楽器に興味を示し、
7歳からヴァイオリンを学び始めます。
ちなみに、最初にパガニーニが興味を持った楽器は「マンドリン」だったとのこと。
「マンドリン」とは、17世紀頃からイタリアで流行したギターのような弦楽器です。
フォルムはこんな感じ👇。
引用:wikipedia:マンドリン
ヴァイオリンに転向したパガニーニは、すぐさま天賦の才能を発揮し、
さまざまな奨学金を獲得しながら、その才能を開花させていきます。
驚きなのは、地元にいる多くのヴァイオリン教師に師事したものの、
「あっという間に師匠たちの腕前を上回って」しまったこと。
もはや地元では誰一人としてパガニーニにヴァイオリンを指導できる人物がいなくなり、パガニーニと父アントニオは新たな教師を求め、パロマへと向かいます。
生涯その②、フランスへ、ヴァイオリストとして
パガニーニはが生きた時代は、
1789年にフランス革命が勃発し、ナポレオン・ボナパルトが絶大な支持を集めた時代でした。
そんな中、フランス軍は北イタリアに侵攻。
パガニーニ一家は戦火を逃れるためボルツァネート地方に疎開します。
この時期のパガニーニついて、詳しい生活風景は分かりませんでしたが、
どうやらこの時期はギターの習得に熱心だったと言われています。
ヴァイオリニストとして数々の名曲を残したパガニーニですが、
じつはギター曲も多く作曲しており、ヴァイオリンと同じように、
ライフワークの1つでもありました。
そして1801年、18歳でルッカ共和国(現在のトスカーナ地方)で第1ヴァイオリニストに任命されたパガニーニは、それと同時にフリーランスのヴァイオリニストとしての活動を開始したのでした。
19世紀初頭といえば、それまで宮廷に支えていた「職業音楽家」という働き方が変わり、
自身の個性を表現する「作曲家」という職業が確立された時代。
そういう意味では、パガニーニは時代の先端を行く生き方をしていたのかもしれません
▶️その最初はモーツァルト辺りの時代の作曲家たちですが。
その後1805年、ルッカがナポレオン軍に併合されると、
パガニーニはナポレオンの妹エリザ・ナポレオンに寵愛を受け、
エリザの夫フェリーチェ・バチョッキに10年間個人レッスンする行っています。
生涯その③、フリーランス音楽家へ本格始動
フェリーチェ・バチョッキがトスカーナ大公となり、宮廷がフィレンチェに移されると、
パガニーニは側近として同行するものの、自由な活動を求め大公のもとを後にします。
フェリーチェ・バチョッキ大公👇
引用:wikipedia:フェリーチェ・バチョッキ大公
バチョッキ大公のもとを後にしたパガニーニ。
それからというもの、彼はパルマやジェノバを拠点にツアー活動を行い、
一般大衆からも絶大な支持を集めていきます。
とくに1813年、ミラノ・スカラ座でのコンサートはパガニーニの人生史上、
もっとも成功を収めたコンサートとなり、ヨーロッパ中にパガニーニの名が知られる大きなきっかけとなりました。
また、1827年にローマ教皇レオ12世から黄金の勲章を授与されたことを皮切りに、
翌年1828年から1831年までヨーロッパ・コンサートを開始。
ウィーン、ストラスブール(フランス)、ドイツ、ポーランド、ボヘミアでのコンサートはいずれも大成功となり、パガニーニは不動の地位を獲得したのでした。
その後も、パリやイギリスでツアーを行ったパガニーニ。
超人的なヴァイオリンのヴィルトォーゾであるにもかかわらず、
惜しげもなくその技術を披露する姿も好感を呼び、聴衆のみならず、批評家からも絶大な支持を獲得しています。
生涯その④、晩年
ここまで大活躍な人生を紹介してきましたが・・・。
パガニーニの生涯は、慢性的な病気とともに歩んだ生涯でもありました。
現代の医療では比較的容易に治療できるものでも、
今から240年前では治療困難なものもの多かったわけです。
史実として正確な情報はありませんが、一説によればパガニーニはマルファン症候群やエーラス・ダンロス症候群であったとも言われています。
これらは、ど遺伝性や先天的疾患で、現在でも難病されている病気です。
また、過密なコンサートスケジュールや贅沢三昧な日々もパガニーニの健康に影響を与えたと考えられています。その後1822(か1823年)年には梅毒に罹患(りかん)し、次第に心身ともに重篤な状況へと向かってしまいました。
そして1834年、自身の限界を悟ったパガニーニは、50歳にしてコンサート活動を中止。以降、作曲とヴァイオリンの教科書出版に尽力しています。
しかし、それからおよそ6年後の1849年、パガニーニは57歳にして急逝し、
57年という短い人生に幕を下ろしました。
生前のパガニーニは、そのあまりにも卓越したヴァイオリン技術から「悪魔との関係が疑われていた」ため、カトリック協会は遺体を埋葬することを拒否。
遺体はパガニーニの死後およそ6年を経過した1876年に、ようやくパロマに埋葬されました。
その後、1896年、パガニーニの遺体はパロマの新墓地に改めて埋葬されています。
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ニコロ・パガニーニの死因
上述の通り、1822年か1823年頃にパガニーニは梅毒と診断されました。
そして当時、梅毒の治療薬として用いられていたのが、水銀とアヘンです。
パガニーニは水銀療法とアヘン投与により、さらに体調を悪化させ、
ついには、1828年に結核にもかかってしまいます。
水銀療法により水銀中毒となったパガニーニは、
気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全とさまざまな副作用が多発。
喉の結核や喉頭がんなどが死因であるとの見方もある一方、
記録にの残っている症状から、現在では「水銀中毒」が死因の第1候補と考えられています。
ニコロ・パガニーニの豆知識やエピソードについて
「悪魔に魂を売り渡した」とまで称されたパガニーニ。
しかし一方で、金銭に執拗に執着する「人間くさい」エピソードも残されています。
そこで今回は、パガニーニにまつわる豆知識・エピソードをざっくりと4つ見ていきましょう。
ニコロ・パガニーニの豆知識・エピソード①、「悪魔に魂を売り飛ばした」と称される
1つ目は、本記事でも何度か紹介したエピソードです。
パガニーニは、当時の技術としては並外れた技術を持ったヴァイオリニストであり、その技術はまさに「悪魔に魂を売らないかぎり」獲得できないものと考える人も多かったようです。
そのため、パガニーニが登場する演奏会では、悪魔よけのため「真面目に十字を切る人」や「本当に足があるのか、足元ばかりをみる人」もいたのだそう。
現代でこそ「そんな大袈裟な」と思いますが、
パガニーニの埋葬について、カトリック教会が真面目に拒否したことを考えると、
案外、信じている人も多かったのかもしれません。
豆知識・エピソード②、お金にはキッチリしていた
そんな評判がある一方、パガニーニは利益やお金にキッチリした人物だったとも言われています。
自身が人気者になるにつれ、演奏会のチケットを高値に設定し、結構な荒稼ぎをしていたのだとか。
しかも当時は偽札も多く出回っていたことから、コンサート会場入り口をパガニーニ自身が見張り、チケットをチェックするほどだったと言われています。
また、エンターテイナーとしても十分な素質を備えていた彼は、
木靴に弦を張って演奏し、人々を魅了したそうです。
とはいえ、1836年にはパリでのカジノ興業に失敗し、経済的に苦しくなったパガニーニ。少しでもお金を稼ぐために、楽器や私物を競売にかけたとも言われています。
豆知識・エピソード③、同時代の作曲家たちとの交流
一匹狼のような印象を受けるパガニーニ。
しかし、彼が生きた時代はベートーヴェンやロッシーニ、シューベルト、ショパンやリストなど、そうそうたる作曲家が台頭し始めた時代もでありました。
とくにパガニーニが親交を深めたのが、ジョアキーノ・ロッシーニとエクトル・ベルリオーズです。ロッシーニのオペラでは代理指揮者を務めたほか、
経済的に困窮していたベルリオーズを援助し、作曲の依頼で手を差し伸べたのもパガニーニでした。
言い伝えらたところによると、ロッシーニはパガニーニの尽力に心から感謝し、
二人の友情は長く続いたと言われています。
ところで、ピアノの魔術師フランツ・リストが、
なぜピアノのヴィルトォーゾを目指したのかをご存知でしょうか。
リストがピアノに本気で取り組むようになったのは、
まさに「パガニーニの演奏を見たこと」がきっかけというのは有名な話です。
パガニーニの超絶技巧を目の当たりにした若き日のリストは、
自らも「ピアノのパガニーニになる!!!」と心に決め、1日14時間の練習に励んだそうです。
ニコロ・パガニーニの生涯まとめ
今回は「悪魔に魂を売ったヴァイオリニスト」、ニコロ・パガニーニの生涯をお送りしました。
とはいえ、実際はそんなことはなく、才能と努力、そして伊達男の塊のような人物だったようです。
人間味があり、商才にも長けていたと思うと、
これまでの彼に対するイメージが少し変わるかもしれません。
ということで、次回はパガニーニの作品の特徴やおすすめ代表曲を解説します。
そちらの記事も併せて、ぜひご一読ください!
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