ショスタコーヴィチとはどんな人物?生涯や豆知識、エピソードや死因を簡単にまとめ解説!

ショスタコーヴィッチ

    この記事では、ロシアを代表する作曲家ドミートリィ・ショスタコーヴィチ(以下ショスタコーヴィチ)を紹介します。

    音楽史上において、マーラー以降最大の作曲家と称されるショスタコーヴィチ。
    優れた名曲を数多く残した彼ですが、その人生は決して平坦なものではありませんでした。

    とくに、彼が生まれ育ったソビエトとは、一時期緊張状態にあり、
    命の危険にさらされたこともあったようです。

    そんな波乱の時代を生きた大作曲家ショスタコーヴィチとはどのような人物だったのでしょうか。

    今回もいつも通りのざっくり解説でお届けしますので、
    ぜひ最後までご一読いただければ幸いです。

    なお、この記事は作品紹介とリンクしていますので、
    そちらも併せてお読みいただくと、知識がちょっとだけ深まりますよ!

    画像出典:アマゾン:ショスタコーヴィチ:交響曲第8番

    ショスタコーヴィチの生涯について

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    ハチャトゥリアンやプロコフィエフと共に、ロシア音楽の大きな時代を作りあげたショスタコーヴィチ。

    そんな彼の人生について、時代ごとに簡単に紹介します。

    ショスタコーヴィチの生涯その1、天才の誕生:早熟な才能と音楽への情熱

    1906年、サンクトペテルブルクで生を受けたドミトリー・ショスタコーヴィチは、
    9歳でピアノを始め、周囲も驚くほどの驚異的な進歩を遂げます。
    父はポーランド系ロシア人のエンジニア、母はサンクトペテルブルク音楽院を卒業したピアニストだったので、母の強い影響がショスタコーヴィチに現れたのかもしれません。

    そして1919年、わずか13歳でペトログラード音楽院に入学。
    ピアノをレオニード・ニコライエフとエレナ・ロザノヴァに、
    作曲をマクシミリアン・スタインベルクに、対位法とフーガを友人となったニコライ・ソコロフに学び、その才能をさらに開花させていきます。

    18歳で作曲した『交響曲第1番』は、聴衆を熱狂させるほどの大成功となり。
    ショスタコーヴィチの名は急速に広がり始めます。

    また、ショスタコーヴィチの早熟な才能は、単なる技術的な卓越さだけではありませんでした。
    音楽に対する深い洞察力感性の豊かさも、少年時代から兼ね備えていたようです。

    音楽院卒業後は、ピアニストと作曲家の二足の草鞋で活躍し、
    若くして人気音楽家として成功します。

    参考までにサンクトペテルブルクの位置をご紹介します👇

    ショスタコーヴィチ:交響曲全集

    生涯その2、栄光と苦難:ソビエト体制下での創作活動

    初期の成功にもかかわらず、ショスタコーヴィチの道のりは平坦ではありませんでした。

    1936年、オペラ『ムツェンスクのマクベス夫人』がスターリンの不興を買い、
    厳しい批判にさらされることに・・・。
    その後これを機に、ショスタコーヴィチの音楽と政治との複雑な関係が始まります。

    しかし、逆境にめげず創作を続けたショスタコーヴィチ。
    1937年に発表した『交響曲第5番』で、批判への「創造的な反応」として高く評価されました。この作品は、彼の音楽的才能と政治的な機転の両方を示すものとなったのです。

    ソビエト体制下での創作活動は、ショスタコーヴィチにとって常に綱渡りのような挑戦でした。
    というのも、ショスタコーヴィチの友人や親戚の多くが投獄されたり殺され、
    その中には、1937年6月12日に処刑されたトゥハチェフスキー、義弟のヴシェヴォロド・フレデリクスなどが含まれていたためです。

    「ムツェンスクのマクベス夫人」への批判は創作スタイルに大きな影響を与えたものの、
    それは同時に彼の音楽をより深く、複雑なものにするきっかけにもなったようです。

    『交響曲第5番』は表面的には体制に順応しつつ、
    内に秘めた抵抗の精神を巧みに表現した傑作として、今日でも高く評価されています。

    ちなみに『交響曲第5番』以前のショスタコーヴィチは、
    マーラーに強い影響を受けていましたが、この作品がそんな彼にとっての大きな転換点となりました。

    生涯その3、戦時下の音楽:レニングラード包囲と交響曲第7番

    第二次世界大戦中、ショスタコーヴィチはレニングラード(現サンクトペテルブルク)で市民とともに包囲を経験しました。

    この苦難の中で生まれたのが、有名な『交響曲第7番レニングラード』です。

    この作品は、戦争の苦難と人々の不屈の精神を描いており、
    包囲下のレニングラードで初演された際、演奏者を集めるのに苦労したという逸話は、
    音楽史上でも有名な話です。

    そして『交響曲第7番レニングラード』は、
    単なる音楽作品を超え、戦時下のソビエト国民にとって希望の象徴となりました。

    1941年9月17日に彼が行ったラジオ演説によると、彼は同胞の市民たちに、生活が続くよう誰もが「兵士の義務」を負っていることを示すために、交響曲の作曲を続けたそうです。

    飢餓と絶望の中で生まれたこの曲は、レニングラード市民の勇気と抵抗の精神を世界に伝え、
    包囲下での初演は、音楽が持つ力強さと、人間の精神の強靭さを如実に示す出来事でした。

    戦争の悲惨さを描きつつも、最終的には勝利と再生への希望を歌い上げており、
    この作品は、ショスタコーヴィチの人道主義的な側面を強く印象づける作品となっています。

    24の前奏曲とフーガより スヴィヤトスラフ・リヒテル、タチアーナ・ニコラーエワ、エミール・ギレリス、ドミトリー・ショスタコーヴィチ(5CD)

    生涯その4、政治との綱引き:共産党入党と創作の自由

    1960年、共産党に入党したショスタコーヴィチ。

    この決断は、政治的圧力の結果か、自由意志によるものか、今も議論が分かれています。

    しかし、党員となったことで、これまで以上に大きな影響力を得ることができました。
    1962年の『交響曲第13番「バビ・ヤール」』は、
    ソ連の反ユダヤ主義を批判する内容で物議を醸しました。

    ショスタコーヴィチの共産党入党は、
    彼の人生における最も議論を呼ぶ出来事の一つと言えるでしょう。

    党員となることで、彼はある程度の保護を得る一方、
    より大きな責任も負うことになりました。

    しかし、彼はこの立場を利用して、より大胆な社会批判を音楽に込めることに成功しています。そういう意味において『交響曲第13番「バビ・ヤール」』は、その代表例であり、
    体制内にいながらも真実を語る勇気を持ち続けたショスタコーヴィチの姿勢が現れています。

    晩年と遺産:不屈の精神と音楽への献身(死因について)

    晩年のショスタコーヴィチは、徐々に健康問題に悩まされ始めます。
    というのも、若い頃からヘビースモーカーだった彼は、
    タバコがやめられず、ウォッカも毎晩のように飲んでいたそうです。

    そのため、1971年までに三度の心臓発作を起こし
    何度かの転倒によって両足も骨折する事態に・・・。
    さらには運動ニューロン疾患(ALS)の症状や神経疾患にも苦しめられたと言います。

    こうした健康状態にも関わらず創作活動を続けたショスタコーヴィチですが、
    1975年、肺がんにより68歳でこの世を去りました。

    ショスタコーヴィチの晩年は、肉体的な苦痛との闘いの日々だったのかもしれません。
    しかし、彼はこの苦難を創造の源泉に変え、より深遠で内省的な作品を生み出すことに成功しています。

    最後の作品となった『ヴィオラ・ソナタ』は、
    生涯をかけて追求してきた音楽表現の集大成であり、
    死後およそ2ヶ月後の1975年10月に初演が行われました。

    ショスタコービッチ ピアノ作品集

    ショスタコーヴィチの豆知識やエピソードについて

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    天才少年として人生の早くから注目を集め、
    20世紀最大の作曲家と称されるまでに成長したショスタコーヴィチ。
    そんな彼にはさまざまなエピソードが残されています。

    今回はその中から、明日話せる豆知識やエピソードを3つ見てみましょう。

    ショスタコーヴィチの豆知識やエピソード1、第1回ショパンコンクールに出演したけど・・・

    作曲の才能もさることながら、ピアニストとしての腕前も一流だったショスタコーヴィチ。

    そんな彼は、1927年に開催が始まった第1回ショパンコンクールにソビエト代表として出場しています。

    ところが、コンクール当日に盲腸が発症し、
    痛みのため本来の力が発揮できなかったそうです。

    結果は、一緒に参加したソビエトのピアニスト、オポーリンが優勝。
    ショスタコーヴィチは審査員特別賞にとどまり、
    ショックの内にコンクールは幕を閉じました。

    豆知識やエピソード2、ソビエト共産党機関紙で批判される

    ショスタコーヴィチが発表したオペラ『『ムツェンスクのマクベス夫人』は、
    聴衆から高い支持を獲得し爆発的な人気を獲得しました。

    しかし、この事態を心良く想わなかったのが、
    時の権力者スターリン。

    スターリンの機嫌を損ねたショスタコーヴィチのオペラは、
    ソヴィエト共産党の機関紙「プラウダ」上で名指しで批判され、
    『交響曲第4番』の初演を断念せざるを得ない状況にまで追い込まれます。

    一般に「プラウダ批判」と呼ばれるこの批判は、
    ショスタコーヴィチにとって大きな転機となり、
    以降は「社会主義リアリズム」に沿った作品を発表することとなります。

    社会主義リアリズム・・・ソビエトの社会主義を称賛し、勝利に向かっているような作品のこと(ざっくりとです)。

    5つの小品/シコルスキ社/2本以上のバイオリンとピアノ 

    豆知識やエピソード3、一転して共産党から称賛される

    これまたソビエトとの関係から。
    1948年当時、作曲家に限らず芸術家の多くが共産党により批判され、
    中には命を落とすケースも少なくありませんでした。

    これは芸術に対する信条の統制とも言える批判で、
    政策を推し進めたアンドレイ・ジダーノフにちなみ「ジダーノフ批判」と呼ばれています。

    ショスタコーヴィチも当局の目に怯えながら作曲活動を続けましたが、
    彼は『森の歌』『ベルリン陥落』といった当局におもねる作品を次々と作曲。

    これにより、ソビエト共産党から大きな支持を獲得するにいたります。

    しかしこうした態度は、ある種のカモフラージュだったよう。
    スターリンの死後、検閲が緩くなる頃合いをみて『ヴァイオリン協奏曲』『弦楽四重奏曲第4番』『交響曲第10番』などを発表し、大きな論争を巻き起こしました。

    ショスタコーヴィチと関係の深い作曲家たち

    同時代に活躍した他のロシア(ソビエト)人作曲家についても紹介します。
    なかでも、プロコフィエフとハチャトゥリアンは、
    同じ批判の矢面に立たされた人物として有名です。

    彼らの生涯については、以下の記事で紹介していますので、
    そちらもぜひ参考にしてください。

    プロコフィエフCD
    ハチャトゥリアン

    ショスタコーヴィチの生涯まとめ

    今回はショスタコーヴィチの生涯についてざっくりと紹介しました。
    もっと詳細な内容にしようかと迷いましたが、
    入り口として知っていただくために、おおまかな流れのみにしています。

    次回は、作品の特等や代表曲を紹介しますので、
    そちらも楽しんでいただければ幸いです。

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