今回もフランスの作曲家の紹介です。
皆さんはエリック・サティという名前を聞いたことがありますか?。
エリック・サティは19世紀後半から20世紀初頭に活躍したフランスの作曲家です。
サティが活躍した時代は、ロマン主義や印象派が流行していた時代でしたが、その中にあってサティは音楽様式に新たな旋風を巻き起こしました。
「変わり者」「異端者」と言われたサティとはどのような人生を歩んだのでしょうか。
今回のシリーズではエリック・サティについて紹介します。前回のサン=サーンスの記事はこちら↓
エリック・サティの生涯について
エリック・サティはどのような生涯を送ったのでしょうか。その生涯を見てみると、興味深い人物だということがわかりました。
エリック・サティの生涯1、生から青年時代まで
エリック・サティは1866年、フランス、ノルマンディー地方の港町オンフルールに生まれました。
オンフルールは観光地しても人気があり、印象派の画家達がスケッチに訪れるほどの美しい街であり、画家ウジェーヌ・ブータンが生まれた街としても知られています。
幼くして母親を失ったサティはオンフルールとパリを行き来する生活を送り、
カトリックの洗礼を受けたことをきっかけに、オルガンに興味を持ちます。
幼少の頃から音楽に惹かれたサティは、
オルガンを聴くために熱心に教会に通っていたそうです。
そしてサティが8歳の時、本格的にオルガンを習い始めます。
やがてサティが12歳の頃、敬愛していた祖母が亡くなり、
サティはパリに滞在していた父の元で生活を開始します。
エリック・サティの生涯2、パリ音楽院に入学
音楽への関心が高まる中、サティは13歳という若さでパリ高等音楽院に入学しました。
幼い頃から非凡な音楽的才能を発揮。
パリ音楽院では作曲やピアノを習いましたが、
「授業が退屈だ」という理由で音楽院を退学します。
この辺から、サティの「変わり者」っぷりが徐々に開花し始め、
学校から問題視されていたサティは「パリ音楽院でもっとも怠惰な学生」という烙印が押されるほどでした。
もしかしたら、伝統的な音楽の授業がサティの肌に合わなかったのかもしれません。
それを象徴するかのように、のちのサティは伝統を超越した新しい音楽的手法に取り組みます。
エリック・サティの生涯3、音楽家の道を歩み出す
パリ高等音楽院を退学したサティは、生活のためにモンマルトルのカフェ「黒猫」(日本語だとシャ・ノアールですね)ピアニスト・作曲家として活動を始めます。
そしてこの頃、フランシス・プーランクやクロード・ドビュッシー、ジャン・コクトーやピカソと出会い交流を深めます。
「黒猫」で出会った多くの芸術家達に影響を受けたサティは、
この頃に代表作である「3つのジムノペディ」や「グノシエンヌ」などを作曲しています。
また、1889年に開かれたパリ万国博覧会では日本の音楽に触れたと伝えられています。
最終的に「黒猫」の店主と喧嘩別れとなったサティは、
1898年からパリ近郊のアルクイユに移住し、
再びシャンソンの伴奏者として生計を立て始めます。
エリック・サティの生涯4、思い直して大学に再入学
「退屈だ」という理由でパリ高等音楽院を退学したサティでしたが、
正式に学校を卒業していないことにコンプレックスがあったのか、
再び音楽学校に通い始めます。
1905年、39歳でスコラ・カントルムに入学したサティは、1908年に「対位法」で学位を取得し、1912年まで作曲の勉強を続けます。
音楽学校に再入学した際、友人のドビュッシーから「君の年齢では生まれ変わるのは難しい」という苦言を呈されたそうです。
しかしサティは無事に大学を卒業し、作曲家としての基礎を徹底的に学びました。
エリック・サティの生涯5、20世紀になり、「異端者」として人気者に
音楽大学で再勉強したサティは、徐々に周りから認められるようになります。1916年、サティの「3つの小品」が詩人のジャン・コクトーの目に留まり、コクトーの誘いでバレエ「パラード」の制作に加わります。
バレエ「パラード」は、台本ジャン・コクトー、美術パブロ・ピカソ、音楽エリック・サティ、振付レオニード・マシーンという錚々たるメンバーで作成され、バレエ・リュスによる初演は一大スキャンダルを巻き起こしました。
エリック・サティの生涯6、BGMという概念の元祖
1920年代、サティは「家具の音楽」という概念を提唱しており、これは現在では当たり前となっている、カフェやレストランで流れるいわゆる「BGM」の元祖と言われています。
サティ以前の音楽は、コンサート会場で作品を静かに鑑賞するのが主流でした。
しかしサティが提唱した「家具の音楽」とは、まさに家具のように、日常生活の中に「音楽を溶け込ませる」という概念に他ならなかったのです。
サティがいなければ、カフェやレストランでBGMが流れる習慣は生まれなかったかもしれませんね。
晩年
晩年のサティは、当時流行していたトリスタン・ツァラやマルセル・デュシャン、フランシス・ピカビアなどのダダイズムの芸術家らと交流し、作曲活動に専念しました。
1924年にはまたもピカソやマシーンらとバレエ「メルキュール」や「本日休演」などの作成に取り組み、生涯を音楽に捧げました。
ちなみに「本日休演」は、ルネ・クレールの短編映画「幕間」にも使用され、
サティにとって初の映画音楽となっています(映画にはサティ本人も出ているそうです。
そんな大活躍のサティでしたが、日頃の大酒飲みが災いしたのか、
肝硬変と胸膜炎を患い、1925年7月1日、59歳でこの世を去りました。
エリック・サティのエピソードは?
「変わり者」「異端児」と称されたサティにはどんなエピソードや逸話があるのでしょうか。今回は有名なお話を簡単に紹介します
曲のタイトルが意味不明
サティと言えば「ジムノペディ」や「グノシエンヌ」、「ジュ・トゥ・ヴゥ」など美しい作品が有名ですが、だんだんと作風が変化していきます。
そして同時に、作品のタイトルもユニークなものになります。
例えばこんなものがあります。
・<犬のための>ぶよぶよした変奏曲
・<犬のための>ぶよぶよした本当の前奏曲
・干からびた胎児
・あらゆる意味にでっち上げられた数章
・家具の音楽
などです。どんな作品なのか気になりますよね?
サティの楽譜には拍子記号・縦線・小節線・終止線などが排されていたりと、
現代音楽に繋がる新しい作曲方法を発明したことでも知られています。
一時期秘密結社に入団していた
キリスト教の秘密結社に「薔薇十字団」という秘密結社があります。
サティは一時期「薔薇十字団」に入会し、1891年には聖杯の薔薇十字教団聖歌隊長に就任し、薔薇十字団のための作品を作曲しました。
・薔薇十字団の最初の思想
・薔薇十字団のファンファーレ
などがそれにあたります。
その後、創立者と喧嘩別れしたサティはみすから宗教を立ち上げ、
自身が作曲したメロディを販売していたそうです。
しかし、会員はサティ1人だったと言われています。
護身用にハンマーを持ち歩く
伴奏家時代、職場までの往復20キロの道のりを毎日歩いて通っていたサティ。
そのため護身用にハンマーと傘を常に携帯していました。
「引っ越せば良いのに」と思いますが、伴奏家時代のサティの経済的状況は不安定で、
自宅の電気も水道も止められていたため、引っ越すこともできなかったそうです。
作品を静かに聴くと怒られる
上記のように、晩年のサティは「家具の音楽」を作曲しました。
これは「日常生活に音楽を溶けこませる」というコンセプトだったため、
初演の際、聴衆に対して「音楽が存在しないようにお過ごしください」との注意書きが張り出されました。
しかし音楽が始まると、聴衆はいつも通り音楽に耳を傾けたため、
これに怒ったサティは「だから音楽を聴くんじゃない!!普段通りに喋れ!!」と会場を怒鳴り散らして回ったそうです。
まさに変人・・・。
でもこれがのちに、イージーミュージックやBGMとして浸透したのですから、
サティは先端の先端を行っていたのかもしれませんね。
エリック・サティの死因は?
59歳でこの世を去ったサティ。存命中も奇抜な音楽家として何かと注目を集めていましたが、
サティの作品や発想は、のちのストラヴィンスキーやメシアンなどに大きな影響を与えました。
なので、サティは西洋音楽史(とくに20世紀初頭の音楽)にとってまさに革新的人物だったことは間違い無いでしょう。
サティは大のお酒好きでも有名だったそうで、
肝硬変と胸膜炎を併発しこの世を去りました。
生涯独身を貫いたサティですが、
もしかしたら寂しさがあったのかもしれません。
エリック・サティの解説まとめ
エリック・サティの生涯やエピソードについて紹介しました。
作品もさることながら、サティ本人も興味深い人物だったようです。
変人エピソードがたくさんありましが、作品は美しいものが多いので、
是非サティの作品を聴いてみてください!!。
次回はサティのおすすめ作品を紹介します。