シューベルトとはどんな人物?その生涯や豆知識・エピソードや死因を簡単に解説!

    今回はフランツ・シューベルトの生涯について解説します。

    シューベルトといえば、日本では歌曲『魔王』の作者として有名ですね。
    音楽の授業などで一度は聴いたことがあるのではないでしょうか。
    「おと〜〜さん、おと〜さん」ってやつ♫。

    31歳という若さでこの世を去ったシューベルトですが、
    そんな彼の人生はどのようなものだったのでしょうか。

    今回から3回(場合によっては4回)にわたりシューベルトについて紹介します。

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    フランツ・シューベルトの生涯

    フランツ・シューベルトは18世紀末から19世紀初期にかけて活躍した、ドイツの作曲家です。シューベルト自身はベートーヴェンなどの流れを汲む「古典主義的」作品に重点を置きましたが、そのその作風はのちのロマン派の音楽に大きな影響を与えました。

    シューベルトの生涯その1、早熟だった幼少時代

    フランツ・シューベルトは1797年1月31日、ウィーン郊外の街・リヒテンタールに生まれました。

    父・テオドールは教師をする傍ら、アマチュア音楽家としても活躍し、
    6歳になったシューベルトにヴァイオリンの手ほどきを始めます(シューベルトは12番目の子供でした)。

    しかし幼いころから天才的才能を発揮したシューベルトは、
    ヴァイオリンを初めてからわずか1年で父の手に余るほどの進歩を見せたと言われています。

    息子の才能に驚愕した父・テオドールは、シューベルトを地元リヒテンタール教会の聖歌隊指揮者の元に通わせ、本格的に音楽を学ばせます。

    ここでも天賦の才能を示したようで、
    聖歌隊メンバーからも一目を置かれる存在として、
    周囲に可愛がられていました。

    実はシューベルト家は貧しい家庭で、家にピアノがありませんでしたが、
    教会聖歌隊の計らいにより、聖歌隊の建物近くにあったピアノ倉庫で自由にピアノや音楽の勉強ができたようです。

    シューベルトの生涯を見てみると、
    生涯にわたり金銭的に貧しい人生を送ったものの、
    なぜか周囲に助けられる」愛されキャラだったことがわかります。

    シューベルトの生涯その2、青年時代

    1808年、11歳でコンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を獲得したシューベルト。

    シューベルトは17歳までの6年間をコンヴィクトで過ごし、
    ピアノ・作曲・和声など多くのことを学んでいます。

    シューベルトが通っていた頃のコンヴィクトはアントニオ・サリエリ(イタリア人)の指導下にあり、その影響でイタリア歌曲を中心に教わったようです。

    リストの回でも出てきましたね。リストについてはこちらです👇

    ちなみにこのコンヴィクトは、時代とともにさまざまな呼び名で呼ばれていますが、
    現在の「ウィーン国立音楽大学」の前身です。

    奨学金を得ながらコンヴィクトに通っていたシューベルは、
    貧しいながらもその交友関係に恵まれ、
    特に学生オーケストラとの関わりや交友関係において大きな収穫を得ています。

    また、この時期のシューベルトは楽器演奏から作曲へと関心が移った時期でもあり、
    弦楽四重奏曲』といった室内楽や『4手ピアノのためのファンタジア』などのピアノ曲
    キリエ』などの宗教曲を作曲し始めたのもこの頃です。

    1811年の学生最後の年には、『交響曲第1番』を作曲しています(未完成ですが)。

    シューベルトの生涯その3、コンヴィクト卒業後

    コンヴィクト卒業後、父の学校に教師として赴任したシューベルト。

    しかし、教師の仕事は肌に合わなかったようで、2年で辞職(音楽家ですからね)。

    改めて作曲の勉強を始めたシューベルトは、
    コンヴィクトで出会ったアントニオ・サリエリから個人レッスンを受ける始めます。

    サリエリはシューベルトの作品を「ハイドンやモーツアルトの真似事だ!!」と酷評したものの、サリエリからの学びは多かったようで、作風の幅が大きく広がり始めたのもこの時期です。

    この時期のシューベルトはまさに多産で(生涯多産ともいえますが)、
    1813年から1815年にかけて、『ミサ曲』『糸を紡ぐぐれーとヒェン』『交響曲第2番』『4年間の歩哨兵勤務』(オペラ)といった傑作を生み出し、
    作曲家シューベルトとして徐々に歩み出します。

    みなさん一度は聴いたことのある『魔王』や『野ばら』を作曲したのもこの頃です。

    よくよく考えてみると『野ばら』を作曲した当時、
    シューベルトはまだ18歳だったんですね。
    作品紹介は次の記事ですが、『野ばら』を載せておきます👇

    1815年の1年間だけでも140曲以上もの歌曲を作曲し、
    リート歌曲」と呼ばれるロマン主義の礎を築いたシューベルトは、
    のちのロマン主義音楽に絶大な影響を与えています。

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    シューベルトの生涯の分岐点

    コンヴィクト卒業後、教師・サリエリとの勉強会・社交場など忙しい毎日を送っていたシューベルト。

    そんなシューベルトにある日転機が訪れます。

    以前からシューベルトの作品を聴いていた友人がシューベルトの元を訪ね「教師を辞めて、音楽に専念しないか?」と持ちかけます。

    これを快諾したシューベルトは父の許可を得て教師を辞め、
    作曲のみに集中する環境を手にします。

    そして『交響曲第4番<悲劇的>』『交響曲第5番』をするなど、
    その才能を遺憾なく発揮させます。

    しかし、教師を辞め、演奏会で収入を得ることがなかったシューベルトの生活は、
    なお貧しいままだったそうです。

    そんなシューベルトを支えたのは、周囲の友人たちでした。

    友人たちは才能溢れるシューベルトを寛大に認め、
    宿を与えたり食事を分けあったり、楽譜の代金を支払うなどして、
    シューベルトの支援を惜しみませんでした(ルフィーとか悟空みたいなキャラだったのか?)。

    救急

    作曲家として初公演が開かれる

    貧しいながらも友人に恵まれ、思う存分作曲に時間を費やすことができるようになったシューベルト。
    1818年にようやく待ちに待った演奏会が開かれます。でもまだ23歳(笑)。

    コンサートが開催される

    1818年、イタリアの作曲家ロッシーニの作品を参考に『イタリア風序曲』でコンサートデビューとなったシューベルト。

    初演はなんと刑務所コンサートだったそうです。

    さらにこの年に『ミサ曲ハ長調』、『交響曲6番ハ長調』を書き上げ、
    なかでもシューベルトの代表曲で『鱒(ます)』として知られる『ピアノ五重奏曲イ長調』を作曲しています。

    多くの時間を友人宅で過ごしたシューベルトは、
    朝起きるとすぐに作曲を開始し、午後2時まで作曲を続け、昼食後も散歩か作曲という超人的生活を送っていたそうです。

    つまり、365日ほぼ一日中作曲してたったことですね・・・。

    そして1821年、友人が『魔王』を歌ったことで、
    ようやく(というか渋々だったそうですが)楽譜出版の機会を得て、
    魔王』を含む7つの歌曲が出版されました。

    絵画であれ音楽であれ、
    「後から評価される」のは少なくないようで、
    シューベルトもその典型だったようです。

    1822年にはベートーヴェンウェーバーと出会いましたが、
    どちらも親しい間柄にはならなかったようです。

    しかしベートヴェンはシューベルトの才能を認め、
    ベートーヴェンを尊敬していたシューベルトは、同年に出版した『フランスの歌による変奏曲』を献呈しています。

    代表曲はこちらから↓

    クラシック作曲家列伝 バッハからラヴェルまで12人の天才たちの愉快な素顔 

    晩年、早すぎる死

    1820年代に入ってもシューベルトの作曲意欲は衰えることはありませんでした。

    1824年には有名な『未完成交響曲』や『美しき水車小屋の娘』、叙情豊かな歌曲『冬の旅』といった傑作を作曲したのもこの1820年代です。

    また1825年には楽譜出版が進められ、
    シューベルトの名は徐々に音楽界へその名前が知れ渡るようになります。

    1826年から亡くなる1828年まではウィーンで過ごし、
    1827年にはベートーヴェンの葬儀にも参列したそうです。

    しかし1828年、シューベルトの体は病魔に侵されてしまいます。

    そしてついには「何を食べても飲んでも吐いてしまう」状態にまで悪化し、
    歌曲『冬の旅』の校正中に高熱に浮かされるようになり、
    1828年11月19日、31歳という若さでこの世を去りました。

    シューベルトの希望により、
    遺体はヴェーリング街にあるベートヴェンの墓の隣に埋葬されています。

    死因について

    シューベルトの死因については、現在のようにカルテなどが残っていないため厳密なことは分かりません。

    しか、症状からの考察や残っている資料などによると、
    死因の直接の原因は、亡くなる前月に食べた「魚料理による腸チフス」によるものだと考えられています。

    または、梅毒治療のために用いられた水銀が体内に蓄積したことによる、
    水銀中毒との見方もあります。

    シューベルト: ピアノ・ソナタ 第20番・第21番

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    シューベルトのエピソード

    31歳という短い生涯でしたが、シューベルトにはさまざまなエピソードが残されています。

    今回はその中から2つのエピソードを紹介します。

    宴会で不吉な予言をする

    1828年に亡くなったシューベルトですが、実はその前年不吉な予言めいたことを発言しています。

    それは前年の1827年、ベートーヴェンの葬儀に参加した後の出来事です。

    仲間と共に街に繰り出し、
    酒を酌み交わしたシューベルト。

    この時、シューベルトは「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!!🍻」と乾杯の音頭を取り、周囲をドン引きさせてしまいます。仲間たちの内心では「お前だよ!!」とつっこんでいたのかも・・・。

    そしてこの言葉は、結果的にシューベルト本人に向けられたものとなってしまいました。

    自分で作曲した作品を弾けずにブチ切れる

    仲間内で開かれたコンサートで披露するために、ピアノ曲を作曲したシューベルト。

    さすらいびと幻想曲』と名付けられた作品を自信満々に披露する予定でしたが・・・。

    なんと自分で作曲した作品でミスタッチを連発!!。

    演奏中にブチ切れたシューベルトは、途中で演奏を中断し、ピアノの蓋を力強く閉じて怒りを露にします。

    そして「こんなものは悪魔にでも弾かせてしまえ!!!💢」と言って楽譜を破り捨ててしまいました。

    「いやいや、自分で作曲した作品じゃん!」とツッコミたくなりますが、意外に気性が激しい部分もあったのかもしれません笑。ちなみにその作品がコチラ👇

    シューベルト: ピアノ・ソナタ集 第1巻/ヘンレ社/原典版

    シューベルトの生涯まとめ

    今回調べてみて思ったのが、作曲家という意味においては「モーツァルトの次くらいに天才なんじゃないか」ということ。

    もうほんと、泉のように、無尽蔵に音楽が湧き出ている感じがします。
    作品紹介についてはこちらが参考になりますよ!

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