エドワード・エルガーとはどんな人物?その生涯や豆知識、エピソードや死因を簡単に解説!

エルガー

    この記事では、イギリスをもっとも代表する作曲家エドワード・エルガーを紹介します。
    エルガーの代表作といえば、なんといっても『威風堂々』と『愛の挨拶』

    「エルガーって誰?」という方でも、
    間違いなく一度は聴いたことのある作品だと思います。
    とくに『威風堂々』は、イギリス最大の音楽フェス「BBCプロムス」の定番曲であり、
    イギリス第二の国歌とも称されているほどの作品です。

    そんなエドワード・エルガーはどのような人生を歩んだのでしょうか。
    今回もいつもながらの超ざっくり解説なので、
    最後まで気楽にご一読いただき、少しでも関心を持っていただければ幸いです。

    また、同じイギリス人のホルストの記事も併せてお読みいただくと、
    より知識の幅が広がりますよ!

    画像出典:アマゾン:エルガー:エニグマ変奏曲、行進曲《威風堂々》(SHM-CD)

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    エドワード・エルガーの生涯

    big-ben

    19世紀半ばのイギリスに生まれ、やがて世界的作曲家として活躍したエドワード・エルガー。
    彼の音楽的才能の源泉は幼少期の暮らしにあったようです。
    以下ではその生涯を順を追って解説します。

    エドワード・エルガーの生涯その①、音楽に囲まれた幼少期

    エドワード・エルガーは1857年6月2日、イングランドのウスター州近郊の街ロウアー・ブロードヒースに7人兄弟の4番目の子として生まれました。

    ちなみに、ウスター州は「ウスターソース」発祥の地として有名ですね。

    父ウィリアムはピアノ調律師をしながら楽器商を営む商人、
    母アンは農家の出身でした。

    兄弟7人はそれぞれ幼少期から音楽教育を施され、
    エルガーも8歳のときにはピアノとヴァイオリンの手ほどきを受けていたそうです。
    兄弟の中でもとりわけ音楽の才能に恵まれたエルガーは、
    父に連れられ、地元の有力者のもとでたびたび演奏する機会にも恵まれました。

    また、母もエルガーの音楽的才能を認め、
    彼が音楽の道に進むことを後押ししたと言います。
    エルガーの作品には、文学的要素が取り入れられているのも、
    母による影響と考えられています。

    エルガーは10歳にして兄弟劇に付属する作曲も開始しており、
    のちに組曲『子供の魔法の杖』として発表しました。

    エルガーの生涯その②、本格的に作曲家の道へ

    音楽的環境や才能に恵まれたエルガー。
    やがて彼は、音楽の聖地とも言えるライプツィヒ音楽院へ入学のために、
    本格的に音楽の勉強を開始します。

    その当時のエルガーは、オルガンの教科書を使って作曲や理論を独学で学び
    ありとあらゆる音楽理論に関する書物を読み漁ったそうです。

    ライプチッヒ音楽院入学のため、音楽とドイツ語の勉強に励んだエルガー。
    しかし、ドイツへ留学する費用や学費を捻出できず、
    なくなく留学を断念することに・・・。

    そして1872年、学校を卒業したエルガーは、音楽とは無縁の弁護士事務所の事務員として働くことになります。
    ところが、当然仕事はエルガーの性分に合わず、
    自身の進路や将来について悶々といした日々を過ごしたと言います。

    そんな時に、エルガーに多大な影響を与えたのが、
    ドヴォルザーク自身が指揮する『交響曲第6番』の演奏に参加したことでした。

    また1880年には、自身初となる海外旅行でパリを、1882年には念願のライプツィヒを訪れたエルガー。当時の一流の音楽に触れたエルガーは、本格的に音楽の道で生きていくことを志ます。

    ちなみに、パリではサン=サーンスのオルガン演奏を直接耳にしており、
    エルガーは大きな感動を受けたそうですよ。

    ドヴォルザーク

    エルガーの生涯その③、作曲家として名声を獲得する

    作曲家、オーケストラ・メンバーとして活動していたエルガーにとって、
    1890年代は大きな転換期となった時代でした。

    この頃から徐々に作曲の依頼が増え始め、
    カンタータ『黒騎士』(1892年)を皮切りに、『オラフ王の伝説からの情景』(1896年)
    やスリー・クワイアーズ音楽祭の委嘱による『生命の光』(1896年)、『カラクタクス』(1898年)を作曲。

    いずれもエルガーの名を世に広めるのに十分な成功を収め、
    エルガーの名声が少しずつ高まり始めます。
    また、代表作『弦楽セレナード』(1892年)や『3つのバイエルン舞曲』(1897年)が生まれたのもこの時期で、1899年に発表した『エニグマ変奏曲』(正式タイトルは「創作主題による変奏曲」)で不動の地位を得るに至ったのでした。

    『エニグマ変奏曲』はイギリスだけでなく、ドイツやイタリアでも好評となり、
    エルガーの名はヨーロッパでも広がりを見せ始めます。

    この頃のエルガーは、とりわけリヒャルト・シュトラウスの管弦楽法に影響を受けているとされ、そうしたこともドイツやイタリアで人気となった要因かもしれません。

    リヒャルト・シュトラウス
    エルガー:ピアノ曲集 (全音ピアノライブラリー)

    エルガーの生涯その④、『威風堂々』の誕生

    そして1901年、エルガーの地位を世界的なものとした作品が生まれます。
    それこそが5曲からなる『威風堂々』です。1901年から1930年にかけて5曲が作曲され、なかでも『威風堂々第1番』は空前の大ヒットとなりました。

    作品紹介は別記事で紹介していますが、
    「どんな曲?」という方のために、コチラ👇です。

    この作品の主題を思いついたとき、
    エルガーは友人に「皆を打つ – 打ちのめす旋律を思いついたんだ」と述べたと言われています。プロムナード・コンサートで初演された際には、聴衆が立ち上がり収拾もつかない程の大盛況だったそうです。

    また、後にも先にも同コンサートで2度のアンコールが行われたのは、
    本作だけとのことです。

    『威風堂々』の空前の成功により、作曲家としての地位を不動のものとしたエルガー。
    その後も意欲的に作曲活動が続けられ、次々とイギリス音楽史にとって重要な作品を発表します。まとめるとこんな感じです👇

    ・オラトリオ『使徒たち』(1903年)
    ・オラトリオ『神の国』(1906年)
    ・交響曲第1番(1908年)
    ・ヴァイオリン協奏曲(1910年)
    ・交響曲第2番(1911年)
    ・『フォルスタッフ』(1913年)
    ・チェロ協奏曲(1919年)

    また、1904年にはイギリス王室からナイトの称号を授与されたエルガー。
    50歳を前にして人生の絶頂期となったのもこの頃でした。

    エルガーの生涯その⑤、衰えぬ作曲意欲、そして晩年

    イギリスの作曲家として世界的地位を確立したエルガー。
    第1次世界大戦中も意欲的に作曲をつづけ、作品を発表し続けます。

    晩年の代表作としては以下のものが挙げられます。

    ・劇付随音楽『スターライト・エクスプレス』(1915年)
    ・バレエ音楽『真紅の扇』(1917年)
    ・ヴァイオリンソナタ(1918〜1919年)
    ・ピアノ五重奏曲(1919年)
    ・弦楽四重奏曲(1918年)

    その後1920年、妻アリスの死に落胆したエルガー。
    これにより作曲意欲が失われたものの、1923年から再び作曲活動を再開し、
    劇音楽や、『セヴァーン川組曲』組曲『子供部屋』などを手掛けます。

    しかし、徐々に健康状態を損ね始めていたエルガーは、
    交響曲第3番やピアノ協奏曲、歌劇『スペインの貴婦人』などを手掛けるものの、
    いずれも未完成のまま、1934年にこの世を去りました。

    エルガーの死因は、手術中に発見された大腸がんでした。

    未完となった『交響曲第3番』と歌劇『スペインの貴婦人』はのちに補筆され、
    アンソニーペインによる『交響曲第3番』は「ペイン推敲版」として知られることになります。

    晩年のエルガー

    引用:wikipedia:エドワード・エルガー

    クラシック作曲家列伝 バッハからラヴェルまで12人の天才たちの愉快な素顔

    エドワード・エルガーの豆知識やエピソードについて

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    誰からも尊敬の念を集めたエルガー。
    そんな彼には多くのエピソードが残されています。
    今回はその中から簡単に4つの豆知識・エピソードを見てみましょう。

    エドワード・エルガーの豆知識・エピソードその①、エルガーの名がついた通りが60以上ある

    イギリスの音楽史上、エルガーはもっとも優れた功績を残したといっても過言ではないでしょう。そんなエルガーの業績を称え、イギリス国内外のあちこちにエルガーの名前にちなんだ通りがあるとのこと。その数なんと約65

    エルガーの生まれ故郷近くのウスターシャーや移り住んだヘレフォード、
    アメリカのバージニア州のノース・スプリングフィールド、さらにはオーストラリアのメルボルンにもあるとのこと。

    エルガーがいかに世界中で受け入れられていたかがわかるエピソードです。

    豆知識・エピソードその②、大の競馬好き

    妻アリスの死後、生きる気力を半ば失ったエルガー。
    しかし、数年後にはなんとか持ち直し再び作曲活動を再開します。

    そんな彼が晩年にハマったのが競馬でした。
    ある時、ヴァイオリニストであるメニューインのリハーサルを見届けたエルガーは、
    「すべて良し」とだけ言い残し、すぐさまその足で競馬場に向かうこともあったのだとか。

    豆知識・エピソードその③、化学の研究も趣味だった

    これもアリスを失ってからの話。
    途方にくれたエルガーは、ついに作曲から遠ざかり「余暇をいかに過ごすか」を探求し始めます。

    そんな中で彼が見出したのが「化学の実験」だったとのこと。
    そんな大掛かりな研究ではなかったでしょうが、自宅の裏庭に実験室まで作り、
    熱心に研究?していたそうです。

    何を研究していたかまでは定かではありませんが、
    きっとアリスを失った悲しみを紛らわすのに必死だったのかもしれませんね。

    豆知識・エピソードその④、蓄音機を本格的に導入した

    エルガーが生きた時代は、まさに録音技術の転換期。
    エジソンが蓄音機を発明し、ブラームスによる最初の録音が行われてまもない時期でした。

    そして瞬く間に技術は発展し、1926年以降エルガーは録音技術を積極的に取り入れるようになります。電気式のマイクが登場すると、エルガーはこの技術を最大限に活用し、自作自演の演奏を次々と録音し始めたのでした(現在でも聴くことができます)。

    この点において、エルガーは当時最先端の技術を活用した最初の作曲家と称されており、「物好きな」エルガーの性格がよく現れているエピソードではないでしょうか。

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    エドワード・エルガーの生涯まとめ

    ということで、エルガーの生涯について簡単に紹介しました。
    とはいえ、「誰それ?」という感じはまだあると思いますので、
    別記事「代表作おすすめ」も併せてお読みください!

    イギリスの作曲家って、やはりドイツやフランス、イタリアとは異なる魅力のある作曲家が多いですね。

    なので、もう少しイギリスの作曲家について今後紹介できたらと考えています。

    エルガーの代表作についてはコチラの記事を参考にしてください!👇

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