この記事ではヨハン・シュトラウス2世について紹介します。
クラシック好きの方であれば、新年恒例のウィーンフィルによる「ニューイヤー・コンサート」でお馴染みの作曲ではないでしょうか。
一方で、普段クラシック音楽を聴かない方でも、
一度は耳にしたことがある作品を多く残しています。
ヨハン・シュトラウス2世と聞いても、
その人物像についてイメージが湧かない方も多いことでしょう。
しかしそんな彼を一言で表すなら、まさに「音楽界のスーパースター」。
彼が活躍した当時、超絶的な人気を獲得し、
あまりの忙しさに体調を崩すこともあったようです。
ということで・・・。
長くなりましたが、今回もわかりやすくざっくり解説を心がけますので、
ぜひお気軽に最後までご一読ください。
ヨハン・シュトラウス2世の生涯
作曲家・指揮者として活躍したヨハン・シュトラウス2世は、
ワルツやポルカ、そしてオペレッタの分野で多くの優れた作品を残しました。
作曲家としてもっとも成功した人物は誰か?
と問われれば、間違いなく候補の1人として、ヨハン・シュトラウス2世の名前が挙がることでしょう。
しかし大成功を収めた彼も、順風満帆な人生とはいかなかったようです。
ヨハン・シュトラウス2世の生涯その1:音楽への情熱と父との確執
1825年10月25日、オーストリアのウィーン近郊で生まれたヨハン・シュトラウス2世。
彼の人生は、音楽への深い愛情と、複雑な家族関係に彩られていました。
父ヨハン・シュトラウス1世も著名な作曲家でしたが、
息子に音楽の道を歩んでほしくなかったようで、銀行員になることを進言したと言われています。
これは、自身の経験から音楽家としての生活の厳しさを知っていたため、
息子には安定した人生を送ってほしいという願いがあったのかもしれません。
しかし、若きヨハン・シュトラウス2世の音楽への情熱は燃え盛るばかり。
父親に内緒でヴァイオリンを学び、その才能をひっそりと開花させていきます。
ある日、父親に練習しているところを見つかり、厳しく注意を受けたというのは有名な話ですが、それと同時に、ヨハン・シュトラウス2世の音楽への決意を、より強固なものにした出来事でもありました。
そんなヨハン・シュトラウス2世が安心して音楽に打ち込めるようになったのは、
父親が家族を捨てて愛人と暮らすようになってからのこと。
以降は、対位法や和声を学び、瞬く間に音楽的才能を開花させていきます。
ちなみに、ヨハン・シュトラウス1世は「ワルツの父」と称される人物。
有名な『ラデツキー行進曲』の作曲者です👇
その2:デビューと成功への道のり
1844年10月、ヨハン・シュトラウス2世はウィーン郊外のドメイヤー・カジノでデビューを果たし、早くも批評家たちから絶賛を浴びます。
ある批評家は、ヨハン・シュトラウス2世のデビューについて、
「シュトラウスの名は息子によって立派に継承されるだろう」と絶賛するほどでした。
とはいえ、成功への道のりは平坦なものではありませんでした。
当時、絶大な影響力を持っていた父親により、
多くの施設が若いヨハンと契約を結ぶことを躊躇したのです。
つまり、父親が息子の活躍を妨害したわけですね・・・。
それでも、彼は遠方での演奏依頼を受けることで、徐々に聴衆の心を掴み始めます。
1848年の革命時には、父親とは対照的に革命派に味方し、
「ラ・マルセイエーズ」を公然と演奏したことで逮捕されるという出来事も。
この行動は、単なる政治的態度の表明ではなく、
父親の影響力からの脱却を象徴するものだったかもしれません。
結果として、ヨハン・シュトラウス2世は「宮廷舞踏会音楽監督」の地位を2度も拒否されることになりますが、これがかえって彼の独立性と革新性を際立たせるものとなりました。
その3:ワルツ王としての栄光
父親の死後、ヨハン・シュトラウス2世は両者のオーケストラを合併し、
さらなる飛躍を遂げます。
オーストリア、ポーランド、ドイツを巡演し、
やがてその名声は父親を超えるほどになりました。
1863年には、長年の夢であった「宮廷舞踏会音楽監督」の地位を獲得。
この地位は単なる名誉職以上の意味を持っており、
実質上、ウィーンの音楽界における最高の権威の一つを認められたことを意味します。
1872年にはアメリカを訪問。
ボストンで開催された世界平和祝祭で『美しく青きドナウ』を指揮し、大成功を収めました。1000人以上の演奏者による「モンスター・コンサート」は、
シュトラウスの音楽が持つ普遍的な魅力を証明するには十分すぎるものでした。
しかし、成功の裏には苦悩もあったようです。
1853年には過度の仕事により神経衰弱に陥り、休養を取らざるを得ない状況に陥ります。
兄の代役として、弟のヨーゼフがオーケストラを引き継ぎ、
後に末弟のエドゥアルトも加わって、シュトラウス一族の音楽は更なる発展を遂げていきました。
シュトラウス兄弟の一致団結が、音楽を繋いだわけですね。
その4:波乱の私生活
父の遺伝なのか、ヨハン・シュトラウス2世の私生活も、音楽同様に波乱に満ちたものでした。
1862年に歌手のヘンリエッタ・トレフツと結婚しますが、
彼女の死後わずか6週間で女優のアンゲリカ・ディットリッヒと再婚。
このスピード再婚は、当時の社会的規範からすれば驚くべきことでした。
しかし、この結婚も長く続かず、離婚を求めることに・・・。
ローマ・カトリック教会から婚姻無効の判決を得られなかったヨハン・シュトラウス2世ですが、ここで彼は驚くべき決断をします。
宗教と国籍を変更し、1887年1月にはザクセン=コーブルク=ゴータ公国の市民となり、
同年8月、三番目の妻となるアデーレ・ドイッチと再婚したのです。
アデーレは晩年のヨハンの創造力を引き出し、
『ジプシー男爵』や『皇帝円舞曲』など、多くの名作が生まれるきっかけとなりました。
この時期の作品には、成熟した芸術家としての深い洞察と豊かな感性が表れています。
その5:伝説の終焉(死因について)
ヨハン・シュトラウス2世は生涯、様々な健康問題に悩まされていました。
心気症や恐怖症、気管支カタルなど、その症状は多岐にわたります。
これらの健康問題は、彼の繊細な芸術家としての性質を反映しているのかもしれません。
1899年5月、呼吸器の病気にかかり、それが胸膜肺炎へと発展。
6月3日、73歳でこの世を去りました。
彼の死を悼み、葬儀には10万人もの人々が参列したそうです。
最後まで音楽への情熱を失わなかったヨハン・シュトラウス2世。
死の間際まで、バレエ『シンデレラ』(灰かぶり姫)の作曲に取り組んでいたといいます。
この未完の作品は、彼の尽きることのない創造性を象徴するものと言えるでしょう。
ちなみに、この作品はグスタフ・マーラーからの依頼でした。
彼の死は、一つの時代の終わりを告げるものでした。
シュトラウスは、古典派音楽の伝統とロマン派の革新性を融合させ、
さらにポピュラー音楽の要素も取り入れた独自の音楽スタイルを確立しました。
彼の死は、同時に19世紀ウィーン音楽の黄金時代の終焉を意味していたのかもしれません。
19世紀ウィーンの音楽文化におけるヨハン・シュトラウス2世の位置づけ
ヨハン・シュトラウス2世は、19世紀ウィーンの音楽文化において中心的な存在でした。
ウィーンは、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトといった、
巨匠たちを輩出した「音楽の都」として知られています。
しかし、ヨハン・シュトラウス2世の時代には、
より軽快で大衆的な音楽が求められるようになっていました。
シュトラウスは、この需要に応えつつも、芸術性の高い作品を生み出すことに成功しています。
彼のワルツは、単なる舞踏会の伴奏音楽を超えた芸術作品として認められるようになりました。特に『美しく青きドナウ』は、オーストリアの非公式な国歌とも言われるほどの国民的作品です。
これはある意味で、シュトラウスの音楽が持つ文化的・社会的影響力の大きさを示していると言えるでしょう。
また、シュトラウスといえば、オペレッタの分野における大きな成功も重要です。。
代表作『こうもり』や『ジプシー男爵』といった作品は、
ウィーンの華やかな社交界を背景に、軽妙洒脱なユーモアと洗練された音楽で観客を魅了しました。
シュトラウスの演奏会は、階級の垣根を越えて人々が集う場となり、
ウィーンの社会的結束を強める役割も果たしていたそうです。
そして、現在でもウィーンが「音楽の都」として存在するのは、
ヨハン・シュトラウス2世の功績によるものが大きいのは言うまでもありません。
ヨハン・シュトラウス2世の豆知識や面白いエピソードについて
19世紀における最高のエンターテイナーとして人気を獲得したヨハン・シュトラウス2世。
そんな彼には、芸術家ならでは(?)の面白いエピソードが数多く残されています。
今回はその中から、明日話せるエピソードを4つ紹介します。
ヨハン・シュトラウス2世の豆知識や面白いエピソードその1:「死」に怯え続ける
父シュトラウス1世との確執(かくしつ)に苦しんだヨハン・シュトラウス2世。
それでも、父が亡くなった際には遺体を引き取ることを余儀なくされ、
しぶしぶこれを承諾します。
しかしこの経験が、ヨハン・シュトラウス2世の精神に決定的な打撃を与えることになりました。
父の死を目の当たりにしたシュトラウス2世は、
ショックのあまり、これ以降「死の恐怖」に怯え続けることとなってしまったのです。
この恐怖は凄まじく、
日常生活の中で「死」という文字を見るだけでパニックを起こすほどだったとか。
あまりの恐怖のため、父、母の葬儀だけでなく弟ヨーゼフの葬儀にも参加しなかったそうです。
その2:乗り物が苦手
これは意外にいるんじゃないかなと思いますが、
ヨハン・シュトラウス2世は大の乗り物嫌いで有名でした。
とくに、スピードの出る乗り物が苦手だったようで、
なかでも「鉄道」に対しては病的なまでに嫌悪したと言われています。
演奏旅行などでどうしても乗らなくてはならないときは、
窓のカーテンをすべて閉めて、外の景色が見えないようにしていました。
また、恐怖を紛らわすために、床に座りこみシャンパンを飲み続けたそうですよ。
鉄道が大好きだたったドヴォルザークとはまったくの正反対で、興味深い話ですね。
その3:「ワルツ王」と称されていても、ワルツは踊らない
ヨハン・シュトラウス2世といえばワルツ。
ワルツといえばヨハン・シュトラウス2世。
それほど、優れたワルツ曲を作曲した彼ですが、
なんと、どんなに要求されても本人がワルツを踊ることはありませんでした。
というのも、ヨハン・シュトラウス2世はワルツを踊るのが大の苦手。
作曲はできても、ダンスはさっぱりダメだったそうです。
その4:薄毛が悩みだったけど・・・
ヨハン・シュトラウス2世は、立派な口髭をたくわえながらも薄毛で有名でした。
そんな彼を悩ませたのが、「髪の毛を欲しがるファンからの手紙」。
大スターを少しでも身近に感じたいという、熱狂的なファンたちの無茶振りに、
本人ははうんざりだったそうです。
ある日などは、愛犬のプードルの毛を刈って郵送したこともあったと言います。
ヨハン・シュトラウス2世の生涯まとめ
今回はワルツ王シュトラウス2世について紹介しました。
作品が素晴らしいのはもちろん、本人のエピソードも面白く、
当時から大人気だったことがわかりますね。
次回はワルツやポルカなど、作品について解説します。
そちらも併せてお読みいただくと、ちょっとだけ知識が深まりますよ!