この記事ではイタリアを代表する作曲家レスピーギについて解説しています。
レスピーギの代表作といえば『ローマ3部作』がよく知られていますが、
一方で、彼がどのような人生を歩んだかについては、
よく知らない方も多いのではないでしょうか。
そこで本記事では、レスピーギの豆知識やエピソードを交えながら、
彼の生涯を紹介します。
もちろん、いつものようにざっくり解説なので、
ぜひ気軽に最後までご一読いただければ幸いです。
レスピーギの生涯について
多くの名作を残したレスピーギは、どのような人生を歩んだのでしょうか。
彼の成功の影には、偉大な作曲家や指揮者との出会いがあったようです。
以下では、彼の生涯を年代順にみてみましょう。
レスピーギの生い立ち:音楽の名門に生まれた天才作曲家
1879年7月9日、レスピーギはイタリアのボローニャ、
グイド・レーニ通り8番地で生まれました。
父ジュゼッペは郵便局員でありながら優れたピアニストで、
ボローニャ・フィラルモニカ音楽院で教鞭を取っていたといいます。
また、母エルシリアは著名な彫刻家の家系の出身で、
音楽と芸術に囲まれた環境で育ちました。
芸術家一家に生まれたレスピーギですが、
意外にも8歳になるまで音楽にほとんど興味を示しさなかったそうです。
しかし、父からピアノとヴァイオリンの基礎を学び始めると、
その才能は驚くべき速さで開花していきます。
特筆すべきは、シューマンの交響的習作を暗譜で演奏できるほどの才能を見せ、
ハープを数日で独学で習得するなど、類まれな音楽的才能を持っていたことです。
レスピーギの音楽教育:ボローニャでの修業時代と才能の開花
1890年、レスピーギは本格的に音楽院で学び始め、
翌年にはボローニャ音楽院に入学します。
ここでヴァイオリン、ヴィオラ、オルガン、対位法、フーガなどを学び、
特に作曲家ジュゼッペ・マルトゥッチの指導は、
彼の音楽人生に大きな影響を与えました。
1899年、パガニーニの『Le Streghe』を演奏してヴァイオリン演奏のディプロマを取得し、
ボローニャ・コムナーレ劇場のオーケストラに加入。
さらに1900年には、
サンクトペテルブルクのロシア帝国劇場で首席ヴィオラ奏者として活躍します。
この時期、後の作風に大きな影響を与えることになる、
作曲家ニコライ・リムスキー=コルサコフと出会い、
5ヶ月にわたって指導を受けました。
レスピーギの代表作:「ローマの噴水」から始まる世界的評価
1913年、レスピーギはローマのサンタ・チェチーリア音楽院の作曲科教授として着任します。
また、彼の人生に大きな転機が訪れたのもこの時期でした。
音楽院の生徒だった14歳年下のエルザ・オリヴィエーリ=サンジャコモと1919年に結婚。
生涯の伴侶を得ました。
1917年3月、彼の最初の大規模な管弦楽曲『ローマの噴水』が、
ローマのアウグステオ劇場で初演されます。
初演時の反応は控えめでしたが、
1918年にアルトゥーロ・トスカニーニの指揮でミラノで演奏されると大成功を収め、
これを機にレスピーギの名声は一気に高まっていきました。
レスピーギの晩年:世界的な名声と数々の功績
1924年に完成した交響詩「ローマの松」は、レスピーギの代表作となり、
世界中で演奏されるようになります。
1920年代半ばからは、自作を指揮したり、ピアノ演奏したりしながら、
世界各地でコンサートツアーを行いました。
1932年には、ファシスト政府からイタリア王立アカデミーの会員資格を与えられ、
その音楽的功績が公に認められます。
しかし、1933年以降は新曲を完成させることはありませんでした。
死因:病との闘いと永眠
1935年末、オペラ『ルクレツィア』の作曲中に発熱と疲労で体調を崩し、
亜急性細菌性心内膜炎と診断されます。
4ヶ月にわたる闘病の末、1936年4月18日、
56歳という若さでローマにて永眠しました。
彼の遺体は1937年の春までサンタ・マリア・デル・ポポロに安置され、
多くの音楽家や市民が彼の死を悼みました。
レスピーギは、古典的な様式と近代的な手法を見事に融合させ、
20世紀のイタリア音楽に大きな足跡を残した作曲家として音楽史に名を刻んでいます。
レスピーギのエピソードや豆知識について
ここまで、レスピーギの生涯についてざっくりと解説してきました。
現在でも高い人気を誇る『ローマの噴水』の初演が、それほど芳しくなかったのは、
意外かもしれません。
しかしその後、指揮者トスカニーニの後押しもあり、
レスピーギは世界的作曲家として認知されるようになりました。
以下では、レスピーギについてのエピソードや豆知識を紹介します。
エピソードや豆知識1:エルザが守り続けたレスピーギの遺志と遺産
オットリーノ・レスピーギの死後、60年近く彼の遺志を守り続けたた妻エルザ。
彼女はレスピーギの音楽を後世に伝えるために尽力し、
その情熱は彼の死から数ヵ月後に友人グアスタッラに宛てた手紙にも表れています。
彼女は「私が生きているのは、彼のためにまだ何かできることがあるからです。そして、死ぬその日まで、私はそれを確実に実行する」と書き記しました。
しかし、当時のイタリア政府は民族主義的な作曲家と距離を置く姿勢を示し、
彼女が受けた栄誉に対して一部の新聞が批判的な意見を掲載するなど、
困難な状況も少なくありませんでした。
レスピーギ夫妻の強い絆がわかるエピソードですね。
エピソードや豆知識2:レスピーギの未発表作品の寄贈と財団設立
そんな妻エルザは、夫の作品を広めるために数々の行動をとっています。
1961年には、レスピーギの未発表で未完成の手稿集をリチェオ・ムジカーレに寄贈。
また、1969年にはヴェネツィアのチーニ財団に「フォンド・オットリーノ・レスピーギ財団」を設立。
これに伴い、大量の手紙や写真を寄贈し、
レスピーギの遺産保存と研究の拠点を築き上げました。
このようなエルザの尽力により、
レスピーギの作品とその価値が現代も評価されているのは、
ひとえに妻エルザの行動力のおかげかもしれません。
エピソードや豆知識3:作曲家としての飛躍:トスカニーニと『ローマの噴水』
レスピーギは1917年、交響詩『ローマの噴水』をローマで初演しましたが、
大きな成功には至らず、自信を喪失してしまいます。
しかし翌1918年、アルトゥーロ・トスカニーニがミラノで同作品を再演したことで状況は一変。
この公演は大成功を収め、レスピーギにとって作曲家としての大きな飛躍となりました。
この出来事をきっかけに、彼は国際的な注目を集め、
後に続く『ローマの松』や『ローマの祭り』といった傑作の礎が築かれました。
才能豊かなレスピーギですが、周囲の人々のにも恵まれたていたようです。
エピソードや豆知識4:ローマでの新生活とキャリアの転機
レスピーギの音楽家としての人生は、必ずしも平坦なものではありませんでした。
ボローニャ高等音楽学校で定職を得ようとするも叶わず、
1913年にようやくサンタ・チェチーリア国立アカデミアの作曲科教授に就任します。
そしてこの転機により、彼はローマに移住し、
以後その地で最晩年まで生活することになります。
この新生活は、彼の創作活動において重要な土台を築くこととなり、
『ローマ三部作』をはじめとする名作を生み出すこととなったのでした。
レスピーギの生涯:まとめ
ということで、今回はイタリアの作曲家レスピーギについてざっくりと解説しました。
年代順に見ていくと、彼は大器晩成型の作曲家だったことがわかりますね。
また、成功の影には妻や師匠、そしてトスカニーニの影響が大きかったようです。
代表作『ローマ3部作』は、クラシック史に残る名曲ですので、
この記事をきっかけに、ぜひ聴いてみてはいかがでしょうか。
次回はレスピーギの代表曲や作品の特徴について解説しますので、
そちらもご一読くだされば幸いです。