今回は17世紀のフランスで絶大な人気を獲得した作曲家ジャン=バティスト・リュリの生涯を解説します。
1632年11月28日にイタリアのフィレンツェで生まれ、1687年3月22日にパリで没したリュリは、作曲家、ヴァイオリニスト、そして宮廷音楽家として、フランス・バロック音楽の発展に多大な影響を与えました。
正規の音楽教育を受けなかったリュリが、いかにして時代の寵児となったのか、
彼の成り上がり人生について見てみましょう。
もちろん、いつもながらのざっくり解説なので、
ぜひ気軽に最後まで読んでみてください!
ジャン=バティスト・リュリの生涯
バロック時代に一世を風靡したリュリはどのような生涯を送ったのでしょうか。
ルイ14世の寵愛(ちょうあい)のもと、絶大な人気を獲得したリュリですが、
以外にも、少年時代は貧しい生活を余儀なくされたようです。
リュリの生涯その1:貧しい製粉業者の子から宮廷音楽家へ
ジャン=バティスト・リュリは、製粉業者の父ロレンツォと母カテリーナの子として、
1632年、当時のトスカーナ大公国(フィレンツェ)に生まれました。
幼少期は決して恵まれた環境ではなく、兄のヴェルジニオ(1638年没)と姉のマルゲリータ(1639年没)を早くに亡くすという悲劇的な出来事も経験しています。
そんなリュリでしたが、卓越した音楽の才能に恵まれ、
正規の音楽教育は受けていませんでしたが、独学でギターやヴァイオリンの演奏を習得。
次第に周囲から注目を集め、1645年頃、運命の出会いが訪れます。
ロジェ・ド・ロレーヌ(ギーズ・シュヴァリエ)に才能を見出され、
翌1646年にフランスへ渡ることになりました。
そして、14歳でモンパンシエ公爵夫人として知られるアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンのもとで働き始め、ここで本格的な音楽の修練を積んでいきます。
リュリの生涯その2:ルイ14世との運命的な出会いと権力の獲得
その後、1652年末から1653年初頭にかけての『王の夜のバレ』(Ballet royal de la Nuit)での出演が、リュリの人生を大きく変えることになります。
この公演でリュリの才能に魅了されたルイ14世は、彼を国王付き器楽曲作曲家に任命。
「フランス王の24のヴィオロン」という宮廷の弦楽合奏団にも参加し、踊り手としても王と同じ舞台に立つようになっていきました。
また、この時期からリュリの政治的手腕が開花し、
特に宮廷での立ち回りに見事に発揮されました。
彼は太陽王ルイ14世の好みを巧みに理解し、
王の権威を象徴する音楽作品を次々と生み出していきます。
例えば、宇宙の中心で輝く太陽が惑星に取り囲まれる寓意的なバレエを作曲し、
ルイ14世自身を太陽に見立てた作品で王の歓心を買いました(世渡り上手・・・)
1661年にフランス帰化後、翌1662年には有力な音楽家ミシェル・ランベールの娘マドレーヌと戦略的な結婚を成立させます。
この婚姻関係により、彼は音楽界での影響力をさらに強固なものとしていったのです。
ちなみにリュリは6人の子供に恵まれました
- カトリーヌ=マドレーヌ(1663-1703)
- ルイ(1664-1734)
- ジャン=バティスト2世(1665-1743)
- アンヌ=ガブリエル・ヒレール(1666-1748)
- ジャン=ルイ(1667-1688)
- ルイーズ=マリー(1668-1715)
リュリの生涯その3:モリエールとの協働と確執:芸術家としての転換期
1664年以降、リュリは劇作家モリエールと密接な協力関係を築き、
数々の傑作を生み出していきます。
いくつか紹介してみましょう。
- 1665年:『恋する医者』
- 1667年:『田園歌劇』
- 1668年:『ジョルジュ・ダンダン』
- 1669年:『プルソーニャック殿』
- 1670年:『町人貴族』
黄金時代を築いたリュリとモリエール。
しかし、1670年頃からパレ・ロワイヤルでの興行収入の未払い問題などを巡って、
両者の関係は徐々に悪化していくことに・・・。
特に、リュリが当初は可能性を見出していなかったフランス語オペラが、
ピエール・ペランとロベール・カンベールによって成功を収めると、
彼はオペラというジャンルに本格的に目を向けるようになりました。
リュリの生涯その4:オペラ界の独占者として:栄光と権力の絶頂期
その後1672年、リュリはペランから王立音楽アカデミー(オペラ座)の上演権を買い取り、
フランスのオペラ界における独占的な地位を確立。
この過程で彼が見せた政治的手腕は特筆に値します。
彼は「リュリ伯爵の書面による許可なく、フランス国内において、フランス語の詩であれ、その他の言語であれ、いかなる曲も上演することを禁じ、罰金1万リーヴル、劇場、機械、装飾品、衣服の没収を科す」という特許状を取得することに成功。
さらに1672年4月の法令により、パリの音楽アンサンブルの音楽家の数を制限させ、
実質的にフランス音楽界の独占的支配者となりました。
この権力を背景に、リュリは同時代の才能ある音楽家たちの活動を制限し、
自身の地位を磐石なものとしていきます。
彼は辣腕の実業家としても頭角を現し、1681年には国王の秘書官という重要な地位も獲得。
世襲貴族としての身分も手に入れ、その権勢は頂点に達しました。
製粉業者の息子がついに成り上がったわけですね。
自宅もパリの一等地に豪邸を構えると、同時代の作曲家たち(マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ、アンドレ・カンプラなど)を圧倒する存在となり、1681年には国王の秘書官という地位も得て、その権勢は頂点に達しました。
また爵位も与えられ「ド・リュリ閣下」と名乗るようになります。
リュリの生涯その5:悲劇的な最期と残された遺産
しかし1685年、王の小姓(こしょう)※ブリュネとのスキャンダルが発覚。
ルイ14世からの信頼を失い、1686年の『アルミード』の公演には国王の姿はなく、
同年の『アシスとガラテ』が事実上の最後の作品となりました。
1687年1月8日、国王の回復を祝うテ・デウムのリハーサル中、指揮棒で足を負傷。その傷は化膿し、当時の医師たちは足の切断を提案しましたが、ダンサーでもあった彼はこれを拒否。その結果、1687年3月22日、54歳という若さでこの世を去りました。
リュリの音楽は、ヘンリー・パーセル、フリードリヒ・ヘンデル、ヨハン・セバスティアン・バッハ、ジャン=フィリップ・ラモーといった後世の作曲家たちに大きな影響を与え、その革新的な音楽形式は、フランス・バロック音楽の礎となっています。
※小姓(こしょう)・・・身分の高い人に仕える少年のこと
ジャン=バティスト・リュリの豆知識やエピソードについて
ここまで、リュリの生涯についてざっくりと紹介してきました。
不遇だった幼少期。
しかし、さまざまな才覚を生かし、頂点に上り詰めた様子がお分かりいただけたと思います。
最後はスキャンダルでおわりますが・・・。
そんな波乱万丈の人生を送ったリュリのエピソードをいくつか紹介します。
リュリの豆知識やエピソード1:若き日の転落
音楽の才能を開花させていったリュリ。
しかし、その性格の一面が若くして彼を苦境に追い込むことになります。グランド・マドモワゼルのもとで正式な音楽教育を受け、著名な音楽家ニコラ・メトリュからも指導を受けるという恵まれた環境にありながら、皮肉な詩を書いて恩人を侮辱。
その結果、解雇という厳しい処分を受けることになりました。
若気の至りとはいえ、かなり奔放な性格だったようです。
豆知識やエピソード2:オーケストラへの新たな挑戦
バレ(バレエ)や抒情悲劇の分野で多大な貢献を果たしたリュリ。
そんなリュリの音楽家としての真価は、その革新的なアプローチにも表れています。
彼は管弦楽の世界に新しい風を吹き込み、従来にない楽器の導入を積極的に行いました。
特筆すべきは、弦楽器における弱音器の使用を楽譜に明記した最初期の作曲家とされていることです。
また、「フランス風序曲」という新しい音楽形式を確立。
2拍子の荘厳な行進曲調で始まり、3拍子の対位法的な主部へと展開するこの様式は、
後世に大きな影響を与えることになりました。
豆知識やエピソード3:音楽界の支配者としての暗部
1673年、モリエールの死後、リュリは音楽界での独占的な地位を確立していきます。
パレ・ロワイヤルの使用権を手に入れた彼は、他の劇団に対して厳しい制限を課しました。
踊り手の出演禁止や、人声とヴァイオリンの使用制限など、
その強権的な手法は多くの反発を招き、時には暴力的な報復にも遭遇したと言われています。
それだけ傍若無人ってことだったのかもしれません・・・。
豆知識やエピソード4:寵臣から転落へ
栄光の絶頂期にあった1685年、リュリの私生活が彼の地位を揺るがすことになります。
かねてから両性愛者として知られていた彼でしたが、ついに王の小姓ブリュネとの関係が発覚。時を同じくして宗教的道徳を重視するようになっていたルイ14世の不興を買い、
1686年の『アルミード』は宮廷での上演が叶わず、パレ・ロワイヤルからの退去も余儀なくされました。
王太子からの支持は継続したものの、かつての輝かしい地位を取り戻すことはできませんでした。
リュリの死因:劇的な最期
リュリの最期もまた、彼の人生同様に劇的なものだったと言えるでしょう。
指揮棒として使用していた長く重い杖で誤って足を強打したことがきっかけで、
傷口に膿瘍ができ、壊疽(えそ)にまで発展。
1687年3月22日、『アシールとポリュクセーヌ』を未完成のまま残して、この世を去りました。臨終の際に「いざ死すべし、なんじ罪びとよ」という言葉を残したとされる逸話は、
その最期まで芸術家としての矜持を失わなかった彼の人生を象徴するものとして、
後世に語り継がれています。
「指揮棒が足に刺さって死んだ」って不思議ですよね。指揮棒というと、細長い棒を思い浮かべる人が多いと思います。 こんなヤツ👇👇👇
しかし、17世紀の指揮棒は、床に叩きつけながらリズムをとるのに指揮杖が用いられることもあり、リュリはこれを足に打ちつけたとされています。コレは怪我しますね・・・。
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リュリの生涯:まとめ
ということで、少し長くなりましたがフランス・バロックの巨匠ジャン=バティスト・リュリの生涯を紹介しました。
この記事を通じて、少しでも作曲家、そしてクラシック音楽に関心を持っていただければ幸いです。
次回はリュリの作品の特徴や作品について解説します。
そちらも併せてお読みいただくと、より理解が深まりますので、どうぞお楽しみに!