「音楽の父」バッハの次は、「音楽の母」フリードリヒ・ヘンデルの生涯について紹介します。
バッハと同年に生まれたヘンデルは、ドイツだけでなく、イタリアやイギリスでも成功を収め、
絶大な人気を獲得しました。
今でこそ「バッハの次」的存在ですが、
彼らが生きた時代においては「圧倒的に」ヘンデルの方が有名だったことは、あまり知られていないのではないでしょうか。
そこで今回は、フリードリヒ・ヘンデルの生涯について解説します。
もちろん、今まで通りざっくり解説です!
エピソードも紹介していますので、ぜひ最後まで読んで「豆知識」としてご活用ください。
出典:Amazon「The Best of Handel,vol.」
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ヘンデルの生涯
ヘンデルの性格を一言で言えば、「前向き」と言えるでしょう。
持ち前の前向きさをフルに活かし、ヘンデルはさまざまな国で成功を収めました。
ヘンデルの生涯1、生い立ち
ヘンデルは1685年、ブランデンブルク=プロイセン領のハレに生まれました。
バッハの家系とは異なり、ヘンデルは音楽とは無縁の家系に生まれます。
ヘンデルの父ゲオルグは宮廷お抱えの外科医で、祖父は金属細工師だったそうです。
「外科医」というと家柄の良さを感じますよね?
しかし、この時代の外科医は「床屋外科医」とも呼ばれ、
散髪や外科的手術を一手に行う「技術者」的な立場でした。
幼少の頃から音楽の才能を発揮したヘンデルですが、
父ゲオルグは音楽の道に進むことに猛反発。
幼いヘンデルは父の目を盗んで鍵盤楽器(クラヴィコード)を入手し、
屋根裏部屋で練習を重ねたそうです。
そんなヘンデルの才能にいち早く目を向けたのが、
父ゲオルグが仕えていたヴァイセンフェルス公爵でした。
公爵の援助のおかげで音楽を続けることができたヘンデルは、
作曲、オルガン、チェンバロ、ヴァイオリンなどさまざまな分野で才能を発揮します。
そして1702年、ハレ大学に進学したヘンデルは、この年からハレ大聖堂のオルガニストを開始し、本格的に音楽家としてのキャリアを開始しました。
余談ですが、ハレ大学での専攻は「法学部」だったと推定されています。
詳しいことはわかっていないそうです。
また、学生時代に作曲家テレマンと知り合い、
二人の交流は生涯続きました。
ヘンデルの生涯2、イタリアへ渡る
音楽家としての道を歩み始めたヘンデル。
ハレ大学を中退した彼は、オーケストラに所属し、チェンバロ奏者・音楽監督として活躍し始めます。
演奏家として活躍する一方で、
作曲家としても活動を開始し、1705年、最初のオペラ『アルミーラ』を上演。
すると20回以上も上演される人気作となり、ヘンデルは一躍、人気作曲家として注目を集めます。
やがてその評判は海外にも広がり、
イタリア・トスカーナ大公フェルディナントから熱心な誘いを受けたヘンデルは、
1706年から1710年までの4年間をイタリアで過ごします。
当時のローマでは、ローマ教皇庁によりオペラ上演が禁止されていました。
そこでヘンデルは、オラトリオの形式で作品を発表し、最初のオラトリオ『時と悟りの勝利』で大きな成功を収めまます。
その後、ヴェネツィアやナポリを回ったヘンデルは、
・オペラ『ロドリーゴ』
・オラトリオ『復活』
・オペラ『アグリッピーナ』
などを発表。
なかでも『アグリッピーナ』は大きな反響を得て、
27回の上演がなされました。
また、イタリアではコレッリやスカルラッティなどと出会い、
ヘンデルは優れた演奏家・作曲家として歓迎されたといいます。
ヘンデルの生涯3、ロンドンでも人気者
1710年、ドイツに帰国しハノーファーの宮廷楽長に就任したヘンデル。
しかしすぐに1年間の休暇を得て今度はイギリス・ロンドンを訪れます。
そしてイギリスの貴族から依頼され、オペラ『リナルド』を作曲。
この作品が現地でも話題となり、ヘンデルはイギリスの定住を決意します。
余談ですが、ヘンデルは『リナルド』をわずか2週間で書き上げたそうです。
以降、作曲家・音楽監督として活躍したヘンデルは、1724年にイギリスに帰化し、
名前もフリードリヒ・ヘンデルからフレデリック・ヘンデルへと改名しています。
数々の作品で人気を獲得したヘンデルですが、やがてオペラの人気が衰え始めます。
しかしこの状況を素早く察知したヘンデルは、1730年代からオラトリオの作品へ転向。
1739年にはオラトリオ・シーズンを開催し、『サウル』『エジプトのイスラエル人』、『聖セシリアの日のための頌歌(しょうか)』といった作品を次々と発表します。
また、1742年にはヘンデルの代表作『メサイア』を作曲。
これによりヘンデルは揺るぎない地位を確立し、大作曲として人気を博しました。
その後もイギリスで音楽家として活動したヘンデルですが、
1759年4月14日、74歳でこの世を去りました。
生前、「ひっそりと埋葬される」ことを望んだヘンデルでしたが、
3000人もの民衆が、彼の死を悼(いた)んだと伝えられています。
オラトリオとは?
オラトリオとは、合唱、ソリスト、オーケストラなどが協力して演奏する音楽形式の一つです。
おもに宗教的(キリスト教)なテーマを扱い、長大な楽曲で構成されます。オペラと異なり、オラトリオは舞台上で演じられることは少なく、音楽に焦点が置かれるのが特徴です。
ヘンデルにまつわる豆知識やエピソードについて
ヘンデルの生涯には、どのようなエピソードが残されているのでしょうか。
音楽家・舞台監督として活躍した彼は、慈善活動も行い、貧しい人々に手を差し伸べたことでも知られています。
豆知識やエピソードその1、バッハとは一度も会っていない
じつは、バッハとヘンデルはともに1685年生まれの同い年です。
バッハはドイツの一地域で教会音楽家として忙しい毎日を送り、
一方のヘンデルはヨーロッパにその名が伝わる大スターでした。
もちろん当時のバッハはヘンデルを知っており、
2度にわたり面会を求めたそうです。
最初はお互いの事情により実現せず、2度目はヘンデルの事情により面会を断ったと言われています。
断った詳しい事情はわかりませんが、もし二人が出会っていたらどのような会話をしたのでしょうね。
その2、『メサイヤ』で町中が大騒ぎになる
ヘンデルをもっとも代表する作品といえば、オラトリオ『メサイア』です。
曲解説は次回にするとして・・・。
「ハーレルヤ!🎵ハーレルヤ!」というメロディは、誰でも一度は聴いたことのあるメロディだと思います。
この曲の初演は、ダブリンで行われました。
初演のさいには、「ダブリンにヘンデルが来る!!!」と町中が大騒ぎになったそうです。
もちろん、初演は大成功を収め、当時の地元新聞は「『メサイア』は音楽史上、最高の作品」とヘンデルを褒め称えました。
その3、グルメで大食漢
音楽家・舞台監督として莫大な富を築いたヘンデル。
そんな彼は、大の美食家で大食漢でもあったそう。
赤ワインをよく飲み🍷、ボルドーがお気に入りだったと伝えられています。
また、美食家が高じて1日に6食も食べることもあったとか・・・。
ロッシーニもびっくりです(いつか解説します)。
食べすぎて大きくなった体を揶揄して、当時の新聞に「豚(ヘンデル)がオルガンを弾いている風刺画」が載ったこともありました。
その4、晩年は視力を失う
1750年、ドイツ訪問中のこと。
乗っていた馬車が横転し、ヘンデルは傷を負ってしまいます。
その後、何事もなくロンドンへ戻りますが、翌年1751年に左目の視力が衰え始め、その年の夏には完全に失明してしまったそうです。
やがて右目の視力も低下し、1752年には両目とも完全に視力を失ってしまいます。
1758年、名医と称されていた眼科医ジョン・テイラーによる手術を受けましたが、回復せず・・・。
バッハも晩年視力を失いますが、バッハの手術を担当したのもジョン・テイラーでした。
その5、慈善活動にも参加
ヘンデルは、ビジネスマンとしても抜群の才能を発揮しました。
この点もバッハと対照的ですが、亡くなったときの銀行残高は1万7500ポンドあったといわれており、その額は現在の日本円で2億〜3億円(6億とも)だったそうです。
これだけの財産を残したヘンデルですが、
彼は決して自分のためだけには使いませんでした。
ロンドンに新設された孤児院を運営するために慈善演奏会を行い、収益を寄付するだけでなく、毎年遺書を書き換え、遺産の相続を計画していたそうです。
遺産の半分は姪のヨハンナに配分されましたが、ドイツの親戚や友人・知人、女中にまで配られたと言われてます。
ヘンデルの生涯のまとめ
今回からヘンデルシリーズを解説します。
バッハと比べると、聴く機会が少ない作曲家かもしれません。
この記事シリーズをきっかけに、ぜひヘンデルの作品も聴いてもらえたら幸いです。
次回はヘンデルの作品の特徴やおすすめ作品を紹介しますので、
ぜひお楽しみに!
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